六章「昇華」
「死に場所にトイレを選ぶなんて、随分と物好きねぇ。それとも切り刻んで流されたいのかしら。」
便器にしがみつき、なんとか不自由な身体の向きを変えて上体を起こす。そこには、金属バットを両手に構えた狂人がいた。その目には殺気が露わになっている。悟知は威嚇するように、いつの間にか拾っていたハサミを振り上げて狂人を睨む。
「ろくに身体も動かないのに、そんなもので抵抗するなんてねぇ。あはははは、面白いわ。笑わせてくれたお礼に一息で殺してあげる。」
狂人は天井いっぱいまで金属バットを振り上げる。その瞬間を見計らい、悟知は力いっぱい腕を振り下ろした。そのハサミが中央に深々と捉えたものは、緑色のボトルだった。切り口から洗剤が漏れ出す。
「なっ、お前何を……まさか!」
漸く気づき、狂人は悟知を止めようとしたが、もう遅い。素早く刺さったハサミを抜くと、次いで隣の水色のボトルに打ち付ける。
びちゃっ、という間の抜けた水音。直後、手元から奇妙な色の気体が勢いよく噴き出す。
「くそっ……ぐぶっ!」
狂人は嘔吐し、そのままその場に崩れ落ちた。
勝った。
そう思った瞬間、視界ががくりと下に落ちる。そこには、自分の口から噴き出されたと思われるおぞましい量の血溜まりがあった。遠のく意識の中、悟知はひたすら志月の無事だけを祈った。
ある日、自分の物術によって狂人と化した依頼人が、両親の拘束から逃れた。すぐに殺されるかと思ったが、違った。学校の女子のネットワークに、志月が悟知に告白するという噂が流れた。狂人は、物術師が一般人と深く関わるのがタブーであることを知っていた。それにつけこんで志月を精神的に追い込もうとした。女子の強大なネットワークの力に抵抗するのは、不可能に近かった。そして…
私は、彼の優しさに触れた。初めは自己嫌悪からくる敬遠かと思った。でも、違った。彼は本当に他人の、そして私の幸せを心から願っていた。彼のその優しい光は、私の心に影を落とした。あの日、一人の女性の未来を奪った記憶の影を。
それまで何とも思っていなかった。でも、彼を見ていると、ただの自分の都合で何の罪もない依頼人を巻き添えにした自分が許せなくなった。こんな自分じゃ、彼に顔合わせが出来ない。私は、ただひたすらに過去の自分勝手な行動を後悔した。
そんなときだった、その元依頼人が再び私の目の前に現れたのは。彼女は私に物術を教えて欲しいと頼んできた。もちろんリスクは認識していた。でも、彼女も物術師としてならまだ生きていけるかもしれない。それに、一般に悪い噂の絶えない物術でも、人を助けることができる、と。そう物術を肯定したかった。
だから、彼女に物術を教え、道具を与えた。それが、自分の最も大切な人を失う起因となるとも知らずに。
暗い視界に一本の光が差し込む。その光は、少しずつその幅を広げて。
目に映ったのは、汚れ一つない真っ白な天井。
「気づかれましたか。ご気分はいかがですか?」
声のする右側に顔を向けると、そこには記憶にない女性の姿があった。次いで周りを見渡す。白い部屋に、ベッドーー典型的な病室の風景。どうやらここは病院のようだ。
「はい、悪くないです。あの、あなたは…」
「ああ、私は悟知の妹です。初めまして。」
悟知君の妹…。そういえばどうして私はここに…。
「!……悟知君は…?」
彼女は目を閉じ、静かに首を振る。
「見つかったときには、もう怪物と一緒に……」
「そんな…どうして……。」
どうして、一人で行ってしまったの?志月は両手で顔を覆うが、涙を堪えることは、出来ない。志月のしゃくり声だけが響く病室は、重い空気に支配される。
「あの…あなたはあの物術で噂の川茂さんですよね?あなたなら何か分かると思うんですが、これが原因ですか?」
