その神の名は 序章 この退屈と悪意の片隅で
この世界は、退屈と悪意でできている――
傍系ばっかりでエグゾディアみたいになっていたBSCの、本編1話にあたります「その神の名は」の序章です。
四月新刊に収録予定です。
世界は退屈と悪意で満ちている。他の誰かは――「白い羊」たちはそう感じていないかもしれないが、少なくとも自分を「黒い羊」だと思っている彼――藤村怜司にとって、この世の中はほとんどが、退屈と悪意の塊だ。
黒い羊効果、という言葉がある。これは、一匹だけ色の違う変わった羊をいじめることで、他の羊たちの結束が強くなる、ということを示す言葉で、転じて、新人をいじめることで職場の結束が強まってしまい、新人が結局居着かない職場状況を差したりもするそうだ。また、「黒い羊」は、背中に乗ると死の国へ連れて行かれる、という民話はどこにでもある。普通の人間たち――「白い羊」に、この世界がどう見えているのかは「黒い羊」である自分にはわからないことだ。「こうなる」前から「黒い羊」だった自分には、いくらでも見えていた、悪意。そして、それを無視してしまえば簡単に訪れる退屈。
「あの、藤村警部」
「何だ?」
怜司は決してブ男のたぐいではない。眼鏡をかけた目が、切れ長でつり目気味、少々目つきが悪い、というだけでむしろ顔はいい方のはずなのだが、常日頃から無表情に近い仏頂面のせいで、顔の良さが打ち消され、どちらかといえば怖がられる傾向にある。この日も、振り返った怜司を見て部下はびくっと肩を震わせた。
「そろそろ、昨日の事件の報告書をですね……」
「さっき共有フォルダに入れたよ。それとも何かい? わざわざ印刷してあのいけ好かない上司のところまで持って行かないと、何か僕に不利益があるのか?」
怜司がそう言うのを聞き終わるやいなや、部下は、失礼しました、と叫ぶように言って、疾風のごとく去って行った。それを見て、彼は深く嘆息する。ここで部下が、その通りですとでも言ってくれれば、この退屈も多少癒やされるだろうに。
とある地方県警の、捜査一課警部。これが怜司の肩書きだ。二十七歳にして警部は破格の出世であるが、彼が大学卒業後国家試験に合格して警察官になった、いわゆる「キャリア」であることと、彼の父親が警視庁の警視正であることを考えれば、そこまで異例というわけでもない。彼自身、今の自分の立ち位置には父親の存在が大きく関係していることに気づいていた。日本国民を守ると言ってほとんど家に帰らず、母親の命も、息子の心も守れなかった哀れな男。父親の仕事は確かにすごい。警察官としてのあの男は尊敬に値するがしかし、怜司は父親として、彼を軽蔑していた。
藤村家は女性の長生きしない家系だ。実際、曾祖母は祖父を産んですぐに空襲で焼け死に、祖母は怜司が生まれる前に病気で亡くなった。そして母は――父が家を空けている間に、家に入ってきた強盗に刺されて死んだ。
あの日のことを忘れることは、おそらく一生涯ない、と怜司は思う。この体が朽ち果てて、精神のひとかけらまで摩耗して無くなってしまうまで、ずっと。父の知り合いを装った男の訪問、のんきでおおらかな母親が、警戒もせずに扉を開ける音。すぐに響いた、母親の断末魔の悲鳴。怜司は自室のベッドの下で、ただ震えていた。幸い強盗は、子ども部屋に金目のものはないと判断したらしく、ドアを開けて中を見るなりどこかへ行ってしまった。物音がしなくなり、ベッドの下から這い出して、玄関へ行った怜司の眼前に広がっていたもの――血の海。母ではなくなった、「母だったもの」の姿。あのとき、わかった。誰かを好きになってはいけない。それはかならず、失われるのだから。当時まだ三歳だった怜司が次にとった行動は、「母だったもの」に駆け寄って取りすがって泣くことでも、血の海に震えることでもなく――110番への通報だった。あの時自分は「黒い羊」になった。そう、思う。
この事件は、当時はまだ怜司と同じ警部であった警察官である父が、妻を強盗に殺されるというショッキングな事件として、センセーショナルに報道された。怜司も、目の前で母親を殺された息子として――目の前ではない、と訂正はさせてもらえなかった――ひどく同情された。たくさんのどうでもいい同情が、自分の上を滑っていった。怜司は親戚中をたらいまわしにされた後、幼稚園に入った頃に祖父の家に預けられ、そこで育てられた。
