No,14
幕間のロビーは、紳士・淑女の社交場だ。
ロビーのバーで、今夜は特別に許してもらったカクテルを飲んで僕はご機嫌だった。
でも、アルコール以上に僕の心を酔わせてくれたのは、言う間でもなく、今観たばかりの舞台だ。
「凄かったね!あの跳 躍!!
ガリムーリンのドンキは、やっぱり絶品だよっ!!
最近は日本で後進の指導をしていたから、彼の舞台は殆ど諦めていたんだ。
わざわざ、フランスに観に来た甲斐があったよ♡」
大興奮でチビリチビリとカクテルを舐めながら、バレエ談議に花を咲かせた。と言っても、はしゃいでいるのは僕だけで、そんな僕を京兄と紫さんが優しい眼で見守ってくれている。深水ンは、今は少し離れた処で、伊倉さんと例の白人男性と、伊倉さんの秘書の人と真剣な顔で話しをしている。
こんな愉しい晩に、あんなおっかない顔をしてるなんて、すごく勿体ない。
こ~んな素敵な場所で、こ~んなゴージャスな雰囲気に酔い痴れる事が出来て―――本当に僕は幸せだ。
様々な人種の人たちが思い思いの服装で、楽しげに語り合っているのを何となく見渡し・・・・そこで知った顔を見つけて驚いた。
「ちょっと、待っててっ」
そう言い残すと翠が急に駆け出すから、こっちは仰天した。ガードがついてるはずだが、この人混みでは確認出来ない。
勿論、俺も直ぐに後を追ったが。
人の波をかきわけ近付こうとする視線の先を見た俺は納得した。ルーヴルで出逢った、あの精神科医だ。
勿論、あの恋人も横にいる。しかし、翠の奴、この人ごみから良く見つけたもんだ。
あいつは義理がたい。きっと、加納の事について礼を言いたいと思ったのだろう。
・・・・気持ちは理解るが、こんなところで迷子にでも・・・万が一、誘拐にでもあったら、どうする心算だっ!!
帰ったら、お尻ペンペンの刑だっ、と俺はなかば自棄になったように、翠の首根っこを引っつかんでやろうと腕を伸ばした。
「・・・・君は・・・・」
一度だけ、美術館・・・確か、ルーヴルで出逢った少年に声を掛けられて驚いた。自分にとっては、一瞬の邂逅にも似た出逢いだったのだが、彼の必死な瞳を見れば彼にとっては、あれは特別なものになってしまっただろう事が容易に理解る。決して、異国の地で同胞に会った気安さから気楽に声を掛けて来た訳ではないだろう。とりあえず話しを聞こうとして・・・・彼の保護者兼恋人が直ぐ後ろに迫って来ている事に気付いて思わず笑みが漏れた。
「・・・あ、あの・・・・っ、僕っ、ルーヴルでお会いしてお話しを伺った者です!
あの!一言お礼を言いたくて・・・・・・うわ・・・っ!?」
案の定、後ろから首根っこを捕まえられて顔を引き攣らせた少年は、その腕の持ち主を見ると明らかに安堵した表情をした。
「もう~、驚かさないでよ、京兄」
「それは、こっちの台詞だ、馬鹿翠!こんな人ごみで自殺行為だぞ、全く・・・・・・・!」
彼は余程心配だったのか、恋人をその腕に抱き込んでしまった。
「ちょ、ちょっと、京兄・・・・っ!!」
「・・・・全く、俺の寿命を縮める心算か・・・・・っ」
「・・・・っ!ご、ごめん・・・・・・・・・」
これは、ひょっとして痴話喧嘩に巻き込まれてしまったのだろうか?
思わず苦笑が漏れそうになるが、少年の恋人の男性の気持ちを思いやって、何とか堪えた。
「・・・・結局、終演後に会う約束をしちゃったね」
「・・・・仕方ないでしょう?
