第七話
アーシェルとトカゲの勝負は、一瞬のうちに決したと言える。
トカゲよりも更に大きな怒りに燃えたアーシェルの裂帛の気合いに、トカゲは為す術もないまま切り刻まれた。
アーシェルが振り返った瞬間に見せた表情、怒気。
それらが剣を振りかぶる前からトカゲを圧倒していた。
たかが雑魚、と侮った真宙とアーシェル。
そして真宙とアーシェルをただの人間と侮ったトカゲ。
どっちも間違いではなかったが、トカゲの誤算はアーシェルの真宙に対する気持ちだった。
致命傷を負わされ、倒れ伏した真宙を見たアーシェルが再び覚醒する、という事態をトカゲに想定できるわけもなく、またアーシェル本人からしてみてもここまで自身が怒り狂うなど、想定してはいなかったのだ。
「……真宙!」
「…………」
意識を失い、そしてその呼吸が荒い様子を見たアーシェルの中に、徐々に焦りの感情が芽生える。
自分がこんなところに来ようなどと言わなければ。
たかがトカゲと侮って、真宙をけしかけなければ。
見たところ骨折などはしていない様だが、もしかしたら臓器に重大なダメージを負っているかもしれない。
だとしたら、のんびりしていられる状態ではない。
残された時間もそこまで多くはないはずだ。
「私のせいだ……」
このままじゃまた一人になってしまう。
そんな風に考えて、地面に横たわっている真宙のすぐ傍でアーシェルは膝を折る。
どんな相手でも侮ってはならない。
そう剣を教えてくれた人物からは言われていたはずなのに、自分が誰よりもトカゲを侮っていた。
その事実が、そして目の前で苦し気に呻く真宙の姿がアーシェルを打ちのめした。
自分の見込みの甘さが、真宙をこんな目に遭わせてしまったのだと。
どうにかして、助けなければ。
真宙を、苦しみから解放してやらなければ。
だからと言って、ここで介錯だのとどめだのなんて発想にはとても思い至らない。
「ぐぁ……」
「ま、真宙!?」
そんなことを考えている間に、更に苦しそうな表情とともに口の端から赤いものが流れてくるのが見える。
やはり内蔵の何処かに損傷が……そう考えてアーシェルは自身の荷物袋を漁った。
薬草でも何でもいい。
真宙の傷を癒す何か……用を足す為の紙を乱暴に地面に置き、次々にカバンの中身を取り出していく。
『良いか、これはお前の為だけの、この世に唯一と言える蘇生薬だ。たとえどんなことがあっても……仮に無辜の民が目の前で殺されていようと、お前が生きていなくては、この世界は救われない。だからこの薬はお前が死に瀕したその時まで、絶対に使ってはならんぞ』
故郷の村を出る時、村長から渡された一つの小瓶。
服用することでどんな傷もたちまち治してしまうという。
村長の言葉を思い出し、自分が無傷であることはもちろん自覚している。
しかし、せっかく出来た仲間。
バカだしスケベだし無神経なところもあるが、一生懸命で必死。
他にこんな人間をアーシェルは知らなかった。
「ごめんなさい、村長……」
たとえ自身の選択が、後に世界を滅ぼすことになろうとも。
目の前のかけがえのない人間を殺す様なことはしたくない。
真宙を見捨てて成し遂げた魔王討伐に、何の意味があるのか。
そう考え、その目に決意の光を宿したアーシェルは小瓶の蓋を開ける。
「お願い、飲んで……楽になるはずよ」
中身が瓶から少しずつ流れ落ち、真宙の唇にポトリと一滴落ちる。
しかし真宙はそれに気づいていないのか、余裕がないのか。
「どうして……?」
絶望にアーシェルの表情が歪む。
いくら万能の薬でも、飲みこんでくれなければ意味がない。
徐々に真宙の顔から、血の気が失せて行っている様に見える。
このままじゃ……焦りの中、アーシェルは必死で思考を巡らせる。
どうしたら真宙に薬を飲ませることが出来るか。
開口器の様な器具を持ち歩く様な趣味を、アーシェルは持ち合わせていない。
かと言って苦し気に歯を食いしばる真宙の口を無理やり開けて、というのは危険な気がした。
我を忘れたに等しい状態の真宙が、アーシェルの指を誤って食いちぎってしまうことが懸念される。
「もうこれしか……方法はないの?」
小瓶を見つめ、途方に暮れるアーシェル。
意識のない相手にも、問答無用で薬なり水分なりを飲ませることが出来る、やや混乱気味のアーシェルの頭で思いつく、たった一つの方法。
「ま、迷ってる場合じゃ……ないわよね」