それでも、祖父のことはそれなりに好きだったのにな、と、怜司はまるで他人事のように振り返る。これも元警察官であった祖父は、自分に同情しなかった。かわいそうな子だという扱いをしなかった。むしろ、母が亡くなってから祖父はこの世でただ一人、怜司を「かわいそうな事件の被害者」――「黒い羊」ではなく、「ただのひとりぼっちのガキ」として扱った人間だった。
「お前さんその程度か? え? くだらないな」
祖父にそう言われることは、誰に諭されるよりもずっと深く、怜司の心に刺さった。すでに誰に対してもほとんど心を閉ざしていた怜司が、たまに泣きたくなった時、泣くの祖父の前だった。怜司が泣くと、祖父は笑った。
「泣け泣け。泣きたいときは泣いておけ。お前さんはまだガキなんだからな」
その祖父も、中学生の時病で亡くなった。いよいよ危ないという時期に、祖父が呼んだのは父ではなく、怜司だった。
「怜司、お前さんはもうガキじゃねえんだから、一人でもなんとかなるな。申し訳ないが、じじいはこの辺で退場せにゃあならんらしい。まあ、妻も嫁も守れんかったクズみてえなじじいが、ここまで生きてたってだけで奇跡みてえなもんだ。怜司、お前はこんな、クズみてえなじじいや、清司みてえな仕事に逃げて守るべきもんを見失っちまうクズにはなるな。いいな?」
その言葉を聞いて初めて、怜司はこの、厳格な帝王のごとき祖父が、祖母を早くに死なせてしまったことや、自分の母親を守れなかったことを、咎として背負っていたことに気づいた。じいちゃんはクズじゃない、僕をちゃんと育ててくれた、という言葉は、涙でぐちゃぐちゃになってしまって伝わったかどうかわからない。ただ、あのとき祖父は確かに、怜司を見て、笑った。
「お前さんガキだな、みっともなく泣きやがって……最期だ、怜司。泣きたいだけ泣け。じじいはここで退場だ。ちゃんとしてやれなくて……すまんかったな」
その言葉の意味を理解したのは、二十歳を越えたあたりだったか。怜司はそのとき以来、誰の前でも泣いたことがなかった。それどころか、他人に対して全く興味が持てなくなっていた。「ちゃんとする」とはつまり、そういうことだったのだ。祖父は「大人」としての道は示せても、「人間」としての道の示し方はわからなかったのだ。
祖父が亡くなった後、家に帰らない父の代わりに部屋の整理をしていたとき、怜司は自分名義の、ちょっと洒落にならない額の入った預金通帳を見つけた。手紙がついていた。こんなことぐらいしかしてやれなくて、すまんな、怜司。泣きながらその通帳を自分の部屋の金庫にしまい込んだそのとき、感情も一緒に閉じ込めてしまったらしい。怜司はその後、ほとんど感情を表に出さない、無味乾燥な青年期を過ごした。ただただ、無関心。別に誰も嫌いではなかったし、好きでもなかった。その「はず」だった。
「ういー。お疲れ様でーす」
「あ、犀川警部補! お疲れ様です!」
怜司のぼんやりした思索は、部屋の入り口からしたそんな声に遮られた。
「ちょっとマッキー、警部補はやめて、俺もう警察の人間じゃないんだから。でさ、怜司いる?」
「藤村警部ならそちらに……」
「サイ、やかましいぞ。だいたい、もう警察の人間じゃない自覚があるならここに出入りすべきではないし、少しでも警察だった自覚があるなら、目上の人間を呼び捨てにしないでほしいね、犀川『元』警部『補』」
「元」と「補」に思いっきり力を入れてそう言うと、犀川元警部補――犀川陽人は、不服そうに唇をとがらせた。
「いいじゃん別に。俺は善良な市民だから、わざわざ事件のにおいがする話をしに来て『あげた』んだし。あと、俺は警察の人間じゃないから、幼なじみに敬語を使う気も、階級で呼ぶ気もないよ、藤村警部」
呼んでるじゃないか、と、怜司も言い返す。元々つり気味の目が余計につり上がって、正直言って凶相だ。警察官の顔ではない。
「まあまあ、ムキにならないならない。またヘンな依頼が来たから、手伝って」
「サイ、僕をなんだと思っている。確かに僕は『普通』じゃないが、それを専門にしているわけじゃない。むしろ関わりたくないと思っているんだが、一緒に住んでも伝わっていなかったか?」
怜司は陽人をねめつける。本当は忘れていたいことなのだ。二年前、あいつと交わした取引。元々狂っていた自分の人生を、根底から狂わせてしまった、あいつ。「神」を名乗っていた、異形。
怜司の精神は時を駆け戻る。二年前の、あの事件の日へと。