三章「侵食」
「もし明日、悟知君に時間があったら、ちょっとだけ付き合ってほしいことがあるんだけど……無理かな?」
下校中に唐突に持ち掛けられた志月の話。今日は金曜日。土曜日である明日はいつも通り予定などない。悟知はいつの間にか使うようになっていたタメ口で答える。
「いや、そんなことはないが……」
「もしかして、私に気を遣おうとしてる?嫌ならそうだと言ってもいいのよ?」
悟知が中途半端な返事をしてしまったのは、別に気を遣ってる訳じゃない。面倒事に巻き込まれたくない訳でもない。ただ学校の無い日に彼女に会うということに不安に近い違和感を覚えただけである。
「嫌なんかじゃないけど、その付き合ってほしいことって何?」
「あー、明日買わないといけないものがいくつかあって、それを手伝って欲しいの。」
先程の疑問が脳裏をよぎる。彼女が何を目的としていつも自分のところに来るのか、悟知は知りたくなった。
「分かった、行くよ。いつどこで集合すればいい?」
「えーと、場所は……」
「うっ……」
突如激しい頭痛に襲われ、直後全身の感覚が霧散する。世界が歪む。重力を見失い、悟知の身体は強く地面に打ち付けられると思われたが、すんでのところでどうにか踏ん張る。振り返ると、志月が心配そうな表情でこちらを見つめている。
「ど、どうしたの?体調悪いの?」
辺りを見回すが、その風景にやはり異常は無かった。どうやら自分がおかしくなっただけらしい。
「いや、大丈夫だ。何か悪いものでも食ってしまったんだろう。」
指定されたホームセンターの出入り口に立ち止まる。悟知は辺りを見回す。
彼女は……まだいないようだ。
空は晴れて、暖かい陽射しを一面に撒いている。カバンから取り出した携帯の画面は9時55分を表示した。
あと5分か。
悟知は壁に背をつき、せわしなく出入りする自動車を眺めながら彼女を待った。
彼女は時間通りに現れた。白いダウンコートを羽織った志月は、普段の制服姿と違ってラフな雰囲気を醸している。入ってすぐ悟知の姿を認めた志月は、笑顔で悟知に手を振る。
「遅くなってごめんなさい。そして来てくれてありがとう。行きましょう?」
志月はホームセンターの中へと歩みを進める。その歩調は速く、しかし付いて行けないほどではない。彼女が足を伸ばした先、そこは……
「物術コーナー?」
悟知は素っ頓狂な声を上げてしまった。慌てて彼女の表情を確認するが、何か考え事をしていて自分の声は聞こえていなかったようだ。悟知は一安心する。
物術とは確か、薬品を使って装飾品などを加工し、それを身に着けることによって効果を得るという、いわばおまじないのようなものだったはずだ。女の子の間で人気だとは聞いたことがあるが、まさか高校生もその対象だったとは思っていなかった。
ふと思い出したように彼女のほうを見遣る。志月は漸く買うものを決めたらしく、薬品の入った小さなボトルや瓶を彼女のカゴに入れ始めていた。そのカゴがいっぱいになると、今度は悟知の持っているカゴに装飾品が幾つか入った箱を入れ始める。透明な輪、金色の針、カード状の金属板。それらを手に取る彼女は真剣そのもので、悟知は話しかけることができなかった。
「今日はありがとう。ちょっとそこで休んでいかない?」
志月の家に買った物を届ける途中、そう言って彼女が指した先は、例の小公園だった。薬品類が入った袋はやたらと重く、悟知も休みたかった。
「ああ、そうしよう。」
それを聞いた志月は公園に入っていき、屋根の掛かったベンチに腰掛けた。悟知はその屋根の柱にもたれる。先程真剣に買い物していた彼女に話しかけられなかったことを思い出し、口を開く。
「そういえば、志月さんは物術が趣味なんだ。」
「いいえ、私の趣味じゃないわ。」
「えっ?じゃあどうしてこんなものを買ったんだ?」
「それは……ごめんなさい、言えないの。手伝ってもらっておきながら勝手だけど。」
そう答える彼女の表情は酷く悲しげだった。
「あっ、言えないなら別にいいんだ。」
悟知は深入りしすぎたことを後悔する。
彼女の意図を探りたい気持ちが先行してはいけない。
苦々しい表情を浮かべる悟知を見て、志月は慌てて話題を逸らす。
「この公園に来ると、あの日のことを思い出すわね。」
言われて悟知は辺りを見回す。その風景はあのときの様子と変わらない。しかしそのときよりも寂れた感じが和らいで見える。
「しかしどうしてこの公園だったんだ?学校から割と遠いし。」
「学校から近すぎると、もし確認のためにその友人がつけてきたときに撒けないでしょう。証明のために録音はしてたけどね。それとも、誰かから見られて欲しかった?」
彼女は冗談めかしくこちらを見る。その友人とは、彼女にそれをさせたあの友人のことだろう。確かにそれは困る。
ん?ちょっと待て。録音?
「もしかして、その録音データって……」
「もちろん悟知君の発言のところだけ切り取って保存してあるわよ。」
彼女は背筋の凍るような笑みを浮かべる。自分の発言といえば……もちろんアレだ。
なんて奴だ。
頼むから消してくれ、そう懇願しようと彼女の方に一歩踏み出した瞬間、またあの頭痛に襲われる。
「ぐっ……ぁぁあああ!!」
今度はまずい。昨日の比でない、脳を毟られるような痛みがそんな直感を悟知に与えた。地面が崩れる。気づけば悟知の身体はその場に倒れていた。急速に薄れゆく意識の中に、微かに彼女の悲鳴が聞こえた。