マリーと少年<前編>
※「「 」」←重なったカッコは、複数で話しているときに用いています。
目の前に、カーラお手製の大きなケーキが置かれた。
真っ赤な苺の間には、火のついた蝋燭が八本立っておる。
「マリー、誕生日おめでとう」
「姫様、おめでとうございます!」
ふぅっと火を吹き消すと、フェリクスや周りの侍女たちが一斉に拍手をした。
「これ、今年の分な」
フェリクスが指を鳴らすと、侍女が布の包みを運んできた。
中身は、もうわかっておる。手の平に乗せて慎重に開けると、真円の最高級の照りを持つ真珠が三つ入っていた。大きさは、妾の親指の爪くらいある。
「これでようやく半分か」
妾は、膝の上に置いておいた革張りの箱を取り出し、蓋を開ける。中には今もらったのと同じ真珠が、環状になって入っていた。
三つの真珠を、箱の中に作られた溝に加える。毎年誕生日に三粒ずつ贈られてきた真珠は、今日で輪の半分ほどになった。十六歳の誕生日に真珠が全部そろったら、フェリクスがネックレスに仕立ててくれるそうじゃ。
六歳のときに出会い、今でも文通を続けているエウスタキオの王子・ヨナからは、紫水晶のブローチと総レースの手袋が届いた。カーラは、ケーキの他に髪につけるリボンをくれた。
夕食を終え、部屋に戻る。妾はヨナにお礼の手紙を書こうとして、手が止まった。
「お返しは刺繍の珍しい図案が手に入ったからそれでいいとして、問題は手紙じゃ!
カーラ、ここのところ勉強ばかりしていたせいで、書くことがない。どうしよう」
「まぁ、すばらしいことではありませんか。
お礼の言葉と、今、姫様ががんばっていることをお書きになればいいのです」
「そんなの、数行で終わってしまうではないか。ヨナの手紙を見ろっ」
妾は、誕生祝いに添えてあった手紙の束をばさっと机の上に置く。いつもヨナの手紙は量が多いが、今回は特に気合が入っておった。数十枚あろうかという手紙には、質のよい紫水晶を手に入れるために四方手をつくした話や、レースの手袋をどれほど苦労し且つ楽しく編んでくれたかが綴ってあった。
「重いですね……」
「重いじゃろう」
妾は、持ってみろとカーラに手紙を渡そうとする。しかし、カーラは首を横に振った。
「その重さではなく、王子のお気持ちがですね……。いえ、いいのですけど。
確かにそのお手紙に匹敵するほどの量を書こうとしたら、日々のことだけでは足りませんね」
「そうなのじゃ。だからカーラ、明日、街へ行こう!」
「……は?
くすくす、そういうことですか。王がいいとおっしゃれば、いいですよ。
あ、でも明日は私は別の用件が入っているので、ご一緒できません。他の侍女になりますがよろしいですか?」
「かまわん。
フェリクスがいいと言えばいいのじゃな! よし、今から聞きに行こう!」
妾はもう寝る時間じゃが、フェリクスはまだまだ起きているはずじゃ。そう思って部屋を飛び出そうとしたら、カーラに止められた。
「今は会議をなさっています。明日の朝になさいませ」
「こんな時間に?」
「午後の会議が終わらなかったそうですよ。お夕食の間だけ抜けてらして、今続きをしているそうです」
「そうだったのか。悪いことをしてしまったの」
「王や大臣たちにも休憩は必要ですわ。それに姫様のお誕生日ですもの。それくらいしたって罰はあたりません。
ただ、王に会いに行くのは明日になさいませ」
「ん、わかった」
仕事では仕方ない。明日の朝一番で聞きに行こう。街にはきっと楽しいことがたくさんある。ヨナがいたころとは変わった場所もあるじゃろう。
妾は、城下町の露店の数々を思い浮かべて、わくわくしながら床についた。
翌朝、日の出と共に目が覚めた。しばらく寝台の上でもぞもぞしていたが、どうにも我慢ができなくなって、飛び起きた。
「フェリクス! 起きておるか?」
朝の澄んだ空気の中をフェリクスの部屋まで駆け、ばんっと扉を開ける。それなりに大きな音がしたはずじゃが、フェリクスは奥の寝台でぐぅぐぅ寝ておった。
「フェリクス、フェリクス、起きてくれ。なぁ、今日、城下町に買い物に行ってもいいか?」
寝台の横に取りつき、フェリクスの体を揺さぶる。フェリクスは一度は「んん」とうなって起きそうになったが、寝返りを打っただけでまた眠ってしまった。
「フェーリクス! 起きてくれ! 朝一番で出かけたいのじゃっ」
向こう側を向いてしまったフェリクスによじのぼり、耳元で呼びかける。それでも起きないのでほっぺたをうにっと引っ張ったら、突然伸びてきた腕に、寝具の中に引きこまれた。
「ぶっ、なんじゃ、フェリクス……んむっ」
フェリクスの体温に包まれて、唇を塞がれる。ぬるりと入ってきた舌に息ができなくてもがいているうちに、背中のボタンをはずされた。
「おまっ、なんじゃ、こら!」
やけに器用に動く指が、どんどんドレスを脱がせていく。上半身が脱げたところで、フェリクスが首だの胸だのを舐めだした。
「うわっ、やっ、やめろっ
くすぐったいぞ! あはははは!」
これは新手の遊びか!?
