だしぬけに中華娘
また月曜日がやって来たので学校へ行かなければしかたがない。準備をしながらテレビをつけると、いつもよりは多少面白いニュースがやっていた。
「昨日、中国から少女たちが大挙して押し寄せてきました。空港に向かった当局の取材班によれば、彼女たちはみな同じ村の出身であり、どうもそこではずいぶん前から女の子しか生まれなくなったとのことで、日本へ来たのもボーイハント、すなわち婿探しが目的の模様です」
テレビではかわいらしい服を来た少女で空港が埋め尽くされていた。コミックマーケットでもこんな混雑ぶりはお目にかかれまい。
しかしまあ、おれには関係のない話だ。
そう思って家を出たとたん、何か高速で動くものにぶつかって、おれの体は地面に叩きつけられた。
てっきり自動車にはねられたのかと思いきや、おれの側には自動車なんて一台もなく、ただ女の子が一人倒れているだけだった。
その子の服はついさっきテレビの中で見たものとそっくりだった。おれはいやな予感がした。これだから月曜日はきらいなのである。
おれの体はまだ痛くてまったく動かせないが、その子はもうむくりと起き上がっていた。
「アイタタタタタタ。到着早々事故あるな。ツイてないあるな」
びっくりするほどかわいい女の子だった。まるでラノベの表紙から抜け出てきたようなのである。髪には赤色のリボンが結ばれており、それもまた可憐だった。
「あのう、大丈夫かい」
おれが声をかけると、女の子はきっとなってにらんだ。こんな眼でにらまれたのは生まれて初めてだったので、もうどうしたらよいのかわからなくなり、とりあえず笑いかけてみた。
「何笑てるか」
失敗のようだった。
「わたし日本にボーイハントに来たあるよ。婿探すまで村に帰れないね。なのにお前道でぼけっとしてわたしにぶつかたあるな。いたいどういうつもりか。もし顔に傷がついたらどうするね。責任とれるか。とれないあるな。じゃあなんでそんなことしたあるか。意味不明ね。理解不能ね。お前の頭の中にはきのこでも生えてるあるか」
ここまで言われて黙っていられるおれでもなかった。が、相変わらず彼女の眼は厳しいので、自然としどろもどろになってしまった。
「えっと、あのう、痛かったのはごめんよ。でもですね、あー、どちらかって言いますとですね、そのう、きみのほうがおれにぶつかったという風に記憶しておるのですが。あっ。あっ。怒らないで」
彼女は目を吊り上げた。おれは今の発言のすべてを後悔した。コントロールキーとZキーがないかと思わず辺りを見回してしまったほどだ。
「お前わたしにケガさせておいて全部わたしのせいにするあるか」
「ケガなんてしてないじゃないの」
「超繊細なるわたしのケガも超繊細あるな。お前ごとき鈍臭いまぬけの目には見つからないことよ。それとも、あっ、まさか、ここで服を脱いで見せろと言う気あるな。最低ある。外道ある。異国にて右も左も分からない娘を掌の上でもてあそぶ悪魔ある。お前みたいなやつは除霊されてしまえ」
「妄想も大概にしろ」
彼女はどう見てもかすり傷一つないようだった。一方こちらは全身打撲かつあちこちを擦りむいて出血している。いったいなぜどうしてなにゆえおれを責めるのか。悪魔はお前だ。etc。
等々、もごもごとおれはつぶやいた。もちろん、こんなことを大声で彼女に言ったならば、それはそれは恐ろしい事態に発展することが簡単に想像できたからだ。
おれは危機予測能力にだけは定評がある。小学二年生の時にはそれで褒められたこともある。数少ない成功体験であり、繰り返し記憶から取り出しては泥団子みたいに磨いている。
おかげでだいぶ粉飾され、もはやノーベル賞の受賞と同クラスの偉業にまでおれの中では序列づけられているほどだ。眠れない夜もこのことを想像しさえすれば二秒後には夢心地である。
「わたしの故郷の村では娘っ子にケガをさせた男は相手の言うことを何でも一つ聞かなきゃならんあるぞ。だからお前もわたしの言うこと聞くあるな。これ絶対なるぞ」
