No,20
「はぁ~~っ、楽しかったぁ~~~」
長い溜め息を吐いてソファーに沈む紫さんの言葉に嘘はない。天井を見上げて微笑む紫さんの表情は本当に明るく、【彼】が心の底から今夜の時間を、そして今日と云う日を楽しんでいた事が理解る。
―――それが、気に障ると言ったら、この人はどんな顔をするだろう?―――
大体、この旅行は、俺たちのハネムーンのはずだった。それが音を立てて崩れたのは、ルーヴルで義兄たちと出会ってしまってからだった。そこで高見沢たちとも出会い。イタリアで擦れ違っただけだったはずの各務たちとまで再会してしまった。
ローマは良かった。完全に紫を一人占め出来ていたから。
それがパリに来てからは、どうだ。急転直下もいいところ。何と、合計八人で行動する事になってしまったのだから頭が痛い。
しかも、今日。紫は自分から外界へ出たいと言ったのだ。
俺との閉じられた、たった二人っきりの世界を希んでいたのは、貴方だったはずなのに―――と恨み言の一つも言いたくなる。
しかもだ。更に気に入らないのは、自分が存外、各務たちとの交流を愉しんでしまっている事だ。おまけに、あんなに嫌っていた義兄への拘りが、自分の中で徐々に小さくなってきている事が、何より腹立たしい。
理由は、理解っている。周囲に受け入れられ始めた紫さんの内面の変化と・・・・・今日、新たに【兄嫁】となった少年の所為だ。
―――あの、一条・・・・いや、【緋龍院 翠】には、自分は勝てない―――
そんな深水の複雑な心情に、紫は全く気付かない。それもそのはず。紫もまた、屈託を抱えていたのだ。
確かに、とても楽しかった。
学生時代にも、【友人】たちとあんな会話をした事はない。
翠も、プレゼントを喜んでくれて、とても嬉しかった。
翠の純粋さに救われる想いがする。
・・・・・・だが、その眩さに嫉妬している醜い自分がいる・・・・・・あの、光り輝く光景が頭を離れない・・・・・・・・・・・
確かに自分は、深水と結婚式を挙げた。
沢山の人に受け入れてもらい、彼らの前で誓いをたてた。
・・・・だが、それだけだ。法的根拠は、何もない・・・・・・・
正式な書類を交わし、法の元に保護される関係が羨ましくて妬ましい。
・・・・このままでは、もし万が一、私に何かあった場合、莫大な遺産は、全て加納の分家の物になってしまう。
いや、一条の家の者も、絶対に絡んでくるはずだ。“一条の恥さらし”、“忌み子”と嫌いぬいたくせに。
・・・・私のものは、全て、愛する京に受け取って欲しい。
両性であるのなら、いっそ、女性として出生届けを出して欲しかった・・・・・!
そうすれば、何の悩みもなく、愛する者と結ばれる事が出来たのに・・・・・・!!
「ねえ、紫さん・・・・・・」
「ねえ、京・・・・・・・・・」
言葉を発したのは、どちらが先だったのか。
「あ、紫さん、どうぞ・・・・・」
「ううん、京の話から先に聞きたい」
しばらくお互いに譲り合いをしていたのだが、“夫の権限”を行使した深水に折れる形で、紫がやっとの事で口を開く。
「・・・・翠君・・・・幸せそうだったね・・・・・・・」
言葉とは裏腹な、インクが一滴ポトンと落ちて、たちまち広がっていくシミのような、そんな微かな不安に深水がやっと気がついた。
「・・・・何だか、紫さんが幸せではないように聞こえますよ・・・・・?」
・・・・ここで深水が普段の状態だったら、紫を気遣う事が出来ただろう。だが生憎、精神状態がまずかった。
たちまち固く強張った声色に紫が慌てる。
「私は幸せだよっ!
京と結婚出来て、こんな素敵なところにまで連れて来てもらって不幸なはずがないっ!!」
お願いだから、怒らないでっ!と、紫が座っていたソファーから立ちあがり、深水にしがみついてくる。だが。
「そうでしょうか?
