第0話 ―常春の国で―
私、カロナ・ミツルギは急いでいる。
家への近道となる薄暗い路地裏を歩いていたところ、猫に財布をスられてしまったのだ。
猫はこの国では神聖な動物。
猫を飼えば死罪になったり、毛が生え変わる時期には猫の毛を祭事に使うほどに大切な存在。
でも今は違う。いくら相手が猫の中で一番神位の高いミケ猫だったとしても、財布をスるような泥棒猫は許しちゃだめなはず。
「ねえ、待って!その財布あたしの!」
しかし猫は振り返りもせず、たったっと軽い足取りで颯爽と走って行ってしまう。湿った路地裏を左へ右へ、どんどん奥へ。
「ちょっと…!どこまで行くつもり…!?」
いよいよ足が動かなくなってきた。走り続けた身体が悲鳴を上げ始める。
「はあ…はあ…ちょっと…待ってよ…お願いだから…」
息切れしつつも吐いた言葉に猫は歩を遅め、止まった。
そしてこちらを振り返る。
振り返ったミケ猫は朱色の瞳を持っていて、愛らしい容姿に反して冷ややかな目線をこちらに向けた。
「あっ、こ、こんにちは…?」
「……」
猫は黙りこくったまま、ゆっくりと咥えていた財布を置いた。
「えっと、返してくれるの?」
「みゃあ」
ぽつりと「良いよ」と呟くようにミケ猫は鳴いた。
そして私が財布を拾うのを、静かに見上げて待っている。
「お利口さんね、もう行って良いんだよ?」
しかし私がそう促してもミケ猫は静かに佇んでいる。
…もしかして、ドジな私を見守ってるのかな?
…そんな訳無いか。
私は置かれた財布を拾い、手提げ袋にしまった。それを確認するなり、ミケ猫はまた短く「んみゃ」と鳴いて、先を歩いて行く。
それを茫然と見つめていると、ミケ猫はまたこちらを振り返った。
「…付いて来て、って?」
頷くような動作をし、ミケ猫はまた歩き始める。
何かあるのかな?
後をついて行くことにした。
路地裏は迷路のように入り組んでいて、複雑な感じ。
塀が高いから、いつもここは日当りが悪くて気味が悪い。
まぁ、そのぶん他人と会わないから良いんだけど。
「ねえ、ミケ猫さん、あなた珍しい猫よ。ミケ猫なら皆教会で暮らしてるのに、あなただけ屋根無社なのね」
屋根無社、というのは屋根の無い社の猫。
つまり悪い言い方をすれば野良猫ってこと。
神位の最も高いミケ猫は教会に住む…つまり屋根有社であることが当たり前なのだけれど、この子は違うみたい。
「……」
まあ、返事が返ってこないのは普通か…
「ねえ、何処に向かってるの?あたし家まで帰れなくなっちゃうんだけど――」
「に」
「……」
「少し静かに」と注意されたような気がして、なんとなく黙り込んでしまう。
……しばらく歩いていると、行き止まりになっていた。そしてその行き止まりの壁には、扉が一つ。扉は少し開いていて、それこそ猫一匹が通れるほど。
ミケ猫はその扉の内側へ入っていく。そしてミケ猫が入ったと思えば、扉が大きく開いた。どうやらミケ猫が押して開けたらしい。
賢い猫だ…と感心していると、ミケ猫はまたその奥へ進んで行った。
赤い屋根の、クリーム色の外壁の家だ。
でも家にしては少し狭い気もする。
「誰かの家かな…?でも…猫を飼う事は死罪なのに猫が出入りしてる…まあいいや。
…えっと、お、お邪魔します!」
そう軽く挨拶し、部屋に入った。
部屋の中は暖かく、暖炉がパチパチと音を立てて燃えている。
暖炉のそばには机とロッキングチェアが置いてある。机の上には読みかけの本と、飲みかけの珈琲。ロッキングチェアにはジャケットが掛かっている。
壁には本棚がずらりと並べられていて、いわゆる書斎がここにはあった。
書斎を物色しようとしたところ、たとたとという軽い音がした。
ミケ猫が、部屋の奥の階段を登って行くところだった。
書斎は気になるけれど、ミケ猫の方が気になる。
何があるのかと恐る恐る階段を登る。
最後の段を登りきり、屋根裏部屋のような空間を見渡すと、一つだけの大きな窓にもたれる青年の姿があった。ミケ猫はいなかった。
「あ、あの、猫を飼う事は禁止…」
「ははっ、本当についてきたにゃんてな…」
青年は苦笑しながらそう声を上げた。低く落ち着いた声だった。
…待って、今ナチュラルに「にゃんて」って噛んだ?