「でもケガしてないのでは……」
「断たら死刑ある。そういう掟ある。お前阿呆だが命は流石に惜しいね。だからわたしの言うこと聞くね」
おれはまた地面に叩きつけられた気がした。
「冗談じゃない。ここ日本だぞ。きみの故郷の掟だかなんだか知らんがそんなものここでは通用しません」
「何言うか。わたしが行くところどこにでも故郷の掟もついて回るね。だからお前にももれなく適用することぞ。さあ、ほら、死にたくなかたらととと立ってわたしを手伝うあるな」
こうして、本当におれは彼女の言うことを聞く羽目になってしまった。最初に見たときはかわいいと思ってしまったが、こうなってはもはやそのかわいさも悪魔の罠のように見えてぞっとする。
きっと夢にまで出ておれを苦しめ、老いてなお古傷として余生を責めさいなむにちがいない。こんな不条理が許されていいのか。よくない。だがおれはやっぱり何も言えず、とぼとぼと彼女について歩くのだった。
「わたしの名前はネンネン言うね。だけど呼び捨てにしたらぶ飛ばすあるぞ。必ず様をつけることあるね」
「ネンネンさま」
「それでよし」
何がいいものか。
「ところで、あのう、ネンネンさま。いったいおれは何をしたらいいんでしょうか」
おれはこわごわ訊いてみた。常識の枠をはるか越えた彼女ではあるが、まさか竜とでも戦えとは言うまい。
「お前阿呆あるか。わたしが日本来た理由はもう言たはずあるぞ。婿探しね。ボーイハントね。馬車馬みたいな美男子を見つけて村まで連れ去り、死ぬまで働かせるある」
彼女の未来の夫に同情を禁じえず、おれは思わず涙ぐんでしまった。これならまだガレー船で一月オールを漕ぐほうがマシかもしれない。
少なくともガレー船にネンネンはいないだろう。
「お前男がたくさんいるところ知てるあるか。わたしみたくとびきりに若いぴちぴちの生まれたてのもぎたての男じゃなきゃダメあるぞ」
おれが思いつく場所は一つしかなかった。
「……おれの学校とか」
級友たちよ、おれを許せ。
*
生徒も先生たちもテレビを見ていたようで、まるで画面からそのまま飛び出してきたかのようなネンネンに目を見開いていた。早くも顔をぼおっと火照らせているのんきな男子もいる。中身の邪悪さも知らないで……
だがみんなが注目しているのはネンネンだけではなかった。その隣にいるおれにまで興味しんしんの目が向けられる。恥ずかしいったらありゃしない。
おれはまったく目立たない学校生活を築き上げたというのに、校門から教室にまで来るただの数分ですべてが崩れてしまった。
明日からは「中華娘を同伴して学校に来た謎の男」という定評に覆されてしまうにちがいない。もういやだ。
「なあ、その女の子どうしたんだよ」
あちこちから声をかけられ、おれは涙涙のいきさつを語った。おれの不遇にみなが同情の涙を流したかと言えばまったくそんなことはなく、あまつさえこんな美少女とお近づきになれるなんて羨ましいなどとのたまう不届き者まで出現した。
憤怒にかられたおれは箒の柄でそいつの脾臓のあたりを突いてやった。
「こら。何遊んでるあるか。ささとわたしの婿候補どもを集めるある」
ネンネンに命じられ、おれは彼女と付き合ってもよいという男子を校内あちこち駆けずり回って募集した。
おれが意図的に彼女の性格面の問題を伏せたこともあるだろうが、可憐な見た目に釣られたと思わしき愚か者が数十人も体育館に集まった。
おれの学校にはこんな馬鹿者ばかりが集まっていたのかと思うと、ここに入ろうと励んだ受験勉強の日々が無性に虚しくなってくるのだった。
ネンネンは壇上に立ち、中国からの来訪者に完全にその心を奪われてしまった男子たちに向かって声を張り上げた。
「あー、わたしの婿候補ども、よく集またあるな。当たり前あるが、わたしが村に連れ去、いや連れて帰るのはこの中の一人だけある」
