No,3
三月末日 Tホテルでチェックアウトを済ませた深水は、ロビーでリザに呼び止められた。
勿論その横には、昨日やっと念願のピアスをしてもらい嬉し気に微笑む紫の姿もある。
「このリザ様から逃れようとしたって無駄よ。チケットを手配したの私なんですからね。あたりをつけてはっていた甲斐があったわ」
「・・・・・・・・お前は刑事か・・・・・店はどうした」
高笑いするリザに、深水ががっくり項垂れる。
「営業は午後からよ。本当は空港までご一緒したいんだけど、ここで勘弁してあげるから有り難く思いなさい」
恩着せがましく言われてしまい、深水はもうため息も出て来ない。
「あ、あの!私は本当に有り難いです!!」
淀んだ空気を何とか変えようと、新妻が健気に口を挟む。
「ホント、紫さんは良い子ね~~♪ 深水なんかには勿体ないわ」
「そんな・・・・っ! それより、お見送り、本当に有難うございます」
「・・・・・・・・・・・・紫さん、甘いです・・・・・・・・・・」
深水の小さな呟きを聞き逃さなかったリザが、ニヤリと嘲笑う。
「それでは、深水ンのご期待に応えまして―――」
深水が慌てて紫の腕を引っ張る。
「行きますよっ、紫さん!」
脱兎の如く、並んでいるタクシーに向かいエントランスを出る二人の後ろから、高らかな女性の声が追い掛けて来た。
「深水君と紫さんの新たなる旅立ちに・・・・バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!!」
「・・・・・・・リザの奴・・・っ、ホントにやりやがった・・・・・・・・」
広々としたファーストクラスのシートに身を沈め、げんなりと深水が呟く。
そんな深水の横で、紫はさっきからクスクスと微笑いが止まらない。
「有り難いじゃないか。リザって意外に楽しい人だったんだね」
「面白がってるだけですよ。自分が暮らしている処であんな恥ずかしい事やりますか、普通」
仰々しいキャビンアテンダントからのウェルカムドリンクの攻勢をかわして一息つくと、紫がソッと深水に手をのばす。
「・・・・・ねえ、京。
・・・・これが私の初めての旅行だって言ったら信じてくれるかい・・・・?」
自分の手をギュッと握って来る紫に、深水がハッとした表情で、こっちを向いたのが分かった。
小学校の林間学校も、中学・高校の修学旅行も行ってない。
いつ身体が変化するか分からないからね、持病があるから集団の旅行は無理だって加納の主治医に診断書をもらっていた。
家族旅行って云うやつにも行った事がない。
父は仕事人間で、母は他所の奥様方とのお付き合いに夢中で・・・・私には無関心だったから。
だから、こんな“普通”の旅行がすごく嬉しいんだ。
“普通”に友人の見送りを受けて、“普通”の新婚旅行へ行ける―――
ねえ、京。・・・・・私、こんなに幸せでいいのかな?
何の気なしに【普通】なんて言葉を使ってしまった自分を、深水は殴り飛ばしてやりたい後悔に襲われた。
しかし、学校の行事は仕方ないにしても、紫が両親の愛を受ける事無く育って来た事を知ると遣り切れなくなる。
自分だって、とても“普通”とは言えない環境に産まれてしまったが、それでも母は精一杯の愛情を注いで女手一つで自分を育ててくれた。・・・・あの父親にしたって、自分に干渉してくるぐらいには気に掛けてくれていたと云う事だろう。
俺は幸せだったか?
自分に問い掛けると、直ぐに答えは出た。紫さんより、ずっと幸せだった。
今は、もっと幸せだ。
だって紫さんを手に入れる事が出来たのだから―――
そう、これから、もっと幸せになれる。
「ねえ、紫さん」
幸せに臆病な人に、俺は精一杯の想いを込めて微笑みかけた。
「紫さんは幸せですよ。
だって、俺って云う人生の伴侶を手に入れたんですから。
そして、これから、もっともっと幸せになれるんですよ。二人でね」
俺の言葉に紫さんは眼を見張り・・・・みるみるうちに涙を浮かべ、両手で顔を覆ってしまった。広いシートがもどかしい。
今すぐ力いっぱい抱き締めてあげたいのに。
抱き締める代わりに、俺はハンカチを差し出し、改めて手を握り直した。
この手の暖かさが、あなたの冷え切った精神にどうかとどきますようにと願いを込めて・・・・・
十時間以上の快適な空の旅を終え、やって来たのはレオナルド・ダ・ヴィンチ空港。
新婚旅行の記念すべき最初の国はイタリアだ。、
リザと相談して深水が宿泊先に選んだのは、カバリエリ・ヒルトン。ローマを見渡す小高いモンテ・マリオの丘の上に立つリゾートホテルだ。紫さんがどうしても行ってみたいと言っていたバチカン市国もここからなら直ぐだ。
何年も家を出る事のなかった紫さんの初めての旅行。先ずは長旅の疲れを癒すため、今日は一日のんびりする事にした。
先は長い。そう焦る事もあるまいと、深水はルームサービスをとる事にした。
自分にはエスプレッソ、紫さんにはカプチーノだ。
ベタなくらいの定番中の定番。
―――紫さんには、もう沢山!とねをあげる程の【普通】を味わわせてあげたい―――
深水は、この旅行のために買い込んだガイドブックや“るるぶ”を楽しそうに眺める紫を見ながら、静かに微笑んだ。
こうして、深水と紫の蜜月旅行は幕を開けたのだった。
実は、この話を自サイトにUPしている最中、あの大震災がありました。
私はある程度、話を書きためていて、それを時期に合わせてUPしておりましたので、震災表現を入れるべきか、かなり悩んだ記憶があります。
私は関東で被災しましたが、あの時の事は忘れられません。
良い意味でも。。。。そして、悪い意味でも。
でも、そんな天野を拍手で励まして下さった読者の方々には、
心から感謝致しております。
あ~、あ~、早く話が【降りてくる】ようにならないかな~~~