「あの、ミケ猫は…」
「さあ、俺は知らないにゃ」
「…貴方が飼ってるんじゃなくって?」
「いや?猫が猫を飼う訳ないだろ?」
「…猫が猫を飼うって…?貴方人間ですよね?」
「人も猫も…みかけによらにゃいって事さ」
「はあ?」
色白で、茶と黒が混ざった髪。朱色の瞳が私を笑っている。
思ってたよりずっと端整な顔立ちの青年。白い長袖のシャツに藍色のベストを着ている。(別に一目惚れしたとか、そういう訳じゃないよ!?)
そして消えたミケ猫はその名の通りの三毛で、朱色の瞳…
うーん、猫が人になるなんて聞かないしなぁ…
「その顔…まるで分かってない、って感じか」
「ええ、全く。」
「仕方ないにゃー…見せてやるよ」
いや…もしかしたらもしかするかも?
「…いや、その必要はないですよミケ猫さん」
「んにゃ?」
「貴方が私の財布をスったミケ猫さんでしょう?」
「おお、ご名答。
少し天然が入ってるかと思ったけれど間違いだったみたいだな。
そう、俺がさっきのミケ猫だ」
「ちょ…天然ってひど――はあぁ!?さっきのミケ猫ぉお!!?」
「喧しい」
さっき一鳴きされたように、黙り込んでしまう。
「う…でも猫が人になるなんて…」
「有り得ないって言いたいんだろうが、お嬢さん達が知らないだけだ」
「お嬢さん…!?」
「おっと失礼、つい。礼儀正しいのは好まないよなあ、今の人は」
「え、いや、その…」
「んで、あんたさんはどうして此処に?」
「えっと、その…先に自己紹介しません?」
にんまりと猫のように笑う背の高い彼に、私はそう言う。
さっきまで彼が私を見上げていたのに、今は私が彼を見上げている。
「ん、そうだな。あんたさんは?」
「あ、私はカロナ・ミツルギです。16歳の王国剣士です」
「へえ、王国剣士かい、しかも16でか。いやあ、凄いな。俺が殺しにかかったら負けちまうね」
「ええ、王への忠誠に反した罪で即座に首刎ねです」
「へへぇ、そりゃあ愉快だな」
「皆は怖がるのに、怖くないんですか?」
「いーや、人を怖いなんて思う訳無いだろ?!」
そう彼はケラケラと笑う。猫のような二本の八重歯が印象的だ。
「?」
「あぁ、自己紹介しよう。初めまして、王国剣士のお嬢さん」
そう良い、彼は私の手を取ってにこりと笑った。
「俺はミケル。ミケ猫獣人のミケルさ」
ミケルと名乗る青年はまだ小さな私の手と握手を交わした。
(ちぇっ、もっとロマンチックな挨拶を期待してたのにな…
まあ初対面だし仕方ないか…)
「ミケル…さん」
「おう、よろしくな、ミツルギ」
「苗字なんですか?」
「あぁ、名前の方が良かったか?」
「え、あ…」
「どっちだどっちだ」
「え、どうとでも…」
「…」
うーん、と彼は引き目に私をじっくりと見つめる。しかし一向に目を見つめたりはしない。
どこかで聞いた話だけれど、猫は喧嘩以外に相手の目を見つめることは少ないんだとか。
これも彼が猫であるからなのかな?
一度でもいいからちゃんと目を見てほしいなあ。
「…うん、名前で呼ぶ柄じゃないな。…お嬢さん。」
「えぁ…はい…」
「ってことで、よろしくな、お嬢さん」
「はいぃ…」
私に笑いかけ、ふと彼は窓の外を見た。窓の外は晴天だが、彼は「うげ」と声を上げた。
「お嬢さん、今日は早めに帰った方が良い。雨のニオイがする」
「それってつまり…雨が降るってことですかね?」
「んにゃ、そうだな。帰り道は分かるかい?」
「いえ…」
「そうだろうと思ってた。何処の通りが一番近い?」
「え?えっと…第三通りです」
「あぁ、酒場と賭博場のある…」
「カジノタウンですね」
「思いの外近いな」
「え?」
「こっちこっち、路地裏は塀の上を歩くのが主流だしな」
「ちょ…人の通る道じゃないですよ!」
「大丈夫、おいで」
彼は塀の上にひょいっと上がると、私に手を差し伸べた。
「う…王国剣士が他人の手を借りるとは…」
「王国剣士である前に…お嬢さんはお嬢さんだろう?」
「あぅ…ありがとうございます…」
「おうよっ。…さ、急ぎな。ここをまっすぐ行けば第三通りだ」
彼は真正面を指し示した。塀の上は以外に単純で、まっすぐ続いた細い道の先に見慣れた酒場が見えた。
「あ、あの!」
「うん?」
「また来ても…良いですか?」
「勿論。仕事に支障が出ない範囲で、な」
「はいっ!それじゃあ、さようなら、ミケルさん」
「んにゃ、じゃあまた」
にいっと彼は笑って、私に手を振った。