あんなに必死にお礼をしたいからと懇願をされたら断れませんよ。」
「俊に対して、あそこまでごり押し出来るなんて、あの翠って子もある意味大物だよね。」
「・・・・嫉妬ですか?嬉しいですねぇ~
【香月】が妬いてくれるなんて滅多にありませんからね~~」
「・・・・俊が知らないだけだよ。いつもいつも・・・俊のクリニックの看護師さんにだって、患者さんにだって・・・・
・・・・・こっちに来てからは、俊の眼に映る綺麗なパリジェンヌたち、みんなに嫉妬してる・・・・・・・・・」
やれやれ、他人の事は笑えない。これでは私たちも、立派なパカップルだ。
「・・・・・・ブラボーッ」
観客が総立ちになるスタンディングオベーション。
鳴りやまぬアンコールの声と、万雷の拍手と、みんながブラボーを叫ぶ中。
紫のその賛辞は酷く小さなものだったが。
思わず。本当に思わず叫んでしまった。
・・・・・こんなに大声を出せる日がくるなんて、
・・・・・感動で、涙を流せる日がくるなんて・・・・・
約十五分の演目【ボレロ】
今は亡き名振付家、モーリス・ベジャールによって創作された、その作品は、この不世出の舞踊家シルヴィ・ギエムの肉体で表現される事に寄って、神聖なる【儀式】として昇華された。
正に、美神・アフロディーテの降臨だ。
舞台上と客席との距離はあるが、今、この瞬間、同じ空間に存在出来る事が嬉しい。
同じ空気を吸っている事さえ愛おしい。
一度は自ら封印した演目ではあったが、今回、世界中の熱狂的なファンの要望に応えて、元エトワールがパリ・オペラ座の舞台に再臨したのだ。
この時にパリに滞在させてくれた京に。
この舞台に誘ってくれた翠君に心からの感謝を捧げたい―――
横で夫が苦笑している。
「あなたに、そんな涙を流させるギエムと、翠君に嫉妬してしまいそうですよ」
帰りのクロークは混むし、ロビーは人で溢れ返るだろう。舞台の余韻に浸る人々のせいで【カフェ・ド・ラ・ベ】も混雑するだろうからと席をリザーヴさせておいた事が功を奏した。急に増えた四人の席も、アレッサンドリの名で用意させた。ちなみに、そのアレッサンドリ氏は急用が出来たとかで、今回のお茶会には不参加だ。心からホッとした顔を見せたのは、言わずと知れた深水だった。
「本当にすごかったっ!!」大興奮の第一声は、翠。
「正に、現代のヴィーナスですね。
わざわざパリに足を延ばした甲斐がありました」
との声は、各務と雅、そして精神科医の高見沢俊介のものだ。
「あの、ガリムーリンの【ドゥエンデ】も良かったよ!フラメンコの【DUENDE】に通じる魅力と云うか・・・“魔力”があったね」
翠の言葉に喰いついたのも、やはりこの三人だ。
「ほう、翠君は、フラメンコにも造詣が深いのですね」
「若いのに、大したものだ」
「翠君は、ガリムーリンのファンなの?」
最後の質問は、雅だ。
「彼の事はDVDで・・・・彼の最盛期を生で観られなくて、本当に残念ですっ」
心底悔しそうな翠に、雅は本当に嬉しそうだ。
「でも、翠君は、なかなかの通だよ。
あの時代に活躍したダンサーの代表格は、今やマラーホフだからね」
「あ、マラーホフも嫌いじゃありませんよ?