男子たちは早くも互いににらみをきかせ合い、対抗心を掻き立てられたようだ。アホか。勝手にやってろ。
「わたしの村では男の価値は何よりもその強さで決まることよ。いくら顔がよくても優しくても頭がよくても家柄がよくてもダメね。強くないなら他がいくらよくても無価値ある」
ネンネンは傲岸不遜に男子どもを見下ろした。
「だからテストをするね。試練あるな。かぐやとかいう娘もやたそうあるな。イモくさい名前だからさぞかし冴えない顔だたあろうけれど、それに引き換えこのとびきりの美少女たるわたしがお前らをふるいにかけてやるある。ついてこい」
壇から飛び降りると、ネンネンはもはや一触即発といった様相の男子たちを引き連れて体育館から出ていった。ぼんやりとそれを見送っていると、しばらくして彼女が戻ってきた。
「おい、何やてるか。お前も来るあるぞ」
「おれは別にきみの婿になんかなりたくないぜ」
「うるさい」
おれはネンネンに首根っこを掴まれて外まで引きずられていった。悔しいが手も足も出ない。まあ、体力テスト万年ドンケツの力量なんてこんなものだ。
「ここらへんに竜のすみかはないあるか」
この人は本気で言っているのだろうか。
「ここらへんにはないし、たぶんどこにもないんじゃないかな」
「どこにもないとは聞き捨てならないあるな。わたしの故郷にある山脈には二十頭くらいが群雄割拠してるあるぞ」
「きみの村は魔界にあるのかい」
おれの言葉を無視してネンネンは続けた。
「ま、いないならしかたないことあるな。じゃあ虎でもいいある。虎のいるところを教えるある。どいつもこいつも虎になりそうなやつばかりあるから、いくらでもいるはずある」
「意味がよくわからないけど、虎が見たいっていうのなら……」
*
おれはネンネンと愚か者どもを引き連れて動物園にまで来た。チケット売り場に制服姿の男子が列をなすのは見ものだった。
なぜかおれも動物園に入るようネンネンに強要され、さらに彼女のチケット代まで払わされることになったため、あっという間に全財産が底をついた。
そろそろおれは神に怒ってもいいころだと思う。何の権利があっておれをこんな目にあわせたまうのか。おれが一体なにをしたというのか。つつましく学校生活を送っているだけではないか。それでは足りないというのか。なぜだなぜだどうしてだ。
おれが呪詛の言葉をつぶやいていると、ネンネンが近づいてきた。もしかすると、流石の彼女もおれの献身に対して心を動かされたのかもしれない。彼女も人の子なのだ。きっとねぎらいの言葉をかけてくれるのだろう。
「何ぶつぶつ言てるあるか。キモいあるぞ。早く虎のいるところにまでわたしを連れて行くある」
今ほど呪いが使えたらと思ったことはない。すべてが終わったら学校を辞め、秘境に住まう呪術師の元を訪ねよう。そして喉の奥が永遠に痒くなる呪いを彼女にかけるのだ。
おれはそれだけを希望にして体を動かし、ネンネンたちを虎がたむろする檻にまで連れて行った。
「さて、試験はここでやるある」
ネンネンは髪を結んでいた赤いリボンを外すと、何のためらいもなく、まるで池の鯉に餌を投げるように、檻の中へと投げ入れた。
「何やってるんですかあなた」
スタッフの悲鳴も、あ然とするおれたちのことも無視して、涼し気な顔でネンネンは告げた。
「さあ、わたしの婿になりたかたらいの一番にあのリボンを取てくるある。ちなみにあのリボンは“シュノグサ”というわたしの故郷の名産品でできてるある。人がさわても何も起こらんあるが、動物がさわたら無性に腹を立て、どんなに大人しいやつでもぶちぎれるある。ほら」
ネンネンが指差すほうを見ると、おお、リボンに触れるやいなや虎がすっかり野生を取り戻し、鋭い牙と爪とをもって互いに争っているではないか。
爪こそ切られてはいるものの、このままではCER□も青ざめるほどの流血沙汰になることは必至である。
「さあ、わたしの婿になろうというほどの男ならこれくらい楽勝あるな。ささと取てくるある」
誰も動かなかった。