気恥ずかしさに顔を上気させて、震える手を必死で押しとどめる。
ほとんど無傷の自分が、ここで間違えてはいけない。
これはそう、医療行為の一端。
必要な措置だ。
これで真宙は助かる……それなら安いものだ。
そう自分に言い聞かせ、アーシェルは薬を口に含んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「う……」
数十分後、泥の中から這い上がる様な感覚と共に真宙は目を覚ました。
先ほど致命傷を食らい、苦しさに呻いていたはずの自身の体が嘘の様に軽く、そして頭の下は地面だったはずなのに心地よい柔らかさが感じられる。
「あ……」
「よ、よう」
まだ少し混乱していることは自覚しているが、自身の置かれた状況は何となく理解した。
(これは……俗に言う、リア充御用達の、膝枕ってやつですか……)
妹以外にこんなことをしてくる女子がいようとは、真宙は夢にも思っていなかった。
妹が時折ふざけ半分で……しかも耳掃除をしてくれようなどと言う殺害予告にも等しいことを言い出し、何とか膝枕だけで勘弁してほしいと真宙が半泣きで懇願し、耳掃除だけは回避したことを思い出す。
「そ、その……気分は、どう?」
「え? あー……綺麗な川とお花畑が見えたから、さすがにヤバいかと思ったけど、まぁご覧の通りだ」
「な、なら良かったわ。こ、これはあれよ? 一応病人というかけが人というか……そんな人間が地面を枕に、なんて悪化したら困るから……」
「そ、そっか……何か気を遣わせたみたいで悪いな。けど……俺結構いいのもらっちまったし、割とマジでヤバい気がしたんだけど、体は嘘みたいに軽い。お前、何か魔法でも使ったのか?」
真宙の問いに、アーシェルの顔が急速に真っ赤になる。
対する真宙は何故アーシェルが真っ赤な顔をしているのか、理解できずに頭にクエスチョンマークを浮かべていた。
「ま、魔法なんて……攻撃用のしか知らないわよ、私。薬、使ったの。飲ませるの、苦労したんだから」
そう言ってアーシェルが指さした先に転がっている小瓶を見て、真宙はその小瓶を手に取る。
中身は既に空になっており、おそらくは何かしらの液体……アーシェルの言う通りなのだとしたら、薬が入っていたのだろうと推測された。
「お前が、飲ませてくれたのか?」
「か、感謝しなさいよね。村に伝わる秘薬で……それが最後なんだから」
「え……お、お前」
「いいの! 私がそうしたかったから、そうしたの!! 後悔なんてしてないんだから!!」
後悔はしていない。
しかし、二つの意味で思い切ったことをした、という思いはある。
「だけど……俺なんかに使っちまって良かったのかよ。これから先、何があるかわかんねぇのによ」
この朴念仁……アーシェルは額に青筋を浮かべて真宙を睨む。
そして訳も分からぬまま睨みつけられた真宙が、冷や汗を浮かべながらアーシェルから目を逸らした。
「だったら何? あそこであんたを死なせとけばよかったってわけ!? あんたが守ってくれないなら、誰が私を守ってくれるのよ!!」
鬼の形相になったアーシェルに詰め寄られ、真宙は思わず顔を赤くする。
もちろんアーシェルのそれとは違い、多少真宙がアーシェルに女を見たというものではあるが、当の真宙はそのことに気付いてはいない。
「いや、それはほら……この先出会う仲間ってやつで……」
必死で頭を回して弁明するも、次第に尻すぼみになっていくのを、真宙は感じていた。
「それはその人であって、あんたじゃないでしょ、バカ!!」
次第に胸の中が恥ずかしさと真宙の無神経さにムカムカとしてきて、アーシェルは真宙が頭を上げるのを待たず、乱暴に立ち上がる。
虚を突かれた形になった真宙は、地面にしこたま後頭部を打ち付ける羽目になった。
「っでぇ!? な、何するんだお前……何怒ってんだよ?」
「知らないわよバカ!! 早く起きなさいよ、もう傷は癒えてるんだから、バカ!! さっさと用事済ませるわよ、バカ!!」
「そ、そんなにバカバカ言わなくてもいいだろ……コブになったらどうしてくれんだよ、全く……」
ムカムカとする胸中とは対照的に、気分は少しだけ高揚感を覚えているアーシェル。
もちろん真宙はそんなことには気づかないし、先を行くアーシェルを追いかけるのに必死でそれどころではない。
しかしアーシェルの中にはかけがえのない仲間との、大事な思い出が一つ刻まれたのだった。