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海保と警察

2. 海保と警察

伊勢氏の死亡原因は海難事故によるものか。それともこれは何かの事件なのか?海上保安庁は、水死体の身元が我ら海上保安庁のOBであること、またかすかに頭部に打撲痕のような痕跡が見受けられたことから、念のため遺体を司法解剖に回した。翌日、名古屋医科大学病院法医学室による司法解剖の結果が出た。死因はやはり溺死。死後、10時間から20時間程度。頭部の打撲痕は生前ついたものであると判定された。船内で何かに頭をぶつけて、海に落ちて溺れたと言えるし、また、海に落ちて漂流中に頭部に何かがぶつかり溺死した、とも言えた。伊勢氏は水泳が大変得意で、いくらライフジャケットを着ていなくとも、頭さえぶつけなければ、泳いでボートに戻ることができ、簡単に水死するとは考えにくいというのが海上保安庁の見解だった。

第四管区海上保安本部トップの岸本正雄本部長のところへ、解剖所見を含めてこれらの報告があがった。岸本は報告書を何度も読み返すと、部下の北浜史郎刑事課長を席に呼んだ。「北浜君、どう思う?」岸本は自分では判断がつかず、北浜を呼んだのだ。いきなり尋ねられ北浜課長も戸惑った様子で「本部長、どうとは?」と聞き返した。「伊勢さんの死が、単なる事故なのか、それとも事件なのかということだよ。」「はっきり言ってこれだけではわかりません。ただ、伊勢さんのことはよく知っていますが、海で溺れて死ぬというような人ではありません。想像ですが多分、頭をぶつけたことで泳げなくなり溺死したのではないかと思います。」とよく知る伊勢のことを思って北浜が答えた。「それでは海に落ちたあと、別の船か何かにぶつけられたということですか?伊勢湾にはさまざまな漂流物があることを私も知っています。漂流していて流木などにあたったということでしょうか?」と本部長は聞いた。北浜は少し考えた。「それも可能性としてはあります。しかし、広い海、大きな流木にぶつかるというのは可能性としては低いかと思います。流木に当たったというのなら大変、不幸なことです。しかし、伊勢さんのプレジャーボートに同船者がいて、この者に殴られて海に落ち、そのまま気を失って溺死したということもあるように思われます。頭に生前ついたキズがあるということですから。なにせ泳ぎの得意な伊勢さんでしたから、年をとっても簡単に溺死するとは私には考えられません。」北浜が頭のキズを根拠に、事件としての可能性を疑うので、岸本が聞き返した。「それでは彼のボートに同船者がいて、その者に突き落とされたというのですか。それなら殺人だ。」「それもありうると思います。」と北浜は事件の可能性を主張する。「そうだとすると不幸な海難事故でなく、事件だ。海上保安庁だけでは手に負えないな。警察にも協力してもらわないと。それに伊勢さんは今は愛知県公安委員会の委員だ。県警のメンツもあるだろうから私から協力要請をお願いするよ。慎重に対応した方がいいと思う。」

本来これは、海で起きたことなのである。海上保安官は国土交通省所管の特別司法警察職員で、海上におけるあらゆる犯罪を捜査することができる海の警察官だ。海上犯罪捜査・海上警備のスペシャリストだから、警察などを呼ばずに海保だけで捜査ができる。岸本本部長のとった措置は異例中の異例だ。


海上保安庁の岸本本部長から愛知県警察本部長の三島彰人へ協力要請の電話があった。さっそく、数時間後に県警職員が名古屋港の一角にある第4管区海上保安本部へ駆けつけた。ガーデン埠頭に係留された南極観測船ふじの姿と名古屋港水族館がよく見える。海保と警察との情報共有のための会議ということで始まったのだが、県警からは事件捜査で過去に実績を上げている村井捜査1課長のもと、織田班の織田右近警部と斎藤蝶々巡査長が参加した。県警の三島本部長の判断で、現職の県公安委員が亡くなったということで、もしもの事故でなかったことを考慮して、県警のエースを充てたのだ。


