マリーと後宮<後編>
夜中、尻の痛みで目が覚めた。
フェリクスめ。どれほどの力で叩いたのか。
仰向けになると痛いので、右を向いたり左を向いたり下を向いたりしてしばらくごろごろとしていた。じゃが、一度目が覚めてしまうとそう簡単には寝付けなかった。
妾は、尻がつかないように、腹を寝台につけてずるずると後ろ向きに床に降りる。
隣室で眠る侍女たちを起こさないようにそぉっと廊下に出ると、窓から差し込む月明かりで、部屋の外は結構明るかった。
ちょっと散歩をしよう。
廊下に出たのは、そんな軽い気持ちだったのじゃ。
……ン、ポロ……ン。
月明かりの中歩いていると、風に乗ってシタールの音色が聴こえてきた。
ソナリも眠れないのじゃろうか。
そう思って、妾は音のするほうに歩いていった。
ポロロン、ポロロン。
細切れに聴こえていた音が、次第にはっきりしてくる。
渡り廊下を歩いていると、北の塔の窓辺に腰掛け、ソナリがシタールを奏でているのが見えた。
ソナリ、と妾は手を振ろうとした。
けれど、そのときソナリの細い腰に、後ろから巻き付いた腕があった。
「フェリクス……?」
ソナリのわき腹を、フェリクスの手が撫でる。フェリクスはソナリを後ろから抱きしめながら、黒髪をかきわけて耳をついばみ、首筋をたどって肩に口づけた。
ソナリはシタールを弾くのをやめ、フェリクスのほうを向く。二人の影が重なり、フェリクスとソナリは薄布の向こうに消えた。
「なんじゃ、あれは……。妾はあんな風にしてもらったことはないぞ。
あんな……あんな風に……」
あんな風に、優しく触れるフェリクスを、妾は知らない。
フェリクスは、いつも乱暴で大ざっぱで飾り気がなくて、そりゃときどき頭を撫でてくれることはあるけれど、がさつでぶきっちょな男のはずじゃった。
ところが、今見たフェリクスは、ソナリを壊れ物のように扱い、腕の中に大事に閉じこめていた。昼間、妾なぞ尻を叩かれたというのに、ソナリには羽根で触れるかのごとく、そっと口づけていた。
「……」
腹が、むかむかする。
胸はじりじりして、尻はひりひりと痛い。
なんだか無性に情けなくなった妾は、身を翻すと足早に部屋に戻り、寝具を頭からかぶってきつく目を閉じた。
体が熱い。頭ががんがんする。
「王があんなに力いっぱいお叩きになるから、姫様が熱を出してしまったのですわ」
「俺のせいかよ! カーラだって、相当怒ってたじゃねぇか」
朦朧とする意識の中で、フェリクスとカーラが言い合う声が聞こえる。
「あぁ、姫様、お可哀想に。代われるものなら代わってさしあげたい」
「医者は風邪って言ったんだろう? 一晩寝れば治るさ」
「そんな薄情な! 姫様がこんなに苦しんでらっしゃるのに、心配ではないのですか?」
「そりゃ心配だけどよ、見てたって治るもんじゃねぇだろ。
仕事に戻るから、何かあったら呼んでくれ」
寝台横の椅子に座っていたフェリクスが立ち上がる気配がする。妾は熱に浮かされながらも、そばにいてほしくてフェリクスの裾をつかんだ。
「マリー?」
「まぁ、姫様。気がつかれましたか?」
「フェ……リクス」
「あぁ。風邪だってよ。薬飲んでたくさん寝ろ」
「ん……。フェリクス……。行っては……嫌じゃ……」
「わかった。そばにいる。ほら、飲め」
フェリクスは妾を起こし、カーラが差し出してきた薬を手にする。緑色をした液体は、苦みを消すために無理に甘くしてあって、かえってそれが粘ついたのどにひっかかった。
「……ごほっ、ごほごほっ」
「大丈夫か?」
フェリクスが妾の背中をさすってくれる。
寝台の上に起きあがっても尻は痛くなかったから、きっとこの熱はフェリクスのせいではのうて、夜中に出歩いたために風邪を引き込んだのだと思った。