けれど、今の妾はフェリクスと遊んでやる暇はないのじゃ!
「フェリクス! あはは、やめてくれ!」
フェリクスの下敷きになっているため、容易には逃げ出せない。妾はかろうじて自由になる手で、フェリクスの頭をばしばしと叩いた。
「……う、ん?
うわっ、なんだ、マリー、何してる」
「何してるはこっちの台詞じゃ! くすぐったいではないか」
「あー……。
悪ぃ。寝ぼけた」
「寝ぼけたぁ? なんて迷惑な寝ぼけ方じゃ!」
フェリクスは、肩肘をついて起き上がり、頭をがりがりと掻いている。妾は服を着直すと、フェリクスに背中を向けた。
「なんだ」
「ボタン留めてくれ。自分では届かないのじゃ」
「あぁ、はいはい。ふわぁ……」
フェリクスはあくびを一つすると、渋々といった体で、妾のボタンに手をかけた。
「なんで嫌そうなのじゃ。自分ではずしたのじゃから、責任はとれ」
「責任って、あのな。
ったくおまえ、こんな朝早くに何の用だよ」
「おお、そうじゃ」
フェリクスにボタンを留めてもらい、城下町に行きたい旨を話す。フェリクスは例の如くあっさりとうなずいたので、妾は礼として首に飛びついて頬にキスをし、寝台を下りて駆けだした。
「ありがとう、フェリクス! 行ってくる!」
「あぁ、気を付けてな」
扉を閉める寸前、振り返って手を振る。すると、フェリクスは再び寝台にもぐっていくところだった。
「くっそ、なんで俺マリーなんかに……。疲れてんだな。うん、きっとそうだ。もう少し寝よう……」
頭から寝具をかぶったフェリクスは、ぶつぶつと何か言っている。遅くまで会議をしていたのに起こしてしまって悪かったかなと思いながら、妾はそっと扉を閉めた。
リーンハルトの城下町は、今日も多くの人々でごったがえしていた。
「「姫様、もう少しゆっくり歩いてくださいませ」」
妾の後ろをついてくるのは、カーラの代わりについてきた、ベッテとビッテという双子の侍女じゃ。ベッテとビッテはくるくるの赤毛にそばかすの浮いた丸っこい顔をしていて、十八という歳より幼く見える。
この双子は、同じ言葉を同時にしゃべる。もしくは交互にしゃべって一つの話をするから、慣れないと変な感じがするのじゃ。
「何か、話のネタになるような面白いものはないかのう。
あ、ビッテ! あれ、美味そうじゃ! 買うてくれ」
露店でバナナの蒸し焼きを見つけた妾は、財布を持つビッテの袖をひっぱってねだる。
「熱いですから」「気を付けてくださいませ」
「わかっておる」
青いバナナを大きな葉で包んで窯に入れ、焼いた石で蒸し焼きにしたおやつは、熱いがとろけるように甘くて美味かった。
「次はあっちじゃ!」
別の方角からは、香辛料の刺激的な香りが漂ってきていた。妾は人ごみをかきわけて、匂いのする方を目指して歩き出した。
「あぁん、姫様、待ってくださいってばぁ」
「あまり食べ過ぎないでくださいませ。お弁当もあるんですよ」
「「姫様ぁ」」
ベッテとビッテは、人にぶつかりながらなんとか妾についてくる。二人横並びになっているから遅いのじゃが、その歩き方を変える気はないらしい。
魚を素揚げにして真っ赤になるほど香辛料を振ったものや、果物を切って棒に刺し食べやすくしたもの、以前も食べた焼串や綿あめの露店を眺めながら歩いているうちに、川に行き当たった。
流れの緩やかな大きな川には橋がかかっており、その橋のすぐ横から、川べりに降りられるようになっていた。
「おぬし、何をしておるのじゃ?」
橋の下に降りて行くと、妾と同じくらいの子どもが、川に向かって糸を垂れていた。