あれほどネンネンに熱を上げていた男子たちも、いよいよ彼女のヤバさに気づいたのか、それとも野生をむき出しにした虎の、先祖伝来の恐怖を呼び覚ます咆哮に身をすくませたのか、とにかく誰もリボンを取りに行こうとはしなかった。
「ちょと、試験はもう始まてるあるぞ。他の男に先を越されてもよいあるか。早く取りに行くある。ほらほら」
するとそれまで処理落ちを起こしたかのごとく固まっていた男子たちが動き出した。
動きを取り戻した彼らはそのまま動物園の出口へと立ち去っていった。
「な、な、何あるか。たかだか怒り狂た虎あるぞ。わたしの父親は竜をぶちのめして母親をめとたあるぞ。それが何あるか。わたしのためには虎と一戦交えることもできない言うあるか」
ネンネンは怒りまくって地団駄を踏んだが、それにも構わず、ひとりまたひとりと男子は去り、とうとうおれ以外の誰もいなくなってしまった。
ネンネンはあっけにとられて佇んでいた。ちょっと気の毒な気もしたが、やり方がまずいのははっきりしていたから、そこのところを教えてやろうとして、ぎょっとした。彼女は泣いていたのである。
「えーんえん。ひどいある。あのリボンはおばあちゃんの形見あるぞ。それなのにあんな場所に放ておくあるか。えーんえん。どうして誰もわたしのために持てきてくれないあるか」
「最初にリボンを投げ込んだのはきみじゃないの」
おれの呆れ声も、彼女には届かないようだった。ぐすぐすと泣き続け、今のネンネンにはかつての高飛車さのかけらもなかった。
怒りまくった虎には飼育員も手が出せず、こうして見ている間にもリボンはもみくちゃにされ、今にも引き裂かれそうに見えた。
いたしかたあるまい。
「なあ、もう泣くなよ。今からおれがあのリボンを取ってくるからさ」
わあわあ泣いているネンネンは激しく首を振った。
「無理ある。できこないある。お前のごときモヤシかつアスパラガスかつゴボウかつアオビョウタンみたいなやつには無理ある。もうリボンは戻てこないある。破滅ある。ごめんなさいおばあちゃん。あーんあん」
「そこまで言うことないだろ。人間誰しも虎と対峙するくらいのピンチは乗り越えて生きてるんだ。そこには実際に虎が関わってるかどうかの違いしかない。だからおれにだってやれるさ」
実際にはかなりの大問題だと思うのだが、その考えも今は無視した。いったん湧き上がった勇気がかき消える前に、おれは柵に手をかけ足をかけ、虎のまっただ中へと飛び込んだ。
鋭利な牙も爪もなく、せいぜい慢性鼻炎しか持たないおれの登場に、一瞬虎たちもあっけにとられたのか動きを止める。
しかしおれがリボンを引っ掴んで逃げ出そうとしたときには、すでにあの力強い四肢で動き出しており、危うく背中の皮をバリバリと剥がされそうになった。
「わっ。後ろを見るある。虎が大口開けてるあるぞ。あっ。もうダメある。死ぬある。食われるある。でもその前にリボンを渡すある。渡したらもう死んでよいぞ」
文句のひとつ返せる余裕もなく、おれは必死に檻をよじ登りながら、ネンネンにリボンを渡そうとした。
しかしどこまでも神はおれを嫌いなようで、突然虎もぎょっとするほどの猛風が吹き荒れ、リボンはおれの手から弾き飛ばされた。
そのままリボンはふわふわと園内を漂っていき、やがてひとつの場所に落ち着いた。ただでさえ血の気のなかったおれの顔が、これ以上ないまでに青ざめたのがわかる。
そこはライオンの檻の中だった。
リボンに触れたライオンは尻尾にロードローラーでもかけられたかのように飛び上がって怒りまくり、群れをなして檻を飛び出した。
その勢いとまた吹いた突風とが力を合わせてリボンを吹き飛ばし、今度はサイを興奮させ、次はキリン、ゾウ、ペンギン、ゴリラ、カンガルー、ホッキョクグマ、シマウマ、フラミンゴ、チンパンジーと、園内にいた動物を一つ残らず発狂させ、檻から飛び出させた。
