No,4
「おはよう。お寝坊さんのマイ・ハニー❤」
朝っぱらからの深水の軽口に、起きたばかりの紫の頬に朱が昇る。
この男は何処へも出掛けないうちに、たった一日でイタリアナイズされてしまったのだろうか?
「何をぼんやりしてるんですか? もうすぐお昼ですよ。
いい加減に起きて下さらないと襲いますよ?
今日は観光したいっておっしゃるから、昨夜はセーブしたんですから」
反応の鈍い紫に、深水が覆い被さる。
「それとも観光はやめて、今日はこのままベッドで有意義に過ごしますか?」
顔を近づけて来る深水に、紫は慌てて飛び起きた。
「待たせてご免、京!朝ご飯、食べに行こうか!」
「・・・もう、昼食ですよ・・・・って、何かその反応も何気に傷つくんですけど」
渋い顔も長くは続かなくて、深水はクスクス笑いながら紫を離してくれる。
「シャワーを浴びてらっしゃい。俺はお先に使わせて頂きましたから。
着替えてブランチにしましょう」
ホテルでブュッフェスタイルの食事を済ませて、先ず一番最初に向かったのは、カトリックの総本山・ヴァチカン市国だった。
「二カ国目、入国~♪」
ヴァチカン市国。
面積僅か44ha、人口約1000人とは云え、れっきとした独立国家だ。
イタリアとの国境線を踏み越え、おどけて深水が言うと、紫が笑ってくれた。
部屋の窓から丸いドームの屋根が見えたが、近付くにつれて、その威容は明らかになっていく。
サン・ピエトロ大聖堂。
カトリックの頂点に君臨する、信仰の象徴だ。
中に入ってみて、改めてその巨きさに息をのむ。
―――完璧な美を前にすると、人間は哀しくなるというけれど、これは―――
深水に言う気はないけれど、紫には、信じるべきものを、救いを求めて彷徨った時期がある。その特異な身体の故に。
聖書を読み、小学生の時は教会の日曜学校に通った。
一条の家の縁を頼り、神道の大家に話を聞いた。
仏典を読み、加納の菩提寺の和尚の説法を聞いた。
コーランを読んだ。
ユダヤ教やヒンズー教の経典も読んだ。
怪しげな魔術や、秘教の類にも手を出した事がある。
だが、何処にも、紫を救ってくれるものはなかった―――
ただ、新興宗教には近付かなかった。
下手をすれば素性がばれて、お布施と云う名の寄付を求められカモにされてしまうから。
いつしか、諦める事を覚えた。
痛みを感じなければ、救いを求める必要もない。
ただ、幼い頃から親しんだ神話の数々は紫の中に深く根ざし、それらを基に創作された美術品の数々を鑑賞する楽しみを覚えた。
だから、紫はこの場所を、イタリア・ルネッサンスの芸術の殿堂とのみとらえていた。
聖堂を入って直ぐ、向かって右手に、ミケランジェロの若き日の傑作【ピエタ】がある。
キリストの亡き骸を抱え、聖母マリアが語り掛けて来る。
―――この犠牲を見よ―――と
サンタ・マリア
私は、あなた方の犠牲では救われませんでした。
私を救ってくれたのは、私の横にいる京です。
この存在と出逢わせてくれたものへのみ、私は感謝と祈りを捧げます。
ゆっくりと内部をめぐる。
正面のベルニーニによる、聖ペテロの司教座や大天蓋、ミケランジェロ設計の円蓋の荘厳さに圧倒され。
聖ペテロのブロンズ像に跪き、足に接吻していく敬虔な人々を見つめ・・・・・・・
尚、立ち去り難く、何度も振り返ってしまったのは、一体何への未練だったのか、紫本人にも理解らなかった。
「ハア~~~」
噴水の元に腰を下ろし、紫さんがため息を吐く。
「・・・ご満足頂けましたか?」
像や建造物の一つ一つの前で立ち止まり丁寧に見入る、この人にこそ神聖さを感じ、うかつに声を掛けられなかった。
特に【ピエタ】の前では、魅入られたように長い間動かなかった。
この綺麗な人は、一体何を想い、あの場に佇んでいたのか。
やっとの事で外に出て、ようやく紫さんは俺の元に戻って来てくれた。
「大満足だよ!ありがとう、京っ。一度見てみたかったんだ!!」
興奮する子供さながらに満面の笑みを見せてくれた。
俺は、この笑顔を見られただけで大満足だ。
「じゃあ、お次はどこへ行きますか?」
「システィーナ礼拝堂!」
打てば響くような明快さで答えが返って来た。
「ああ、褌画家の傑作のある処ですね」ニヤリと嘲笑えば、「京ったら~~」と指を差されて笑われた。
「でも、それってバチカン博物館の一部でしかないんですよね」
「うん。この礼拝堂とラファエロの間と、それに続くラファエロの廊下が特に有名だけれどね。全部見たら何日かかるか分からないよ」
「・・・・挑戦してみましょうか?」
「・・・・本気?」
「勿論。いいんですよ、急ぐ旅でもなし。紫さんの見たい物を見てくれれば」
「・・・・退屈しない?」
「紫さんの楽しそうな顔が見られるんですよ。退屈してる暇なんかありません」
真顔で答えれば、紫さんの顔がたちまち赤くなる。
・・・ンとに、可愛いったらないんだから。
「じ、じゃあ、とにかく今日はシスティーナ礼拝堂へ。
それで明日っから、ヴァチカン博物館制覇コースって事で・・・いい?」
「決まりですね」
こうして、バチカン博物館耐久レースは始まった。
“普通の観光”を紫さんにしてあげられる事が嬉しくてたまらない。
明日は、いくつの紫さんの笑顔に出会えるだろうか。
全然、普通じゃないって(苦笑)