ネネフィーの戦い
ネネフィーが連れて来られたのは、王宮にあるとある庭園だった。
現在彼女は雪のちらつく中、その庭園の中央でぽつんと1人椅子に腰を掛けている。
一面が芝生に覆われたそこはこの時期花の一本すら咲いておらず、ネネフィーのすぐ側には、人工的な小川がさらさらと流れていた。
目の前に置かれたカップには紅茶が注がれているのだが、冷めきっているせいで湯気さえ出ていない。
時折強い風にあおられ、カップがカタカタと音を立てた。
ネネフィーは、テーブルの上に置かれた紅茶やお菓子をじっと観察する。
以前アズベルトに行ったように食べ物に呪いを混ぜているのかもしれないと警戒したのだが、その形跡はない。
突然誰かが殴りかかってくる、もしくは魔法をけしかけてくるかも分からない為、自らに防御魔法をかけ、今か今かとその時を待っていた。
しかしいくら周囲に意識を向けても、あからさまに敵意を向けてくる者はどこを探してもいなかった。
「あの……」
ネネフィーは自分から少し離れた場所で待機している王宮の使用人を呼んだ。
しかし聞こえなかったのか、フリなのか視線すら合わせてくれない。
(一体何が始まるのかしら? ジェンたち、無事に帰ることが出来たかしら?)
王宮に到着した際、何故かジェンや公爵家の騎士を伴うことを許されなかった。
ネネフィーだけが馬車から降ろされ、有無を言わさず連れて来られたのが今いる庭園。
東屋でもなく吹きっさらしの雪と風の中、もうかれこれ一刻ほど呼び出した張本人である皇女テレジアが来るのをじっと待っていた。
「え~あの~」
ネネフィーは再び使用人を呼んだ。
「……」
「あの、一度お手洗いにでも……」
「申し訳ございませんが、動かずにそのままでお待ちください」
ようやく言葉を返した使用人だったが、その視線と口調は非常に冷たく、ネネフィーの提案をばっさり切り捨てた。
(どうしましょう……)
ネネフィーは小さくため息を吐いた。
戦闘なら問題ない。
むしろ日頃の訓練を試せる絶好の機会の為、ネネフィーは楽しみですらあった。
しかし彼女は現在、別の要因で困っていた。
ミラー邸から出発する前、面倒くさくてお手洗いを済ませていなかったのだ。
ネネフィーは、ジェンに常日頃から就寝前と外出前には必ず済ませるようにと注意を受けている。
にもかかわらず、今日に限ってその言いつけを守らなかった。
(だって、いきたくなかったんだもの。……ああ、鳥肌が立ってきたわ……)
ネネフィーは腕を擦った。
気を紛らわそうとすぐ側に流れている小川に目をやるが、その水音さえも尿意を誘う。
ネネフィーはもじもじと太ももを摺り寄せる。
待てど暮らせど呼び出した当人である皇女テレジアは現れない。
ネネフィーの身体は、次第にカタカタと震え始めた。
(ううう、お腹痛くなってきましたわ……)
「あ、あの、本当にすみません。お手洗いに……」
「……」
ネネフィーの懇願さえも、使用人たちは首を横に振って全く取り合おうとはしない。
もういっそ、このままここでしてしまおうかとネネフィーが考えていると、数人の足音が聞こえた。
顔を上げると、そこには暖かそうな毛布に身を包んだ1人の侍女と、彼女を守るように数人の近衛騎士が立っていた。
「ふっ。いい気味だこと」
その侍女は、立ったままネネフィーを見下ろして鼻で笑った。
「私は皇女様の専属侍女でございます。ネネフィー・ロッシーニ。尊き皇女様のお言葉である。身の程を弁え、ミラー家と縁を切り、とくと領地に帰るがよい」
侍女はそれだけ言うと、近衛騎士と共に踵を返して去っていった。
「え………………あの?」
残されたネネフィーは、何が起こったのか理解できずにぽかんと口を開ける。
「お帰りはあちらです」