「全部飲めたか? じゃ、横になって。ここにいるから、とにかく寝ろ」
ぎゅうっと裾をつかんだままの妾の手を、フェリクスがほどく。そして大きな手の平で妾の手を包み、頭を優しく撫でてくれた。
頭を撫でられるのはうれしい。手をつなぐのもうれしい。けれど、昨夜見たフェリクスと、今のフェリクスは何かが違う気がするのじゃ。
妾は、熱に潤んだ目でフェリクスをじっと見つめる。フェリクスは妾を安心させるように微笑むと、ぽん、ぽん、ぽん、ぽんと妾の腹の上に置いた手でリズムをとった。
「赤子じゃ……ないのじゃから……」
「んん? でもこうしてると眠れるだろ? おまえが寝るまでいてやるからな。ゆっくり休め」
寝るまでということは、寝たらどこかに行ってしまうのじゃろうか。
……仕事か。それともソナリのところか。
仕事はともかく後宮に行かれるのは嫌じゃ。そう思って眠らないようにしたが、薬のせいか、フェリクスが規則正しく腹を叩くせいか、妾はあっという間に眠りに落ちてしもうた。
朝が来て、また夜が来て、フェリクスはその間ずっと妾のそばにいてくれた。
食事をとるのも仕事をするのも妾の部屋でしていたから、とてもうれしかった。
「フェリクスが座ると、妾の椅子は小人の椅子のようじゃ」
「何ぃ? おまえがここにいろって言うから、無理して座ってんのに、その言いぐさはなんだ」
「ははっ」
妾の部屋の家具はすべて妾に合わせて作られていたから、椅子も机もフェリクスにはどれも小さかった。
「それだけ言えるようになれば、もう大丈夫だな。
カーラに怒られちまったよ。マリーは女なんだから、尻を叩くのもほどほどにしろってな。
十分手加減はしたつもりだったんだが、悪かったな」
フェリクスが、妾の頭をぐしゃぐしゃとかき回しながら言う。
「ちっと風邪を引いてしまっただけじゃ。フェリクスが悪いのではない」
「そうか? うん、いつも元気なおまえが寝込んでると、俺も調子が出ねぇよ。もう一晩ゆっくり休んで、早く元気になれよ」
とんとんと、フェリクスが手元の書類を机の上でそろえる。
「もう行くのか」
「また来る。おとなしく寝てるんだぞ」
「……わかった」
妾の部屋でできる仕事には限界がある。
王としてこの国を切り盛りしているフェリクスを、これ以上独占することはできない。
「おやすみ」
フェリクスが妾の頬にキスをする。
本当は口にしてほしかったけれど、フェリクスのすぐ後ろに侍女がいたので、ねだれなかった。
妾は、走っていた。
『フェリクス! フェーリクス!』
フェリクスを探して、走っていた。
『フェリクス、そこにいたのか!』
見慣れた背中を見つけて、声をかける。
『フェリクス、遊ぼう。本を読んでくれ』
フェリクスのマントを引っ張る。じゃが、フェリクスは一向に振り向いてくれなくて、仕方なく妾はフェリクスの前に回った。
『フェリクス、なぁ、遊……ソナリ?』
フェリクスの正面に回り込むと、フェリクスの腕の中に褐色の肌の女性がいた。
『マリー、悪いな。子どもはよそで遊んでてくれ』
『うふふ、マリー。チャトランガの盤を貸してあげるわ。おじいちゃんたちと遊んでらっしゃい』
フェリクスはソナリの腰に手をまわし、ソナリはフェリクスの首に手をまわした。二人は今にも唇が触れ合いそうな距離で微笑みをかわし――
「!」
がばっと、跳ね起きた。
気づけば夜で、部屋の中には誰もいなかった。
フェリクスは、どこへ行ったのじゃろう。
また来ると言っていたのに、なぜそばにいないんじゃ。
寝台から降りてみると、少し足元がふらついたが、熱は下がっているようじゃった。
「妾が具合が悪いというのに、また後宮か?」
仕事とは思えなかった。夢に見たフェリクスとソナリの姿が、頭から離れなかった。