はじめに海上保安庁の北浜刑事課長からあらためて、水死体の身元、発見状況、司法解剖結果、同時に近くで発見された漂流プレジャーボートの状況について説明がなされた。海上保安庁側は北浜課長のほか、海保刑事課の海野秀樹(一等海上保安正)と津軽碧(つがるあおい三等海上保安正。)が同席していた。津軽碧は長らく、伊勢氏のもと、海上保安庁官としての薫陶を受けて成長していた中堅の女性海上保安官だ。海保の方も伊勢氏のことをよく知る彼女を担当に充ててきた。彼女は海流については、保安庁の中でも一目置かれる存在である。潮の流れに興味を持ったきっかけは伊勢正義の影響だ。まだ海保の新人だったころに、東日本大震災が発生した。その直後に大型巡視船・金鯱に乗りこみ、東北沖に救助活動に向かった。鹿島灘や福島県沖で、漂流するガレキの中から、津波にさらわれた人々を見つけて救助しているときに、艦長の伊勢氏から「津軽君、この辺りの黒潮の流れはどうなっている。相馬市付近で津波に流されたら、今頃、どのあたりに漂流しているだろうか?」と聞かれたのだが、まだまだ勉強不足で即答できなかった。そのとき、私にもっと知識があればもっともっと多くの人を救出できたかもしれないと後悔し、その後も猛勉強を続けた。現在では中堅職員だが海保では潮流の権威として認められつつある。その恩人の先輩の伊勢氏が亡くなったのだ。自然と捜査に力が入る。


海保の海野は、「お忙しいところ県警の方にもご足労いただきありがとうございます。早速ですがこれまでのところ分かっている点をこちらのホワイトボードにまとめてありますのでご覧ください。」とボードを見ながら説明を始めた。「昨日5月13日の午後2時31分に海難事故の緊急通報番号118番に水死体があるとの通報が入りました。通報者は通りがかった小型の貨物船の船長からです。」「場所はこのあたりです。」と津軽女士が名古屋港の海図を示した。斎藤蝶々刑事がそこを見てすぐに言った。「丁度、名古屋港の高潮防波堤の外側あたりですね。昔、熱田の七里の渡しから桑名まで東海道で海路だった丁度途中のところですね。」「そうです。名古屋港には高潮防波堤が3つあります。愛知県側の知多半島側からのびる知多堤と三重県側からのびる鍋田堤、それにその真ん中に中堤という3つの堤防があります。堤防の内側が名古屋港です。発見されたのはこの鍋田堤の外側です。」と津軽が再び海図を示しながら言った。

「通報を受けて、海保の巡視艇・若鯱が現場に迎い、水死体を引き上げました。船上で簡単な検死を行ったのですが、水死だと思われるものの、頭部にうっすらではありますが、傷があり不審な点があるため、名古屋医科大法医学教室で司法解剖を行ってもらいました。その結果、死因は溺死ですが、傷は生前についたものと判明しました。」と海野が説明する。「身元はどうしてわかったのでしょうか?」と蝶々刑事が尋ねた。「プレジャーボートの所有者から判明しました。われわれ海保の関係者だったのです。伊勢正義氏64才、現在は愛知県公安委員会委員で、2年前まで海上保安庁に勤務していました。」「服装は?」「こちらの写真のとおりです。取り立てて特徴はないのですがライフジャケットを着ていません。」海野が説明を続けた。「遺体を回収した後に、今度は無人のプレジャーボートが漂流しているという釣り人からの通報があり、再度、巡視艇・若鯱が現場に迎い、ボートを係留して回収してきました。調べたところ伊勢正義氏所有のおおぞら号でした。おおぞら号はセントレア常滑マリーナ所属で、まだ電話でしか確認していませんが、同マリーナを5月12日夕刻に出航したとのことです。」今度は織田右近警部が質問した。「そうすると伊勢正義氏は自分のボートで夕刻、常滑にあるマリーナを出て、そのあと伊勢湾のどこかで海に落ちて、水死し、翌日の午後に、遺体とボートが名古屋港の外側で別々に見つかったということですね。」「そのとおりです。」蝶々刑事がまた尋ねた。「遺体とボートの発見状況はわかりましたが、素人でわからないので教えてください。伊勢湾の潮の流れですが、遺体はボートから落ちて鍋田堤近くで見つかったわけですから、どのあたりで落ちたと考えられますか?」今度は津軽が説明し始めた。「こちらをご覧ください。伊勢湾の潮の流れを示した海図です。伊勢湾でも潮のみちひきがありますが、概して湾内では沖合は湾の奥、即ち名古屋港方向に流れています。従って、常滑から出港して沖にでて、ボートから落ちたとするとどこで落ちても、伊勢湾の奥に流されて、高潮防波堤近くまでくると思います。ですから、遺体もボートも現場で発見された点はうなずけます。」長年、潮の流れを調査してきた津軽女士が自信をもって答えた。「というと常滑の沖合というだけで、はっきりとした転落地点はよくわからないということですか。」と織田が確認のため聞いた。「残念ですがそのとおりです。ピンポイントで場所の特定はできません。常滑の沖合としかいえません。もっと安全を見ると、伊勢湾の真ん中あたりはすべて可能性があります。」と津軽が付け加えた。