離れた場所に控えていた使用人がネネフィーの近くまでやってくると、突然席を立つように促した。
「え? まさか今ので終わりですの?」
「お帰りはあちらです」
「ねえ、ちょっと」
「お帰りはあちらです」
ネネフィーの問いに使用人は同じ言葉を繰り返した。
「ねえってば!」
使用人は、一向に立とうとしないネネフィーにしびれを切らしたのか、今度は彼女の座っている椅子を力任せに引いた。
衝撃でガクンとネネフィーの身体が揺れる。
「ひょっ……」
ネネフィーは小さく奇声をあげると、反動で側の小川に転がり落ちた。
バシャッ
大人の膝の高さにも満たない深さではあったが、ネネフィーはバランスを崩したせいでその場に座り込んでしまう。
「ひぃっ!」
流石の使用人たちも騒然とする。
皇女の指示とはいえ、自分たちよりも遥かに高貴な辺境伯令嬢への無体。
彼女が訴えれば処罰は免れないだろう。
椅子を引いた使用人の顔色は真っ青だった。
当のネネフィーはというと、水の中に座ったまましばらく微妙な顔をした後、ぶるりと1回大きく震え、まるで湯にでも浸かっているような心地良さそうな表情を浮かべた。
(ふわ~~、間一髪ですわ~!! 間に合ってよかったですわ~)
ネネフィーはほっと息を吐き、すっきりした顔で川の中から上がる。ぼたぼたとドレスから水がしたたり落ちて芝生を濡らす。
周囲を見ると、使用人たちが顔色を無くしている。
彼らの表情や視線を確認したネネフィーは、ふふふんと鼻で笑った。
(どうやらバレていないようですわね。落ちる寸前に防御結界を解除出来たのも大きいですわ。まるで、川の水だけで濡れているみたい。お母様が言ってましたわ。女性のドレスがふんわりしているのは、粗相してもバレないようにするためだって!)
そう。ネネフィーは椅子を引かれた瞬間、その衝撃ですでにちょっぴり漏らしてしまっていた。
それを隠蔽する為、敢えて体勢を崩したと見せかけて小川の中に転がり落ち、そのまま事に及んだのだった。
小さい頃、領地の森や林、湖の中、狩りの途中で致していたネネフィーにとって些細な出来事である。
この行為に羞恥心など一切なかった。
ちなみにネネフィー。
日頃の母との戦闘訓練のおかげで、寒さや冷たさへ耐性が非常に強く、現状それに対して辛さなど微塵も感じていなかった。
「ん、んん、こほん。あの、つかぬことをお伺いしますが?」
「ひっ!」
ネネフィーに話し掛けられた使用人は、真っ青な顔でビクリと飛び上がった。
「本当に私はこれで帰ってもいいのでしょうか?」
「……は、ははははい。そのように聞いております……」
「分かりましたわ!」
ネネフィーが周囲を見回すと、近衛騎士や使用人たちは気まずそうに視線を逸らした。
(なるほど! 確かにとんでもない嫌がらせでしたわ。まさか尿意と戦わされるとは!! 流石の私も苦戦しましたわ!)
完全にネネフィーの勘違いなのだが、しかしそれに見合った仕返しをしようとニヤリと笑いながら王宮を見上げた。
(お返しですわ!!)
ネネフィーは、身体からありったけの魔力を放出するとすぐに引っ込める。
一瞬の出来事であった為、周囲にいる者たちには全く気付かれることはなかった。
(こんなものかしら? 少し優しすぎるかしら? でもスッキリしたから良いですわ〜)
主に尿意が。
「あの〜、帰り道はどこですか?」
「あ、あちらでございます」
水を吸い込んだドレスはかなりの重さだが、まあ、訓練と思えばさほど問題はない。
ネネフィーは鼻歌を歌いながら、使用人が指差した方に向かってひょこひょこと歩き出した。
ちなみに先程ネネフィーが魔力を発した瞬間、王宮内にある魔石全てにひびが入り、1つ残らず魔道具としての機能を完全に失ってしまったのだが、そのことに気付いた者は王宮内には誰もいなかった。