おかげで今や動物園は人のほうが檻に入りたいくらいの地獄と化し、獣があちこちを駆け回り、人間を引きずり回し、フラミンゴの群れが太陽を隠し、ゾウは駐車場をスクラップ場に変え、カンガルーとゴリラが殴り合い、キリンの首をチンパンジーがよじ登り、ホッキョクグマが冷気を求めてレストランの冷蔵庫に突撃し、下水道に逃げ込んだヘビが蛇口から出現し、シマウマが道路で競争を始め、ラクダが噴水で水浴びをし、サイが芝生を食い荒らし、ワニはベンチで寝そべり、どこからやって来たのか竜までが空を飛び狂い火炎を吐き散らし、その他ありとあらゆるめちゃくちゃと耳をつんざく鳴き声や雄叫びのせいで、このまま頭がおかしくなってもおかしくないと思われた。
おれはサイにどつかれ、カバに踏まれ、ゴリラに握りつぶされ、ワニに噛まれるなどしてぼろぼろになった。だがそれでもネンネンの元に戻ったとき、右手にはあの赤いリボンを握りしめていた。
「お前よくやたあるぞ。これさえあればもう大丈夫ある」
「もうどう見ても取り返しなんかつかないでしょうが」
だが彼女の言葉は本当だった。ネンネンがまたリボンを髪に結んだとたん、あれほど暴れ狂っていた動物たちは嘘のように大人しくなり、元いた檻の中へと帰っていったのである。竜も西方の空へと帰っていった。
「シュノグサは人間の髪に触れてると効果を失うあるな。だから故郷では地面に生えていたら片端から抜き取て、全部リボンにすることよ。そうでもしなくちゃあという間に生態系ぼろぼろね」
おれ自身が身を持ってぼろぼろになったので、ネンネンの言うことはよくわかった。
「それ、大事なものなんでしょ。いくら婿探しのためと言ったって、雑に扱っちゃよくないんじゃないの」
「む。お前わたしに指図するあるか。いつからそんな偉くなったあるよ」
言葉とは裏腹に、ネンネンはにこにこしていた。朝から彼女の不機嫌な顔ばかり見てきたせいか、その笑顔にはどぎまぎしてしまった。
「ま、一理あることね。お前の言う通り、もうリボンを使うのはやめるある。婿探しに来て逮捕されちゃつまらんあるからな」
ちなみにおれたちは今茂みの影にいた。というのも動物園のスタッフや警察たちが血まなこでネンネンのことを探しているからだ。見つかればそれこそ八つ裂きにされるのは明らかである。
「元々はお前のせいとはいえ、今日は一日、えと、……ありがとある」
やけにしおらしいネンネンの言葉に、おれは必死に理性を奮い立たせなければならなかった。
いくらこんなことを言ったって、今日一日のムチャクチャが全部なかったことになるわけではない、それは確かだ。
だがそれは別として、やはりこんな一面も、間違いなく彼女のひとつなのだろうとも思った。
そこまで悪い子じゃない、だろう、たぶん。うん。
「いいよ。学校行くよりは楽しかったさ。でもお婿さんが見つからなくて残念だったな。けど虎と戦えなんて言われたらたいていの男は逃げるのが当たり前……」
おれはふとネンネンを見て言葉を飲み込んだ。いったいこやつは何を言っておるのか、とでも言いたげな、きょとんとした目でこちらを見ていたからだ。
おれはとてもいやな予感がした。できるならばこのまま逃げ出したいが、そうもいかない。
というのも、ネンネンがおれの手をがっちりと掴んでいたからだ。
「お前何言うあるか。婿ならちゃんと見つかたあるぞ」
次の言葉は予言者でないおれにだって予測がついた。おれは一生この言葉を忘れないと思う。
「お前ある」
おれは彼女の手を振りほどいて一目散に駆け出した。
後ろを見なくてもわかった。おそらくネンネンはおれの脚力をあざ笑うほどのスピードで、自分の要求を満たした唯一のフィアンセたる人間に向かっていることだろう。
そしてまた、やがては彼女に追いつかれてしまうだろうこともおれにはわかっていた。それは足の速さとか体力とかの問題ではない。本気さの問題である。
悔しいことだが、おれは本当にネンネンから逃げたいのではないと、もうわかってしまっていたのである。