織田刑事が話題を変えて尋ねた。「プレジャーボートの方ですが、何か異常はありませんでしたか?」海野が海保で調べたボートの実況見分結果を見て、答えた。「大型船に当て逃げされたことも可能性としてはあると思い、調べたのですが船体にそのようなキズはありませんでした。ただエンジンは停止した状態でした。なぜかはわかりません。転落したときにエンジンがかかっていたならそのまま、船主がいないまま、進行を続けていたと思うのですが、そんな様子もありませんでした。エンジンを止めて釣りなどをしようとしていたのかもしれません。」今度は蝶々刑事が尋ねた。「船内の指紋をとりましょうか?県警の鑑識課で行えばよろしいでしょうか?」「いや、今、海保の方でやっています。」蝶々刑事が最も疑問に思ったことを聞いた。「なぜ、伊勢さんはボートから落ちたかですね。同船者はいたのでしょうか?」「それはわかりません。これからの捜査ですね。誰かと一緒だったら、その人が突き落としたとも考えられます。」と北浜課長が事件である可能性を述べた。「伊勢氏は泳ぎの方はどうですか?」と織田刑事が尋ねた。「もちろん、水泳は得意で、たとえ海に落ちても簡単に溺死するような人ではありません。」と海保の皆が一様に答えた。「それではやはり頭にうけた損傷が原因で泳げなくなったということでしょうか?」と蝶々刑事がつぶやく。「頭部の傷は形状から何かわかりますか?」と続けた。「キズはごく薄いもので形状も特定できないそうです。でも致命傷になるものではないそうです。死因はやはり水死です。」と北浜課長が答えた。

こうして、事故と事件の両面で捜査が必要になり、海上保安庁と愛知県警による合同捜査が行われることになった。本件においては慣例により、陸上捜査は県警が、海上捜査は海上保安庁が中心に担当するという暗黙の了解がとられた。海保側にとっても県警側にとっても亡くなったのが自分たちの現在のボス、または元上司にあたる人物であったから、合同捜査といっても我先に真相をつかもうとそれぞれ殺気立っていた。

ずっと黙って海保と県警のやりとりを聞いていた村井捜査1課長が口を開いた。「まだ事故なのか事件なのかはっきりしないが、頭の傷が何によってついたかがポイントですね。特に、いつどこで、何によってついたのか。船内でついたなら船に痕跡があるかもしれない、それらはありますか? 船外で付いたのなら、つまり海に落ちたあとついたなら、何か漂流物にぶつかったとか。それが原因で泳ぎの得意な伊勢さんでも泳げなくなったのではないか。」今度は、蝶々刑事が津軽の方を向いて聞いた。「伊勢湾では流木などあるんでしょうか?人が漂流しているときにぶつかる可能性のあるものは何ですか?」津軽女士が「皆さんは、広い海でぶつかるような漂流物などないように思われますが、海の上でもいろいろな物が流れてきます。おっしゃる通り流木もあります。大雨の後などは河川を流れて伊勢湾まできます。また、さまざまなゴミが漂っています。灌木・流木、ウキ、ブイそれに生活ごみのペットボトルなどプラスチックごみなど」と説明する。「海は近頃きれいになったのに汚染が止まらないのですね。」と蝶々刑事が改めて感想を述べた。「ウミガメ、魚がプラスチックを餌と間違え食べてしまい体内にマイクロプラスチックが蓄積され、大きな問題になっています。海洋汚染は伊勢湾といえども同じです。」と津軽が続けた。「ということは頭をぶつける可能性のあるものは無限にあるということですか?」と蝶々刑事が残念そうにいう。「そうかもしれません。ただし、頭に傷をつけるくらいのものですからある程度、大きなものでしょう。ペットボトルではそんな傷はつきません。やはり、流木くらいではないかと思われます。」と津軽が推測を述べた。織田警部が蝶々刑事と津軽のやり取りを聞いていて、口をはさんだ。「やはり同船者がいたかどうかがポイントですね。伊勢正義さんひとりだけなら何らかの原因で海におちて水死した。この場合は事故だ。同船者がいたなら、その者に突き落とされたか、殴られたか。しかし、その場合、同船者はどこに行ったのか?海の上だ。どうやって、現場の海を離れたのか?」と疑問を提起した。蝶々刑事が「犯人の逃走経路との関係で重要なことと思われます。もう一度、伊勢湾の潮の流れがどうなっているか教えてください。水死体とボートが流れついた現場はわかっているので、どこで海に落ちて漂流すると現場に流れつくのでしょうか?先ほどは伊勢湾の真ん中すべてという話でしたが、津軽さんは特にどのあたりが一番くさいと思いますか?」と言って、海図を指さした。

