その神の名は 一章 天使のはしご
そもそも最初は、ただの行方不明事件だった――
本編1話、一章になります。
序章の読了を前提にしていますので、序章読了後の閲覧をお願いいたします。
それは最初のうち、単なる家出だと思われていた。行方不明になった人間たちに共通点はなかったが、どの人間も身寄りが少ないかもしくは素行のよくないティーンエイジャーで、自分の意志でいなくなったとして、なんら不思議のない人間たちではあった。
しかし時が経つにつれ、問題となったのはその人数だった。最初は一週間に二人ほどだったものが、二週間目には十人が消え、三週間目、消えた人間は三十人増えた。累計四十二人。大都市ならともかく、地方都市でこれだけの、共通点のない人間たちが一斉に姿を消すというのは異常事態だった。そこで警察は捜査本部を設置、これが連続誘拐殺人である可能性も含め、行方不明となった人間の捜索に当たることとなった。
「確かにおっかしいよなぁ。怜司、なんか思いつきそうか?」
「いや……パーツが全く足りない。ひとまずしらみつぶしに調べるしかないだろうな。そういうのはお前の方が得意だろ、サイ」
当時はまだお互いに警部だった怜司と陽人は、この事件に関して、チームとして捜査に当たっていた。自分がそう言った時の陽人の顔を、怜司はよく覚えている。うんざり、という表情だ。
「まーた根性仕事は俺かよ! 事務員じゃねえんだから、たまにはお前も手伝えよ」
「適材適所だ。僕はお前にはない手札の方を当たる。黙って根性出しとけ」
ぶーぶー、と子どものようなブーイングをしている陽人に、怜司はさっさと背を向け、携帯電話を取り出す。
「あ、もしもし、藤村だ。これから行く。そうだな、二番の交差点だ。来なかったら……わかってるだろうな?」
怜司の言う、「陽人にはない手札」がこれだった。裏社会とのつながり。今電話をかけたのは情報屋の一人だ。かなり違法な方法で情報を手に入れているので、怜司に対して裏切りを働けば即、逮捕される身である。
裏路地に入り込み、何も知らない市民のふりをして、わざと脅される。あるいは、訳知り顔で情報を買う。それから、警察官だとバラして口を封じる。これが、怜司がずっと使ってきた「手札」だった。
会う場所は適当に何カ所か決めておき、その時々で適当に指定する。いつも同じ場所で会えば、仲間に襲撃される可能性や、誰かに見られる可能性が上がる。それは避けておきたかった。
自分の母親や、自分のような人間を増やさないため、なんとしてでも犯罪者を潰す――そんな気持ちがあったわけではない。ただ、幼少期にぶつけ損なった憎しみを飼い慣らすように――怜司はいつでも、こういった手合いの人間を使った。バレたところで、自分は警察をやめてしまえばいい。祖父の通帳を使えば、慎ましい生活ぐらいはできる。他人はきっと怜司を軽蔑し、貶めるだろうがそんなことはどうでもよかった。怜司にとって人生は、死ぬまでの暇をつぶすゲームだ。捜査一課にいるのも、それが難しいゲームだからだ。それに――自分が不祥事で首を切られれば、きっと父親は大いに責められ、困るであろう、それを想像すると少しだけ愉快なことは、自分の感情変化にすら鈍い怜司自身気づいていなかった。
情報屋は約束通り、二番の交差点に現れた。
「警察は今、この街の行方不明事件を追っている。三週間で四十二人消えてる。何か知っていれば教えろ」
「旦那、ならいつも通り、料金は先払いでお願いしますよ。言ったあと走って逃げられちゃ、こっちも商売あがったりなんで」
怜司は財布から素早く万札を何枚か抜き、情報屋に握らせる。情報屋は、毎度、と言ったあと、どうも裏ルートに流れてるみたいですぜ、と言った。
「裏ルート? 奴隷売買か何かか」
「いやあ、そんな甘いもんじゃありませんぜ、旦那。こっちでも結構な騒ぎになってるんですよ。ところで旦那、『天使のはしご』ってバーはご存じで?」
「知らないな。それがどうした」
そこが買い取ってるみたいですぜ、その行方不明者、と情報屋は言った。
「旦那はあんまり知らない方がいいとは思いますが……どうもそこのオーナーが、生死問わず身寄りの少ない人間や家出してもおかしくない人間を流せと言ってるみたいなんですよ。表向きは普通のバーなんですけどね……奥はね、実はネクロフィリア専門の施設をやってるらしいんで」
ネクロフィリア――死体愛好家。死体を愛で、まれにカニバリズム――つまりは、食べることを好む者もいるという。
「今までは、死体があれば流してくれ程度だったんですがね……オーナーが変わってから、おかしくなったようで」
「そのオーナーの名前は」
旦那わかってやせんね、と情報屋はすこし馬鹿にしたように笑った。怜司は途端不機嫌な顔になる。それを感じ取った情報屋は、慌てたように、マリアって女です、と答えた。
「この世界じゃ、本名は明かさずに、コードネームっつうか……通称を使うのが普通でして」
そして情報屋は、「天使のはしご」の場所と、「天使のはしご」の奥に入るには、マスターに向かって「雲間はあるか」と聞けばいいと教えてくれた。
怜司は情報屋に礼を言い、ついでにもう一枚、万札をつかませておく。これは次回への布石だ。払いのいい人間にサービスがいいのは、どの業界だって同じなのだから。