「何って、釣りだよ。おまえ、釣りも知らねぇの? ……って、王女様?」
大きな石に腰かけていた少年は、妾の方を振り向くと、驚いたように目を見開いた。ちょっとつり目ぎみの瞳は濃褐色で、髪も瞳と同じ濃い茶色をしている。身なりには無頓着なようで、顔も服も全体的に薄汚れて汚かった。
「王女様がこんなところに何の用だ」
「おぬしがおもしろそうなことをしているので、見に来たのじゃ。
“釣り”とは何をするのじゃ? 教えてくれ」
妾が少年の隣の草むらに腰を下ろそうとすると、ベッテとビッテが素早く敷物を用意した。さらに日傘を差しかけ、お茶の準備を整える。
「俺は遊びでやってるんじゃない。王女様の道楽に付き合う暇はないんだ。他所へ行ってくれ」
「遊びじゃないということは、仕事なのか? そなた、名前は?」
「俺の話、聞いてる? あっちへ行け」
少年は、これ以上話すことはないと言わんばかりに、川の方を向いてしまった。
「ちょっと、子ども。それは姫様に対して失礼だわ」
「そうよ、失礼だわ」
「名前くらい」「名乗りなさい」
ベッテとビッテがずいっと前に出て、少年に凄む。
「な、なんだよ、こいつら。おんなじ顔して気持ち悪ぃ」
「「なんですってぇ!?」」
「二人とも、いいのじゃ。邪魔した妾が悪かったのじゃから。
ただ、よかったら名前くらい教えてくれぬかのう。
そなたは妾を知っておるのじゃろう? それなのに妾はそなたの名前も知らぬのは、ずるいじゃないか」
ベッテとビッテを下がらせて、少年に頼む。少年は嫌そうに口をとがらせて、前を向いたままぼそっと言った。
「ウォレヴィだよ。呼びにくかったらウォルでいい」
「ウォルか。いい名じゃの。“釣り”を教えてくれとは言わんから、隣で見ていてもいいか?」
「……まぁ、見るくらいなら……」
ウォルの許可を得たので、妾は“釣り”をじっと観察することにした。
そよそよと風が吹き、川面がさらさらと揺れる。
ウォルが手に持った棒の先には糸がついており、糸の先には木の切れ端がついていて、水にぷかぷかと浮いていた。
妾は、ベッテが淹れてくれたお茶を飲む。
ウォルは、棒を握ったまま微動だにしない。
ビッテが果物の砂糖漬けを出してくれて、ベッテが日の向きに合せて日傘を動かした。
ぴくん!
突然、糸の先の木の切れ端が動いた。
切れ端は、ぶるぶるっと震えたかと思うと縦になって、ぐんっと水の中に引き込まれた。
「!」
ウォルが立ち上がって、棒の先を高く上げる。
糸がぴんと張って、棒の先がしなった。
「な、なんじゃ!?」
びっくりした妾は、茶器をベッテに渡して川面をのぞきこんだ。糸はぐるぐると動き、ウォルは棒を上げたり下げたりしている。
「こいつは大物だ!」
ウォルがにやっと笑って、棒をひっぱった。手の届くところまで来た糸をつかんで、引き寄せる。
「よし、きた」
「わぁっ」
ウォルが糸を持ち上げて、驚いた。
糸の先には、手の平三つ分ほどはあろうかという、大きな魚がかかっていた。
「すごい! すごいのぅ、ウォル! これが“釣り”か!」
思わず拍手をすると、ウォルは恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。
「王女様だもんな。釣りなんて見たことないよな」
「おぅ、初めて見た! 魚というのは、こうして捕まえるんじゃな。この魚はどうするんじゃ?」
ウォルは、魚の口にひっかかっていた針をはずすと、水の中に入れてあった網に放り込んだ。
「夕飯のおかずにするんだ。たくさん釣れたときは市場で売る。こづかいくらいにはなるんだぜ?
