閑話:一緒にお風呂
野犬に襲われかけたマリーを、お城に連れて帰ってからのフェリクスとマリーのお話。
じゃばじゃばと、獅子を模した蛇口から湯があふれる。
「ほら、マリー、こっち来いよ」
「……」
「いつまでぶすくれてんだ。怪我がないかどうか診ながら洗ってやるから、来いって」
すでにフェリクスは服を脱いで、湯をかぶっておる。
妾はフェリクスの言う通りにするのがしゃくにさわりながらも、のろのろと服を脱いだ。
浴室に入り、広い浴槽の横にあつらえられた洗い場に腰を下ろす。すると、フェリクスが頭からざばっと湯をかけてきた。
「うわっ、熱いではないか!」
「そうか? これくらい平気だろ。どこか沁みるところはないか」
「特にない」
「そうか。痣《あざは?」
フェリクスは妾の顔や手足についた泥を落とし、腕を引っ張ったり手の平をひっくり返したりして怪我の有無を確かめた。
「大丈夫みたいだな。よかった」
ほっとフェリクスが息をつく。安堵の色が滲むその声に、妾はいかにフェリクスに心配をかけたかを感じた。
「……すまなかった」
「いいさ、無事なら。でももうあんな無茶はしないでくれ。
おまえが野犬に取り囲まれていると聞いたときには、肝が冷えた」
兵士を連れて城壁の視察に行く途中だったフェリクスは、川のそばを通りがかったときに、ベッテの助けを呼ぶ声を聞いたという。
「こんな細い腕じゃ、食いちぎられてもおかしくないぞ。民を大事にしてくれるのは嬉しいが、おまえ自身のことももっと大事にしてくれ」
フェリクスは、石鹸を泡立てて、妾の腕をていねいに洗っていく。首や腹を洗われたときは、くすぐったくて笑い声が漏れた。
「ほい、続きは自分でやれ」
石鹸を渡され、足を洗う。フェリクスは妾の頭をもう一度濡らすと、今度は髪を洗い始めた。
「ずいぶん伸びたな」
「ほとんど切っておらんからの。
あ、エミルがな、きれいじゃとほめてくれたのじゃ」
「そうだな。金とも銀ともつかないこの色は、ロクサーヌ王家独特の色だからな。おまえの母親も、それは見事な髪をしていた」
フェリクスが、妾の髪を一房とって、懐かしそうな目をする。
「母上を知っておるのか」
「そりゃ知ってるさ。だって俺は……」
フェリクスの手が止まる。妾は黙って続きを待っておったが、フェリクスは「ふっ」と笑うと、ざばっとまた湯をかけた。
「じゃから! 熱いと言っておろうに!」
「ははっ、今日は疲れただろう。よくあったまれよ」
フェリクスに持ち上げられ、ぽいっと浴槽に放られる。ぶくぶくっともぐってぷはーっと顔を出すと、フェリクスも手早く体を洗って浴槽に入ってきた。
「ウォルはどうしたかの」
「あの子どもか? たいした傷には見えなかったから、大丈夫さ」
「そうか。エミルも怖い思いをしたじゃろうて」
「それはおまえも同じだろ」
フェリクスが妾の頭に手を置く。大きな手の平の重みと、湯の温かさが身に沁みて、つんと鼻の奥が痛んだ。
「怖かっただろ? 怖かったよな。もうあんな無茶はするな」
フェリクスが洗ってくれてつるつるになった髪を、何度も何度も撫でてくれる。
妾は、目から水が出てきたのでばしゃばしゃと顔を洗ったら、フェリクスが手を引いて抱き寄せてくれた。
「ここには俺とおまえしかいないんだから、泣いたっていいじゃないか。
がんばったな、マリー」
フェリクスの厚い胸板に頬をつけると、とくとくと心の臓が動く音がした。
フェリクの手が、頭の上に乗り、髪をすべって腰までいって、また頭の上に戻ってくる。
じゃばじゃばと、獅子の口からお湯が出てくる音だけが響く。
「……っ」
妾の涙が止まるまで。
フェリクスは、ずっと髪を撫でていた。
「フェリクス! フェーリクス!」
ドレスの裾をからげ、今日も妾は城内を駆ける。
渡り廊下を通って、二番目の柱の陰に、青いマントが見えた。
「フェリクス! なぁ、そろそろ街に行ってもよかろう?」
「あぁ? まだだめだ。城壁用の石を運ぶために通りが狭くなってるし、野犬の捕獲も終わってないからな」
フェリクスは、手元の書類をぱらりとめくる。どうやら城壁の増築について、兵士の報告を聞いていたようじゃった。
「そんなこと言って、もう一月になるぞ! ウォルの様子を知りたいのじゃ! エミルにも会いたい!」
「ウォル、ウォルって、おまえなぁ。毎日のようにそいつのことばっかじゃねぇか。いい加減聞き飽きたぞ。
うわっ、わかったよ、飛びつくな。
そうだな。明後日くらいにはいいか。ただし侍女じゃなくて兵士を連れて行くこと。ウォルってやつの様子を見たらすぐに帰ってくること」
「えぇ?」
「いやなら、まだ当分だめだな」
「わ、わかった。兵士じゃな。すぐ帰ってくればいいのじゃな。
カーラー! 出かけるぞー!」
「あっ、馬鹿、マリー! 明後日って言ったじゃねぇか。こらー!」
フェリクスの声が追いかけてくるが、気にしない。
妾は誕生日にカーラにもらったリボンを髪に結び、兵士の手配をしてもらって外に飛び出した。
「ウォルー!」
「王女様……、また来たのか」
ウォルはすごく元気そうじゃった。初めの一言こそそっけなかったが、最後には嬉しい言葉をくれた。
エミルを必死に守っておるときのウォルは、とても格好よかったから、きっといい兵士になるじゃろう。
ウォルに会った帰り。
露店に寄って、釣り道具を買って帰った。
「寄り道をするなと、あれほど言ったろうが」
「これくらいよいではないか。フェリクスのけちんぼめっ」
「おまえなぁっ
もう野犬に襲われても、助けてやらねぇからな!」
「ウォルが助けてくれるからかまわんわ。
それに、街はすっかり落ち着いて、みんないい顔をしておったわ」
「……へっ。当たり前だろ」
フェリクスは、口の端を上げてにやっと笑った。
「フェリクス、ちょっと手を貸してくれ」
「あん? なんだよ」
言いながら妾が手を伸ばすと、フェリクスは目線が合う位置まで抱き上げてくれた。
「よしよし。フェリクス、がんばったな」
「ぶっ。なんだ、それは。頭撫でるなって、こら」
リーンハルトは良い国じゃ。
妾も何か、フェリクスの助けになることはないのかのぅ。
そう思いながら、妾はフェリクスの頭を撫で続けた。