四章「遊離」
辺りは暗く、全ての光がその跡を消してどこかに去ってしまった。何も視認することができない。全身が疲労している。感覚は浅く、身体が浮いているかのようだ。悟知は足を踏ん張ろうとするが、その力は虚しく宙へと霧散する。
嫌だ、怖い。
理解し難い状況で悟知の精神が恐怖に支配されそうになったそのとき、身体が突如降下を始めた。幾らかの無重力体験のあと、その身体は激しい衝撃に……
「がはっ!!」
「きゃぁぁあああ!!?」
目の前には、泣き顔で携帯を落とす志月がいた。場所は……小公園だ。彼女はそのままの泣き顔で混乱混じりに言う。
「本当にどうしたの?大丈夫?」
「えっ、どういうこと?」
悟知は彼女が落とした携帯を目の端に捉える。その画面は緊急電話の画面を表示していた。そこで悟知は漸く状況を理解する。どうやら倒れた直後のようだ。不安を露わにする志月を安心させるため、悟知は大袈裟に気丈に振る舞う。
「ああ、大丈夫だ。少しバランスを崩しただけだよ。それよりあまり長居しても仕方がないし、そろそろ行こうか。」
「でもさっきの倒れ方、明らかに普通じゃなかったわよ。本当に休まなくていいの?」
確かに目の前であんな倒れ方をされたら普通は心配するだろう。しかし、先程までの感覚とは対照的に悟知の今の身体は軽かった。携帯を志月に手渡しながら、悟知は出来るだけ明るく答える。
「大丈夫大丈夫。もう元気だから。」
でも、と食い下がろうとする志月をなんとか押し切り、そのまま無事彼女の家に買い物を届ける。
「本当にありがとう。体調悪いみたいなのに無理させてごめんなさい。」
「だから気にするなって。大したことじゃないよ。じゃあまた。」
笑顔で手を振って帰る悟知を、志月はいつまでも心配そうに見送った。
「物術?もちろん知ってるけど……」
妹はテレビを見ながら答える。やはり妹に聞いて正解だったようだ。自分が認識していたよりも物術というものは一般に浸透しているらしい。
「それってどんなヤツなのか?」
「物に薬品加工を施して、それを手近に置いておくことでいろんな恩恵を得よう、みたいな感じかな。でもお前がそんなものに興味を持つなんて意外だなぁ。」
どうして妹にお前呼ばわりされなきゃいけないんだろう、と悟知は毎度思う。が、そのことについて突っ込んだことはない。
「もし興味があるならあまり勧めないよ。物術にはよくない噂が溢れてるから。」
「よくない噂?」
「うん。物術と一言に言っても、その内容は普通の人が出来るものから専門の知識がないと出来ないものまであるんだけど、なんでも中には人の命が必要になる場合もあるとか。」
ぞくり、と身の毛がよだつ。彼女はそんなものに手を染めようとしているのか。
「まあ、あまり深入りしなきゃ大丈夫だろうけど。例えば……そうだね、お前のカバンに付いてるこれなんか……って、あれ?」
妹が悟知のカバンに隠されて付いているそれを見つけた。悟知にはそれに見覚えこそなかったものの、心当たりがあった。
濃く赤みがかった透明のリング。
「なんだ、もう知ってたんだ。しかもこれ、あの噂によく聞く恋愛成就の加工じゃん。相当の腕前の物術師じゃなきゃ出来ないはずなのに…。もしかして、何かヤバいルートで買った?」
ごくり、と唾を飲み込む。血のような色の光を放つリングの形、それが志月が買っていたものに酷似していたからである。
「しかもこの加工、かなり依存性が高いことで有名だよ。相手の脳内麻薬みたいなものにつけこんで依存症にさせてしまう、かなり悪質なやつらしい。」
「……もういいよ。ありがとう。」
聞きたくない。怖い。湧き上がる吐き気を堪えながら、自室へ戻る。
違う。彼女はこんなことはしない。
悟知は自らにそう言い聞かせる。しかし、いくら暗示を掛けてもその思考は止まらない。状況的に考えてこんなことをし得るのは彼女しかいない。悟知は既に彼女に対して感情を持っていた。
ーー相手の脳内麻薬みたいなものにつけこんで依存症にさせてしまう、かなり悪質なやつらしい。
じゃあ、この感情はまやかしだったっていうのか?
悟知は、溢れ出る涙を留めることが出来なかった。
悟知は努めて普段通りに志月と接した。しかし、悟知の心に刻み込まれたその恐怖を完全に隠すことは不可能だった。気づけば悟知は完全に防御体制に入っていた。
もう、彼女には気を許せない。
次第に疎んじられている、そう志月は感じたのだろう。ある昼休み、彼女は俯いて悟知に問う。
「ねえ、どうして私を避けてるの?私が何かしてしまったなら言って?」
「…なぁ、物術がそんなに楽しいか?」
「………。」
悟知は否定して欲しかった。そんな彼の願いも虚しく彼女の返事はない。望みの糸は非情にもあっさりと切られた。悟知は黒くねじ出てくる感情を抑えることが、出来なかった。
「済まない。もう、関わらないでくれ。」
「…そうね。邪魔だと言われたら身を引く約束だったものね。今までありがとう。楽しかったわ。」
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、その場を去った。
気づかないふりをして彼女ともっと一緒にいることは出来たはずだ。悟知はベッドの上で猛烈な後悔に悶える。彼女に献身してでも側に居たかった。それくらいの覚悟はあった、はずなのに。自分は、それを受け入れることが出来なかった。
結局、僕なんて…
悟知は激しい睡魔に襲われる。目の前が闇黒に曇る。身体から感覚が抜け出ていくのを感じながら、悟知は悲しみに沈んでいった。