もう少し大きくなったら、船に乗って投網でたくさんとるんだ」
言いながら、ウォルは針にミミズをつけて、また川の中に糸を垂れた。
「なるほど、たいしたものじゃのう。あ、ほれ、またかかったぞ」
木の切れ端が揺れる。ウォルが棒を上げたけれど、今度はミミズだけなくなって、魚はかかっていなかった。
魚が釣れるのは三回に一回くらいで、大きいのもおれば、小さいのもおった。ウォルが釣り上げた魚で網がいっぱいになるころ、陽は高く昇り、正午となった。
「「姫様、お昼ごはんにしましょう」」
ベッテが、城の料理人が作ってくれたサンドイッチを取り出す。パンの間にチーズとハムと野菜をはさんだサンドイッチは、見るからに美味しそうじゃった。
「ウォルも一緒に食べよう」
「俺はいい」
「いっぱいあるのじゃ。ほれ」
背中を向けているウォルに、声をかける。ウォルはかたくなに首を振って断ったが、鼻先にサンドイッチを近づけてやると、腹がくぅと鳴った。
「意地を張るな。食事は大人数で食べたほうが美味いのじゃ」
「……わかった」
ウォルは棒を置き、サンドイッチを手にする。
「白い」
「ん?」
「それに、ふわふわだ」
「うむ、うあいぞ。ああううえ」
先にサンドイッチを頬張った妾は、もぐもぐと咀嚼しながら、ウォルに食べるよう促す。
ウォルはしばらくサンドイッチを見つめていたが、思い切ったようにばくっと食いついた。
「う、美味い」
「そうじゃろう。もう一つ食べるか?」
あっという間に食べ終えてしまったウォルに、妾はもう一つサンドイッチを差し出す。ウォルはそのサンドイッチと妾を交互に見て、おずおずと手を出してきた。
「これ、今食わなくてもいいか」
「腹がいっぱいなのか?」
「そうじゃなくて、俺、妹がいるんだ。こんな美味いサンドイッチ食ったことないから、妹にも食べさせてやりたい」
「そうか。
ベッテとビッテはあといくつ食べるかの。そうか。ではこれだけあれば足りるから、残りは全部持っていけ」
「「姫様、それは……」」
「いいではないか。余らせてはもったいないからの。ウォル、妹御にもよろしくな」
料理長が多めに持たせてくれていたサンドイッチを、ウォルに渡す。ウォルは両手を服の裾で拭いた後、大事そうにサンドイッチの袋を抱え持った。
「王女様、ありがとう! あいつ、喜ぶよ」
サンドイッチを抱えたウォルは、そそくさと片づけをして帰って行く。
ウォルは本当に嬉しそうな顔をしていたので、妾はいいことをしたと思って気分がよかった。
「いやぁ、おもしろかったのう」
「「……姫様」」
「こういうことは」「あまりなさらないほうがいいと思います」
「ん? どういう意味じゃ?」
食後の茶を飲み干してベッテとビッテを見ると、二人はいつになく厳しい顔をしておった。
「あの少年は、たぶんかなり貧しい家庭の子です」
「そのような者に気まぐれに施しをなさるのは、よくありません」
「また今度もと期待されたら」「応えきれません」
「別に気まぐれというわけでは……。せっかく出会ったのじゃから、昼食を一緒にとるくらいよかろう」
「「では、出会った者すべてとお昼ご飯を食べられますか?」」
二人の声が重なる。同じ顔、同じ声で迫られて、妾は「うっ」とたじろいだ。
「……そんなのは無理じゃ」
「「そうですよね」」
「姫様は王女様なのですから」「どの民にも平等に」
「一人に何かするなら」「国民すべてにしてさしあげなければ、不満が出ます」
ベッテとビッテの言うことはもっともじゃ。じゃが、妾はなんだかそれはおかしいと思う。
