01魔女の伝承歌
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一ノ瀬家の別荘で、使用人がその血文字を発見したのは早朝らしい。
海からの靄のかかる、白い朝だった。
その日、使用人は夜明け前の厨房に向かって廊下を歩いていた。仕込みをするつもりだったらしい。
一ノ瀬家の屋敷といっても、働く人数はそう多くない。普段、茜の身の回りを世話しているのは五人足らず。その人数分の食事というのは、お嬢様の分も入れてもささやかなものだった。
そして、見たのだ。静かな屋敷の廊下の先。静かな朝を破る文字を。
白い壁。
そこに、人が奇妙な踊りでも披露するように、赤い文字が躍っていた。
マジョガデタヨ、マジョガデタヨ《魔女がでたよ、魔女がでたよ》
カガミノナカノマジョガ、ココニキタヨ《鏡の中の魔女が、ここにきたよ》
サア、サガソウヨ!《さあ、探そうよ!》
サア、アソボウヨ!《さあ、遊ぼうよ!》
マジョノウタゲガ、ハジマルヨ《魔女の宴が始まるよ》――。
「…………これは」
浅霧は、到着した屋敷で壁を見上げていた。
生まれて、初めてかもしれない。
ゾワリと背筋を這うような、こんな悪寒に出会ったのは。
「『血』……では、ないのですか?」
血塗られたように赤い文字は、どこか、喜びを含みながら、書き殴られているように見えた。
「分かりません……。この文字が、どのような形質のものなのか。ただ、これがわたくしたちの屋敷に浮かび上がったのは、三日ほど前のことになります」
後ろで、一ノ瀬茜が説明していた。
「最初は、使用人の一人が見つけたものでした。……なにせ、モノがモノですので、悲鳴が屋敷中に響き渡り。それから、何度落とそうとしても、あの赤の文字は消えてくれませんでした」
「……消えない文字?」
「はい」
それは、確かに浅霧が扱うような『怪異』に入る。
「不可解な存在が絡んでいる。と、最初に気づいたのは誰なんですか?」
浅霧は、問いかけた。
文字からは、不可解な呪いの気配を感じる。それは日常に存在しているものではなく、それこそ浅霧がよく知る、裏側にある匂いだった。
だから、この屋敷を所有する家の娘。一ノ瀬茜は、『鑑定師』を呼んだのだろう。
「最初に気づいたのは、相談を持ちかけた凉下さんです」
「お前か」
「なによ。この場合、でかした。って褒めるべき場面じゃない?」
同じく、話を聞いていた凉下が口を挟む。
浅霧の事務所で気づいたことだが、彼女にはある種の『霊感』に近い感覚が備わってるらしかった。それは呪われた道具を『感じる』ことのできる才能であり、魔法工芸品を惹きつける磁石のようなもの。浅霧循や、祖父の惣一郎が持っている力と同じなのだろう。
彼女は、この屋敷からとてつもなく不穏な気配を感じたという。
「私が最初にヘンだな――って思ったのは、この血みたいな文字を見てから、屋敷を見回ったときよ。なんていうのか……ううん。口では上手くいえないけど、すっごく『もやもや』した嫌な気配を感じたの。息苦しいって言うのかな」
「……息苦しい?」
魔法工芸品の人形・フランチェスカを従える少女の言葉だ。耳を傾ける価値はあった。
「うん。不気味なの。特に、地下の部屋――。なんていったかしら。昔の家にはあったっていう、特殊な小さい牢の部屋があって」
「座敷牢、か?」
「そうそう。それよ。今はカギも壊れてて、使われてないその部屋の奥から――なんかね。すすり泣くような声がしたの。そう、まるで最初に理性を失って暴れていた、フランチェスカが悲しそうにしていたとき――みたいな」
「呪いの道具の気配か」
音が聞こえるということは、かなり力の強い部類に入る。現実に干渉しているからだ。
いったい。そこに何があるのか。
浅霧は振り返る。すると、着物の袖で口元を隠す少女は、困惑した顔で、
「――昔。そう、わたくしたちがまだここを使うよりも、ずっとずっと昔の話。この屋敷の忘れ去られた地下室に、人一人ではとても抱えきれないような大きさの『それ』がありました」
「? それ?」
「鏡です。運び出したり、手を触れようとしたものに災いをもたらす――『魔女の鏡』と呼ばれています」
浅霧たちは、地下室に向かった。
夏の暑さが、一歩下りるたびに遠ざかっていく。そんな石造りの空間。ひんやりとした壁に手を置きながら、浅霧たちは階段を下りていく。
と。
「――っ」
ピン。と。何かの空気が切り替わった感覚がして、止まった。
後ろに続く凉下が、