でも彼は現役で活躍していて、よく来日もするから」
大人たちに寄ってたかって誉められて赤面しながらも翠は答えた。特にガリムーリンの話が出来るのは嬉しい。同年代の友人は、彼の事はおろか、バレエの話も出来ない。年上の恋人とは論外だ。
それからしばしの間、珈琲を片手にバレエ談議に花を咲かせたが、紫さんがそれに加わってくれたのは嬉しい誤算だった。
話題についていけない無粋な兄弟は、それでも、楽しそうな互いの恋人の表情を見つめて、時折優しく相槌を打ってくれる。
時間を忘れて熱中していたら、ついと腕を引かれ、京兄が腕時計を示し注意を促す。
いけないっ!もう、十二時をとっくに過ぎている!!ここ【カフェ・ド・ラ・ペ】は、午前二時までの営業なのですっかり油断していた。
本来の目的を思い出し、改めて高見沢医師に向き直る。
「・・・あのっ!高見沢さん!!」
「何でしょうか?翠君」
すっかり気心の知れた友人としての柔らかな笑みを向けてくれる高見沢に、
ではあのルーヴルで見せた微笑みはやはり営業用だったのかと短い時間で思い知る。
「殆ど初対面に近いのに、いきなりお誘いしたりして失礼しました。
でも、僕、どうしても高見沢さんにお礼を言いたかったんです」
「・・・・それは、あの時も伺いましたが・・・・・・
どうして、何のお礼を言いたいのか、お尋ねしても・・・?」
「勿論です!実は・・・・っ、あの時の高見沢さんの【普通】と云う意識について、とても興味深く拝聴したんですが・・・・・・・・
実は、僕は知らずに無意識のうちに差別して、とても大事な人を傷つけていたんです。無知な自分が恥ずかしかった・・・・・
だから、それに気付かせてくれた高見沢さんは僕の恩人でもあるんです!本当にありがとうございました・・・・・・・・・っ!!」
ガタンと席を立ち、高見沢に向かって九十度に腰を折る翠は、大人の眼に眩しいほどに潔い。
それに合わせたようなタイミングで「翠君・・・!」と声を震わせる紫の姿を見れば、事情を全く知らないはずの各務たちにも、ある程度の事は察する事が出来る。
翠が傷つけた大事な人とは紫の事であり、彼女が何らかの【普通】ではない事情を抱えていると云う程度の事は。
そして、それを追及しようと云う無粋な人間は、ここには存在しなかった。
高見沢が静かに口を開く。
「白状しますとね、翠君。私は後悔していたんですよ。あの時、あんな事を言ってしまった事を。
私は精神科医の常で、何かをどうしても分析してしまう癖がある。
それを黙っていれば良いのですが、得々と披露してしまう事がある。あの時のようにね。
実は、それで友人とも呼べる知りあいを何人かなくしている。だから、自戒していたのです。
ですが、旅先で恋人と一緒と云う事もあって、私は油断していた。
貴方方にも楽しい観光のお邪魔をしてしまったかと後悔していたのです。
だから、それが杞憂だと分かって私も嬉しい。
何より、翠君、貴方のお役に立てた事が本当に嬉しいんです。」
にっこりと高見沢は、見ている者が見惚れるような微笑みを浮かべた。
「どうぞ、座って下さい。
そして、私からもお礼を言わせて下さい。ありがとう、翠君」
和やかな暖かい雰囲気が流れる中、一人面白くないのは翠の恋人の京牙だ。
―――あ~あ、また、タラしやがったよ、翠の奴―――
―――あの一筋縄ではいかないような男を、恋人の告白までさせてしまうほどKOしてしまうなんて―――
―――翠の男前な処は、俺一人が理解っていればい~んだよ―――
「モテる恋人を持つと大変だな~、兄貴」
自分をからかう時だけ【兄貴】呼ばわりしてくる義弟が恨めしい。
「・・・・翠と婚約した時から覚悟はしてたよ」
悔しいから、数日前の義弟の台詞をパクってやる。
フン!俺をからかうなんて、百万年はえ~んだ。
そんな恋人の苦悩を知らない、天然な少年の呑気な声が響く。
「え!高見沢さんたちも、各務さんたちも、
ゴールデンウィーク過ぎてもいらっしゃるんですか!?
だったら、ご一緒しませんか?大勢の方が楽しいでしょう!?」
―――な~~んだと~~~う~~~~~っっっ!?―――
次の瞬間、舞台の余韻に沸く【カフェ・ド・ラ・ペ】に、深水の爆笑が響き渡ったのだった。
カフェに来る事が出来なかったアレッサンドリ氏の事情は、
この後UP予定の「Wave」でご覧下さいませ。