サンドイッチは美味しかったが、妾とベッテとビッテの三人では食べきれなかった。残したらもったいないし、料理長に悪い。目の前には腹をすかせたウォルがいて、サンドイッチを美味いと言って食べて、妹にも食べさせてやりたいと言った。妾がウォルにサンドイッチをやることで、料理人は籠が空っぽになって嬉しいし、ウォルは腹いっぱいになって妹も喜ばせることができる。
それの何が悪いのじゃ。
けれど、不平等だと言われればそれまでなのじゃ。妾は納得できないまま、城に帰った。
城についた妾は、カーラを探したが見つからなかったので、大老たちの部屋へ向かった。
「というわけでな、ベッテとビッテの言うことももっともじゃと思うが、妾はどうにも釈然とせん」
妾はガルリの向かい側に座り、足をぶらぶらさせて今日のことを話す。
「ふぉっ、ふぉっ、そうじゃのう」
ガルリは、顎にまだらに生えた髭を撫でながら笑う。今日は、大老部屋にはガルリしかいなかった。モーフィーとアナンドはどこかにでかけたのか。いつも三人一緒だと思っていたので、意外だった。
「姫様はの、生まれたての子猫が捨てられておるのを見つけたら、どうする?」
「子猫? もちろん、拾って育てる」
「一匹や二匹なら育てられるの。じゃが、もしも百匹くらい箱に入っていたらどうする?」
「百匹は無理じゃの。城の中が猫だらけになってしまう」
「うむ。では、姫様は一匹だけ連れ帰り、他の子猫には餌をやった。
そこで通りがかりの人が言ったんじゃ。“どうせ残りの猫は死ぬんだ。下手な情けはかけずに、そのまま死なせてやれ”」
「なっ、酷いではないか!」
「そうかの? 確かに、餌をやることによって、子猫は数日生き延びることになる。でもそれだけじゃ。飼い主も親もおらんということは、飢えと渇きと、鳥や獣に襲われる恐怖にさらされる日々が長引くだけなんじゃぞ? その方がよっぽど可哀想ではないか?」
「え……」
「姫様は一匹しか面倒を見きれんのじゃろ? 他の猫には下手に餌なんぞやらずに、早く死なせてやるほうが温情というものではないかの」
「それは……、で、でも」
「餌を毎日やりに行けるのかの? 餌代はどこから出す気かの」
「毎日は、行けぬ。餌代は……フェリクスにもらう……」
「王にもらうのか。ならば、王に猫を百匹飼える場所を作ってもらったらどうじゃ?
そしてまた捨て猫を見つけたら、場所を広くしてもらうんじゃ」
「そんな我が儘は言えぬ」
「では、餌などやらずに死なせてやるのがよかろう」
「だめじゃ! 餌をやって一日でも長く生きれば、他の飼い主があらわれるかもしれないじゃろう!
そ、それに子猫が大きくなって、自力で餌をとれるようになるかもしれぬ!」
妾は、ばんっと机に両手をついて立ち上がった。
猫だって、生きておるのじゃ。そんな、勝手に『死んだほうが楽』だなんて、決めていいわけがない。
「うむ、そうじゃな。わしもそう思う」
「なに?」
「これは“希望”の話じゃよ。今どんなに辛くとも、明日はいいことがあるかもしれん。
姫様が今日会った少年は、姫様にもらったサンドイッチが、神様からの贈り物のように感じられたことじゃろうて。リーンハルトは豊かな国じゃが、貧富の差が全くないわけではない。王は皆が豊かに暮らせるように努力しておるが、すぐに結果が出るものばかりではないからの。
その子は何かしら故あって、貧しい生活を強いられておる。が、姫様の話からすると、己の置かれた状況に卑屈になることなく、できることをがんばっている子のようじゃの。
少年が一生に一度食べられるかどうかという白いパンのサンドイッチは、その子が日々頑張っておるごほうびじゃ。あげてよかったんじゃよ」
「ごほうび……。妾がいつも食べているサンドイッチが、ごほうびか?」
「姫様が知っているパンは白いじゃろ?