「…………どうしたの? 急に止まって」
「ある。気配がする」
「え?」
間違いない。と思った。
暗がりの奥から感じる、腹を空かせた猛獣が、大きな口を開けている感覚。肌のひりつきと、寒気。そして、強烈に感じる――息苦しさ。
凉下の言っていた感覚は、間違いではなかった。
浅霧たちは、鉄格子の向こう――人が六人も入りそうにない小さな部屋に出た。その奥には、白いシーツの掛かった不思議な置物があり、
「……これが?」
「ええ。誰がそう呼んだのか、『魔女の鏡』と言い伝えられる古くからの置物です」
一ノ瀬茜が答えた。
彼女の背後で、お供についてきたメイド服の使用人が、静かに歩み寄ってシーツを払った。事情を知っているらしい。彼女を含む屋敷の使用人数名は、浅霧という鑑定師のことを伝えられているようだった。
中からは、
「……! これは」
楕円形の鏡が出てきた。真鍮の色。周囲には絵画の額のように銀細工が施されていた。
――美しい。
文句なしに、それはアンティークとして価値の高い姿をしていた。
「不気味と知りつつ、わたくしの、ひいお祖父様――。一ノ瀬財閥の創始者が『鏡』を手放さなかったのは、ひとえに、この宝に魅了されていたです。その次のお祖父の代も――。どんな宝石よりも、壺よりも。この美術品は美しい。と」
「あ。ああ……それは見て分かる。でも……」
――この鏡。
人の姿が、うつらないのだ。
信じられなかった。古ぼけて、鏡の表面が反射を鈍らせているわけではない。その証拠に、暗さの混じった鏡の中には、浅霧の背後の格子や、一ノ瀬茜のお供をしている使用人の懐中電灯の光はうつっている。
背筋が、ゾッと寒くなる。
不気味で。しかし、美しい。
この二つの特徴は、浅霧が魔法工芸品に対して抱いているイメージ。そのままだった。ふれれば壊れそうで。幻想に近くて。実際にふれてしまえば、雪のように溶けてしまいそうな。
「これが、この屋敷に伝わる『魔女の鏡』です」
「……」
浅霧は鏡の外枠にふれようとして。でも、やめた。
危険だったからだ。
この種の『呪い』がかかっている道具は、ふれた人間に干渉するタイプが多い。不用意に『接触』をして、浅霧が魔法工芸品に巻き込まれては話にならない。
「実は、この鏡にはある歌の伝説があります」
「……? 歌? なんだそれは」
振り返る浅霧に、着物の少女は。
「魔女が鏡から出てきて。人を隠す。という歌です」
小さく、歌いだした。
まるで、幼いころの手まり歌を口ずさむような。心地よくも、妖しい旋律の歌だった。
魔女は、魔女は、とても美しい。
鏡の中の人。齢を重ねない人。
でも、その心はいつも寂しい。
遊びたい。外に出たいの。魔女は鏡を出るの。
寂しい魔女は、人を連れていくの。
宴が終わる、十日のうちに。
「…………十日?」
その歌を耳にして。
真っ先に浅霧が気にしたのは、そこだった。
「は、はい。十日です」
歌が終わって、少し恥ずかしくなったのか。一ノ瀬茜は、うつむきながら答えた。
「当家に伝わっている『魔女の鏡』の歌には、魔女が現れて、十日のうちに人を鏡の中に引きずり込んでしまう。という伝説が残されています。もちろん、怪談のようなもので、わたくしたちは誰も信じておりませんでしたが――。三日前に現れた、あの赤い文字が浮きでてからはさすがに不気味になって」
浅霧は、思い出す。
あの消えない赤文字。そこに書かれていたのは、『――マジョガデタヨ《魔女がでたよ》』という内容と、そして『――サア、サガソウヨ!《さあ、探そうよ!》』というメッセージだった。
まさか。
本当に魔女が、鏡から屋敷に出てきた。とでも、いうのだろうか……?
「どうして、始末しなかったんだ? こんな物騒な鏡……」
「も。申し訳ございません。まさか、本当にこのような事態が起こるなんて……」
ぐすん。と。
責めたつもりはない。一ノ瀬茜は、目を潤ませて謝ってくる。凉下も、お供をしていた使用人の女性も非難の顔つきになった。
浅霧は、気まずくなった。
同時に、思う。
古来より、鏡は『魔』を宿すシンボルである。
皇室に伝わる三種の神器の一つも鏡であったし、呪術信仰における古代日本の『道具』も鏡だった。それだけに鏡は古来より多くの人に恐れられ、時に、吸い込むように人を魅了する。
(――もし、これが本物の呪いを帯びていたとしたら)
浅霧は、そっと鏡を見つめる。
場合によっては、この鏡の伝承ごと、屋敷を真っ向から相手にしなければならないかもしれなかった。