30. エリウスはどこ
レオナルドはセシリアを宮殿へ連れ帰り、小さなセシリアが使っていた部屋へと案内した。
三年前、何度も足を運んだこの部屋。
レオナルドはここを訪れるたびに、胸が躍ったものだ。生きているのが、楽しかった。そんなことは、それまでなかったことだ。
だが今、その部屋には、彼が愛したセシリアはいない。彼女はセシリアではなくて、その弟だったのだ。
そんな事実が、レオナルドの胸をじわじわと締めつけていった。
「ソフィラを呼べ」
レオナルドが命じると、侍女たちは慌ただしく動き出した。
まもなくソフィラが部屋に現れ、目の前の王女セシリアを見た瞬間、思わず膝をついてすすり泣いた。
「セシリア様……よく、ご無事で……、ご無事でいてくださいました」
セシリアは何も言わず、不思議そうな顔をしている。
ソフィラの視線は、セシリアの頭の包帯に釘付けになった。
「お怪我をなさってしまわれたのですか」
「あなたは、だれ」
「ええっ。私を覚えていらっしゃらないのですか。私はあなたの女官のソフィラですよ。ふたりで、アストリウス国に向かっていたではありませんか。思い出せませんか」
「わかりません。エリウスはどこですか」
ソフィラは、セシリアが怪我のために、記憶を失っているようだと侍女が耳打ちした。
「すぐに、治られますよね」
ソフィラは王を見上げた。「必ず、もとの王女さまに戻してくださいませ、お願い申し上げます」
「わかっておる」
レオナルドは宮廷の医師団に診察をさせた。頭部や腕の傷は、時間とともに癒えるだろう。しかし、失われた記憶がいつ戻るのかは、誰にも分からない。
「少しずつ戻ることもあるし、ある日突然思い出すかもしれません。けれど、それが明日なのか、五年後、十年後なのかは誰にも予測はできません」
と、医師は慎重に言葉を選んだ。
「私が昔のことをたくさんお話しすれば、きっと、記憶が早く戻ると思います」
「そうかもしれない。必要なものは何でも用意しますから、よろしく頼む」
「はい」
ソフィラは、エルナリス国から輿入れの際に持ち込まれた美しいドレスをセシリアに着せて、丁寧に靴を履かせ、メイクを施した。
セシリアはその装いを整えるたび、少しずつ穏やかな表情を取り戻していった。
「あなたは、エルナリス国の王女、セシリア様でいらっしゃいますよ」
ソフィラはことあるごとに、そう教えた。
「セシリア様は、昔から化粧がお好きでしたね。それから、剣術もお得意で、女の子らしさを求められても、決して剣を手放さなかったお方です」
ソフィラは、セシリアが好んだ話題を口にしながら、彼女の記憶が戻ることを心から願った。
セシリアはしばらくその話に耳を傾け、少しだけ微笑むことができた。しかし、その笑顔はすぐに曇り、
「エリウスはどこ……?」
と繰り返すのだった。
「エリウス様は、きっとお元気でいらっしゃいますよ」
「エリウスはどこ?」
「どこにいらっしゃるかは分かりませんが、きっと無事にお過ごしです」
「エリウスは……殺されてしまったの?」
「いいえ、そんなことはありません。あのリリルが、エリウス様をしっかり守っていますから、心配いりません」
「リリル?」
「はい、セシリア様の女官だったリリルです。足の速い、賢い子です」
しかし、セシリアの瞳には依然として不安が浮かび、彼女はまたあの言葉を繰り返す。
「エリウスはどこ?」
セシリアの記憶は、嵐の日の蝋燭の炎のように揺れ動いていた。ほとんどのことは薄れ、朧げにしか残っていない。しかし、ただ、彼女の脳裏にしっかりと焼き付いていたのは「エリウス」という名前なのだった。
「エリウスはどこ」
とセシリアが繰り返すたびに、レオナルドの胸には痛み、無力さと共に深い哀しみが広がった。
*
王女セシリアが宮殿に来てから、ほぼ一ヶ月が経過した。肩や腕の傷はすっかり癒え、髪に隠れている傷も、強く押すとまだ痛みが残るものの、着実に回復の兆しを見せていた。
ソフィラは毎日セシリアに話しかけ、次第にセシリアの反応も増えていった。時には、微かな笑みを浮かべることもあった。
「私は、セシリア?」
ある朝、ソフィラがブラシで髪を整えていると、ふと振り返り、そう尋ねた。
「はい、そうです。あなたはエルナリス国のセシリア王女です」
「ここはどこ?」
「アストリウス国です」
ソフィラはセシリアの脳が動き始めているのを感じ、慎重に、そしてゆっくりと答えた。
「どうして、ここにいるの?」
「それは、セシリア様がレオナルド国王の元へ嫁いで来られたからです」
「嫁ぐ?」
「ご結婚のことです」
「結婚?」
「はい。セシリア様は、これから王妃になられるお方なのです」
「ああ。エリウスはどこ?」
セシリアがまたいつもの質問を繰り返し始めた。そこで、ソフィラは少し話題を変えることにした。
「エリウス様は、どなたですか?」
「エリウスは……だれ?」
「セシリア様はいつも気にかけておられますが、いったいどなたのことですか?」
「エリウスは、とてもかわいい」
「エリウス様は、もしかして、弟さまですか?」
「弟? わからない」
ソフィラはエリウスのことを教えたら、どうなるだろうかと考えた。
「エリウス様は、三歳年下の弟王子さまですよ。とてもお姉さまを大切にしておられて、お姉さまのお願いを一度も断ったことがありません」
「なんてかわいい子」
「お姉さまもエリウス様をとても大切に思っていて、いつもかばっていらっしゃいました」
「そう?」
「はい。たとえば、エリウス様が学校でいじめられていた時など、セシリア様が必ず仕返しをなさっていました。セシリア様は剣術に非常に優れていて、誰にも負けることがありません」
「エリウスは強くないの?」
「セシリア様の方がずっとお強いのです」
「私のほうが強いのね」
とセシリアは少し笑った。
「エリウスはどこにいるの?」
再びその質問が繰り返されたが、ソフィラは、セシリアが少しずつ前進している実感を得ていた。