サンドイッチだけでなく、姫様の口に入るパンは、全部小麦でできておる。じゃが、一般市民が食べておるのは、小麦とライ麦を混ぜた茶色いものじゃ。もっと下層のものになると、豆も混ぜて重くて固いものになる。彼らにとって、姫様のパンは雲を食べているかのような、夢のような物じゃ。その子の家族は、きっとこれからも姫様にもらったパンを思い出しては、あれは美味しかったと幸せな気分になるじゃろう」
ガルリによれば、妾が露店で好き放題買っていた食べ物も、ウォルのような者にとっては指をくわえて見ているだけの物らしい。
「まぁ、しかし、侍女たちが言ったこともわかってやったほうがいいの。
相手によっては、ひがんだり嫉んだりするものもおる。もっともっとと強欲になるものもな。為政者というものは孤独なものじゃて。ときに多くを守るために、大事なものをあきらめなければならないこともある」
それは、物とは限らない。大事な人だったり、大事な気持ちだったりする。
「フェリクスも、か?」
「ふぉっ、ふぉっ。どうかの。
王のことを想うなら、姫様。ひとまず朝は優しく起こしてやるがよい。いきなり飛び込むのはよくないぞ」
「今朝のことか? 飛び込んだのは飛び込んだが、フェリクスは起きなかったぞ。
揺すっても呼んでも起きないからどうしようかと思っていたら、寝ぼけたフェリクスに抱きつかれて服を脱がされて舐めまわされたのじゃ。くすぐったくて、えらい迷惑じゃった」
「おほっ
そうか、そうか。
昼間あくびばかりしておるのを姫様に叩き起こされたせいにしておったが、寝覚めが悪かったのはご自分のせいか。王もお若いのぅ。
のぅ、姫様。今度起こすときは、こうしてやりなされ」
「む?」
ガルリがちょいちょいと手招きをする。妾は机をぐるっと回ってガルリの横に立つと、耳を寄せた。
「……てな、……して、……するじゃ」
「……て、……して、……するのか? それでフェリクスは気持ちよく起きられるのか?」
「おぉ、もちろんじゃ。男にとってこれ以上ない寝起きじゃて」
「うむ、わかった。やってみる」
「ふぉっ、ふぉっ。がんばりなされ」
ガルリと話をして気が済んだ妾は、フェリクスにまだ「ただいま」を言っていなかったことを思い出した。
「フェリクスはまた会議か?」
「そうじゃが、そろそろ終わるじゃろ。あ、ほれ、あそこを歩いておる」
ガルリに言われて窓の外を見ると、渡り廊下を歩くフェリクスが見えた。
「あいさつをしてくる。ガルリ、ありがとな!」
「うむ。またいつでも来なされ」
ガルリに見送られ部屋を出ようとしたところで、妾はふと思いついた。
「あのな、ガルリ。猫を一人で世話しようと思うから悪いんじゃないかの。
誰かが面倒を見るのではなく、みんなで代わりばんこに餌をやればいいのじゃ。
飢えたり乾いたり怖い思いをしたりしないように、猫が独り立ちするまでみんなで守ってやるのじゃ。あと、そもそも猫を捨てるというのがいかん。猫が捨てられずにすむ仕組みを考えねばな」
ガルリの顔が、くしゃっとゆがむ。嬉しそうに笑った大老は、妾の頭を撫でるとうんうんとうなずいた。
翌朝、フェリクスを起こしに行った妾は、ガルリに教わった方法を試してみた。
「……ん? なんだ、マリー。なんで俺の服脱がして……。
うわっ、どこ触って……! やめろ! やめろって!!」
フェリクスは跳ね起きたが、ちっとも嬉しそうではなかった。
「いいか、マリー。これはおまえのおもちゃじゃない。
大事なものなんだから、つかむな。しごくな。こんなことをするのは十年早い。用事はなんだ。街でもなんでも行って来い。俺はもう少し寝る!」
喜ぶどころか怒ったフェリクスに首根っこをつかまれて、部屋から叩き出されてしまった。
なんじゃ、ガルリの言うことはアテにならんの。
妾はぷぅと頬をふくらませて、閉まった扉に舌を出した。