彼女が差し出してきたものを手に取る。それは、深い赤色を宿したリングだった。その加工の特徴は、一目で全てを志月に理解させた。
ああ、やってしまった。
何度見ても、あの元依頼人の手によるその加工。自分が、彼を、殺したのだ。隣から声が聞こえる。
「どさくさに紛れて兄が大切に保管していたそれをくすねてきてしまったんですが…やっぱりまずかったですかね?」
「いえ…持ってきてくれてありがとうございます。」
「そうですか、それは良かったです。じきに警察から話を聞かれると思いますが、状況的に疑われることはないみたいですので安心してください。お家のほうにももう連絡が入っています。それでは私は用事がありますので。」
「あの…本当にありがとうございました。」
「いえいえ。」
彼女は、微笑みながら病室を出て行った。それを目で見送ったあと、その視線を手元に落とす。リングは術者を失い、その効力はもう残っていなかった。
ごめんなさい、私が馬鹿なせいで。
引きかけていた涙が再び押し寄せ、口許が自然と歪む。志月はリングを握りしめ、自責の念にその心を委ねた。
突如、リングの赤色が滲み出し、志月の手へと溶け込んでくる。それは、暖かい息吹のようだった。どこからともなく自然と声が届く。
……聞こえてる?ああ、僕だよ、悟知。なんかそのリングに僕の魂が残ってたみたい。志月さんが無事かどうか心配でしばらくそこに残ってたんだけど、命に別状は無いって聞いたらなんか安心しちゃって、そしたらそこに残れなくなっちゃってね。声だけは残せるみたいだから、届くといいんだけど。
とか言っても実はそんなに言うことはないんだよね、申し訳ない。僕が言いたいのは、ありがとう、それだけ。
僕は志月さんと一緒にいられて、本当に幸せだった。最初は断れなかっただけだけどね。自分なんてつまんないっていう、それこそつまんない考え方が、少しずつ溶かされていく感じ。それがすごく心地よかった。君には人を変える力がある。僕がそれにどれだけ救われたか。本当にありがとう。
…あっ、そういえば先に謝っておかないといけないことがあったんだった。あのリングのこと。僕はてっきり志月さんがやったと思い込んで、それであんなことを……。別に物術に関わる人を否定した訳じゃないんだ。本当にごめん。それに、あとあと考えてみると、志月さんに拘束されるならそれはそれで本望じゃないかって思ったしね。
それじゃ、そろそろ。…間違えても付いてきたりはするんじゃないぞ。僕はそんなこと望んじゃいないし、そもそも邪魔だと言ったら付いてこない約束だしな。
さようなら、愛する志月さん。幸せになってくれよ。
リングの赤色は綺麗に消え去り、そこには透明の美しい光だけが残っていた。
「私だって愛してたのに、一方的に言って去っちゃうなんて卑怯じゃない。」
合わせた両手を額にくっつけて、志月はどこに向けてでもなく言う。目の前には、悟知の墓。発見当時は酷い状態らしかったが、なんとか骨は埋めてもらえたらしい。顔を上げて、彼女は続ける。
「私、心理カウンセラーの資格を取ろうと思うの。悟知君の、君には人を変える力があるって言葉、信じてみたくてね。もちろん物術師をやめることは出来ないけど。じゃあ、また来るわね。」
墓前に透明のリングと花束を残し、それを背に去ろうとしたそのとき、背後に奇妙な気配を感じる。振り返ると、そこには悟知が立っていた。
「本当に、それで幸せなのか?」
「…当たり前じゃない、あなたが幸せになれって言ったんでしょう?本当に悟知君って心配性ね。」
彼は苦笑いをすると、その姿は初めから無かったかのように見えなくなった。
文章力がなくガリガリの文章で申し訳なかったです…
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!