しかし、「マリア」に「天使のはしご」とは。聖女を名乗り、天界への迎えを語るバーのやっていることが死体作り――人殺しとは。皮肉にさえなっていない。怜司はこの一件に、何か「嫌な感じ」を覚えた。礼状を取って、一斉捜査をかければ、あるいは。
かくして、怜司は情報を持って署に帰った。署では陽人と部下たちが、まさに調べ物を終わらせて資料をまとめたところ、といった様子だった。
「お、怜司お帰り。なんか有益な情報は?」
怜司は答えず、黙って陽人を廊下へ引っ張り出した。何すんだよ、という抗議に対して、怜司はしっ、と指を立てた。
「大きな声を出すな。上のやつが来る」
「なんだよ、そんなヤバいネタ拾ってきたのか?」
怜司は黙って頷き、肩を組むようにして陽人に顔を寄せた。
「ちょ、怜司、近い!」
「だから大声を出すなと言ってるだろう。今回の事件、多分、ヤバい筋というよりは、何か……よくないものが絡んでいる気がする。おそらく人海戦術は危険だ。確証はないが……礼状をとって、対象の場所を強制的に家宅捜索したりすれば、こちらにも被害が出るだろうな」
それを聞いて、陽人の表情が一気に険しくなる。昔から、怜司のこのような「嫌な感じ」は往々にしてよく当たるのだ。以前、幼女の誘拐殺人事件を追っていた時、怜司のこのような「嫌な感じ」の進言を無視して、犯人の自宅の強制捜査に踏み切った結果、犯人の抵抗に遭い、捜査員が重傷、誘拐された被害者もけがを負い、その上犯人には自殺されてしまったことがあった。上層部はこれを、この捜査員の暴走が引き起こした案件だとして入院中だった捜査員に処分を下し、自分たちの責任をうやむやにしたが、世間の目は冷たく、しばらく県警の者だと言うだけでぞんざいに扱われることが多々あった。また、怜司はこの一件で、このような「進言」は警察署内では「オカルト」扱いされてしまって見向きもされない――場合によっては、自分が犯罪遺族であることを持ち出して、嫌味を言われる――ということを学習し、大概は陽人や、怜司の話をまともに受け取る部下とともに、先回りをして最悪の事態を避けるよう、裏で動くようになった。
「だから、僕が一人で行って調べてくる。ただ……保険として、サイ、お前にだけ、僕が行く場所と捜査の日を教えておく。もしその日、夜十時を過ぎても僕が連絡してこなかったら、僕はそこで死んだと思って、それを理由に現場に乗り込め」
「は? ちょっと待て、それなら俺も一緒に……」
「サイ、申し訳ないが、僕は僕の命なんてどうでもいいんだ。正直な話、祖父が死んだあの日以降、僕にとってこの人生は余生だ。いつ死んでもどうでもいいと思っている。でも、お前はそうじゃないだろう? ほかの捜査員だってそうだ。家族がいるやつもいる。それなら、一番危ない場所は、僕が行くのが適任だ。ただ、僕が失敗した場合……事件が解決しなくなる可能性がある。それを避けるために、お前という保険をかける。その時は……覚悟してくれ」
それを聞いて、陽人が半泣きの顔になる。こいつはいつだってそうだ、と怜司は心の中で嘆息する。祖父の家に引き取られてから、誰とも話さないし遊びたがらない、無口で暗い子どもだった怜司に、幼稚園で話しかけてきたのが陽人だった。それ以来、この男は怜司がどんなに無視しようが、辛辣な言葉を浴びせようが、ずっと怜司についてきた。結局、こんなところまでついてきて――なんのつもりだ、僕に人生でも捧げる気か、と聞いた。その時、陽人は満面の笑みで答えた。だって、俺は怜司のこと好きだから。俺はずっと、怜司と一緒にいるつもりだよ、と。
「サイ、聞き分けてくれ。他のやつに行かせるわけにはいかないし、お前を連れて行って、二人とも死ぬわけにもいかない。もともと命がけの仕事だと、わからないで刑事になったわけでもないだろう?」
怜司の説得に、陽人もどうやら腹をくくったようで、すんと一つ鼻をならした。
「お前だけ二階級特進なんて許さねえからな……絶対、帰ってこい。ていうか死ぬ前に連絡するって言え馬鹿。俺がお前助けに行ってなんともならなかったことが今まで一回でもあったかよ?」
それを聞いて、怜司はふっと笑い、そうだな、と答えた。そもそもどうでもいい命、警察官になった二十二歳の頃から五年、無茶は両手の指では足りないほどした。それでも自分が生きているのは確かに、陽人の的確なサポートのおかげだった。
「じゃあ、何かあったら頼む。決行は明日の夜、場所はここだ。十時を過ぎても何もなければお前に連絡して帰還する。連絡が無ければ何かあったものと判断して、僕が無断捜査で殺されたかもしれないと言え。さすがに探しに来るだろ上の馬鹿どもも」
怜司はそう言って、手帳に「天使のはしご」の場所を書いて、ページを破いて陽人に渡した。
「これで密談成立だな。事件が解決したら、一緒に処分されてもらうぞ、サイ」
「それはちょっと勘弁……だから、ちゃんと解決して、手柄にして戻ってこいよ」
絶対だ、と言って手を握られた。その手のひらの温かさだけが、その当時怜司をこの世につないでいたことは、陽人はもちろん、怜司自身も、未だに気づいていない。