・・・だったら、そんな風にはおっしゃらないと思いますが・・・・・?」
満たされない独占欲故に、どんどん声が、表情が冷えていく。
こんな心算じゃあ、なかったっ!
京を怒らせる心算じゃ・・・・・・っ、これじゃ私の話なんて出来ないっ!!
深水の胸に顔を埋め、嫌々をする紫は、どんどん精神の平衡を欠いていき、半狂乱になっていく。
そんな紫の様子を、暗い想いで満たされて、黒笑むのは深水だ。
―――ああ、まだ大丈夫だ・・・・・この人は、俺がいなければ息さえ出来ない―――
「・・・・・紫さん・・・・・泣いていたんじゃ、理解りませんよ」
「もう、いいっ!!京に怒られて、したい話しなんかないもんっ!!」
「そんな事、言わないで・・・・・・翠君の何が羨ましくて、あんな言い方をしたの・・・・?」
ハッと濡れた顔を上げる紫に、今度こそ、心からの微笑みを浮かべる。
「・・・・・俺を相手に、隠し事をされる方が腹が立ちます。
いいから、言ってご覧なさい?
・・・・・・大丈夫。
どんな醜い嫉妬をしたって、俺が受け止めてあげますから・・・・・・」
ここまで言われてしまえば、紫に勝ち目はない。
結局、翠と緋龍院の姿を見ていて感じた全ての事を白状させられてしまったのだった。
「―――そう云う事ですか―――」
「ごめんなさいっ!怒らないで、京!私が贅沢過ぎたのっ!!」
「贅沢?俺に財産を遺してくれようとするのが贅沢ですか?違うでしょう?」
「・・・・だってっ、京に・・・・リザにも、あんなにしてもらったのに、私はそれ以上を望んでるっ!!」
「―――少し考えさせて頂けませんか・・・・?―――」
深い静かな声色に、紫が呆然とした表情で深水を見つめる。
「・・・・正直に言います。実を言えば、全く考えなかった訳ではないんですよ。
同性婚と云うか・・・養子縁組をね。リザの奴に式を提案された、その時に。
でも・・・・・・俺は踏み切れなかった。理由は簡単です。
恥ずかしい話・・・俺の見栄です。
・・・・俺たちの場合、貴方が養父になって、俺は【加納】姓になる。
あ、それが嫌って訳じゃありません。
ただ、加納の籍に入れば、色々と五月蠅いご親族がいらっしゃるでしょう?
財産目当ての男だと思われたくなかったんです。
それに貴方が亡くなった後の事なんて―――考えたくもない。貴方が死んだ後に、いくら金をもらったって嬉しくも何ともない。
これでも俺は、緋龍院のジイサマに生前分与を受けていて、ちょっとした金持ちなんです。
もし貴方が死んだら、俺もついて逝きたい。
黄泉の国で二人で暮らすのも悪くない―――そんな事考えていたんです。」
一旦口を閉ざし、そして、紫の額に口付ける。心底愛しい者にする、いつもの口付けを。
「・・・・・でも・・・・・・それは、結局、自分の事ばかりで、貴方の気持ちを全然考えていなかった・・・・・
たった紙切れ一枚の繋がりが、貴方を幸福にすると云うのなら・・・・・・俺は、それをあげられる可能性をもう一度考えてみたい」
長い長い告白を受けた紫は、今、聞いた事を自分の中で整理し、消化し―――昇華した。
滂沱の涙が止まらない。
深水と・・・京と出逢って、何度も幸せだと思える瞬間があった。でも。
次の瞬間には、直ぐに、それ以上の幸福をくれる―――
サン・ピエトロ大聖堂で見た【ピエタ】を思い出す。
ルーヴルで見た【洗礼者 聖ヨハネ】を思い出す。
ローマで、そして、パリで見て来た、いくつもの聖なる存在を思い出す。
―――あなたたちが、私に、京と云う救いを与えてくれたのなら・・・・・どうか、彼を私から奪わないで下さい―――
この二人のその後のお話は、「Holy Night Date」
と云うクリスマス小説にUP予定ですので、お楽しみに~♪