第4管区きっての伊勢湾の潮の流れの権威、津軽が再度説明を始めた。日ごろから、巡視船・若鯱に乗って伊勢湾の隅々まで潮の流れの調査をしている。「それでしたら改めて、こちらの海図をつかってご説明します。先ほど、ご説明したように、大きくいって伊勢湾では中央部では湾の奥に向かって、つまり名古屋港に向かう潮流があります。これはいつも昼夜を問わず、潮の満ち引きに関係なくいつも流れています。つまり、伊勢湾の中央部ではどこでも漂流を開始すると奥に流され、発見現場方向に流されます。そしてもし発見されなければ、その後は沿岸に沿って、今度は愛知県側も三重県側も、特に三重県側は木曾三川の川の影響を受けて、伊勢湾の外側に向かって流されたことでしょう。愛知県側では、知多半島沿岸に沿って、三重県側では桑名、四日市沿岸に沿って流れる沿岸流がありこれに乗って、伊勢湾の入り口方向、即ち伊良湖水道の方へ、外海方向に向かって流されたと思われます。こうしたことから伊勢正義さんとそのボートは、常滑を出航し、沖合にでたあと伊勢湾の中央部で漂流を開始し、奥に流され数時間を経て、鍋田堤防付近へ到達したものと思われます。先程は、漂流開始、即ち転落地点は常滑の沖合としか言えないと申し上げたのですが、斎藤刑事のご質問に敢えて答えるなら、可能性が一番高いと思うのはこの辺りではないかと思います。」と言いながら津軽が差し示したのは、中部国際空港の空港島の西側から北側にかけての海域だった。「津軽さんありがとうございます。よくわかりました。」と蝶々刑事がお礼を言った。

この日の会議はこれで終了した。会議終了にあたり、プレジャーボートの詳細検証は海保にて、ボートが出航したマリーナへの事情聴取は県警が当たることになった。まずは当日の伊勢氏の行動を調べることになった。


県警に戻ると村井課長から織田、蝶々両刑事に「海保に負けるな。死んだのは公安委員だ。海保より先に真相をあばけ。」と発破がかかった。「もし、現職の公安委員が亡くなったのが事故ではなく、事件だったら。それを見逃していたなら大変な失態だ。やはり事件の可能性が少しでもあるなら、事件と疑って捜査しよう。結果事件でなく、事故でもいい。いくら泳ぎの得意な伊勢氏といっても春の海で水温も冷たいし、ライフジャケットなしなら力つきて溺れたのかもしれない。その可能性の方も十分あると思う。」と村井が言い放ったあと、「そうだ、当日の海の水温についてはもう一度、海保に確認しておいてください。」と追加指示した。

海保の方でも会議終了後、北浜課長から海野、津軽女士へ「わが海保のOBである伊勢正義さんの弔いのためにも事件の真相を県警より先に突き止めよう。伊勢さんが簡単に溺れるはずはない。きっと、同船者がいて殴られて溺死してしまったのだと思う。その証拠を何としても見つけろ。伊勢さんのボートの検証はしっかりと行ってください。」との指示が出た。


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