このままではフェリクスをとられてしまう。
フェリクスが、どこかへ行ってしまう。
妾は、矢も盾もたまらず、深夜の廊下に飛び出した。
金縁の赤い扉の前には、侍女が二人いた。
しかし、二人とも正体なく眠りこけていて、見張りの役目を果たしていなかった。
二人を起こさないように、そぉっと中に忍び込む。
幾重にも重ねられた布の先には、二つの影が見えた。
「遅いじゃねぇか」
フェリクスに呼びかけられ、どきっとした。
「な、なんじゃ、フェリクス。どういう意味……」
「ようやく迎えにきたか。月光の騎士さんとやら」
「あんた……!」
慌てて薄布の間から顔を出したものの、フェリクスは妾に話しかけたのではなかった。
妾の前、妾よりもよりフェリクスに近い位置に、筋骨隆々の褐色の肌の若者がいた。
「ほら、さっさと連れていきな」
フェリクスが寝台に手を伸ばし、ソナリを立たせると男の方に押しやった。以前会ったときと同じような服を着たソナリは、まろぶように男に歩み寄り、泣きそうな顔をして男の胸に飛び込んだ。
「誓って手は出してねぇぜ? 王女の体に聞けばわかる。
あぁ、すでに開通済みだったらわからねぇかもしれねぇけど」
「王女には、これまで何人たりとも触れてはおらぬ!
無礼なことを申すな!」
「あぁ、はいはい。んじゃやることやりゃわかるだろ。あとこれ餞別な」
フェリクスが大きな袋をなげる。男がそれを受け取ると、ジャラっと重そうな音がした。
「リーンハルト金貨百枚と、銀貨百枚が入ってる。
大陸硬貨のほうがかさばらないが、高額すぎて使い勝手が悪いからな。当座の旅費には十分だろ」
「王……なぜここまで……」
それまで黙っていたソナリの声が聞こえる。
「なぁに、おまえの国の金山は俺がもらったし、港の権利ももらった。それに比べれば、この程度はした金だ。それに流行り病と戦禍で天涯孤独となった王女ってのが、どっかの誰かさんと重なってな」
フェリクスの話に、ん? となる。
流行り病と戦禍で天涯孤独? それは誰のことじゃろう。
「王女じゃなくなるが、好いた男といるのが一番の幸せだろ?
元気でやれよ」
フェリクスがそういうと、男とソナリはうなずいて、手をとりあって駆けだした。途中、妾の前を通り、ソナリと目が合うと幸せそうに微笑まれた。
赤い扉が開き、音もなく閉まる。どこからか進入した男は、ソナリを連れて夜の闇に紛れた。
「扉の前の侍女は俺が眠らせたから仕方ないとして……。
城内の警備は見直しの必要があるな。それと、マリーの部屋に外鍵が必要だ」
「!」
びくっと肩を震わせた瞬間、首根っこをつかまれて持ち上げられた。
「こら!
さっきまで熱だしてうんうん言ってたやつが、なんでこんなところにいるんだ!」
「う、あ、あああ、あのだな、もう熱は下がったんじゃ。でもフェリクスがいないものじゃから、心細くなって……」
「うまいこと言うもんだなぁ。その知恵を、自分の体調管理に向けられないもんか? こんな薄着で出歩きやがって! また熱が出ても知らねぇぞ!!」
耳をつんざくほどの怒鳴り声は後宮中に響き渡る。とたんに明かりが方々《ほうぼう》でついて、侍女やら派手な化粧をした女やらが駆けつけてきた。
「あ、あれ? ここはこんなに人がおったのか?」
「そうだ。ソナリのためにこの部屋だけ人払いしてあったけどな。
ったく、おまえのせいで危うく計画がパァになるところだった。かくなる上は、それなりのおしおきを覚悟しろよ」
「おしおきって……尻叩きは嫌じゃ。あれは本当に痛いのじゃ」
「それはしねぇよ。カーラに怒られるからな。
その代わり、一週間の外出禁止な。明日から一週間、部屋から一歩も出るな」
「何っ、そんなの横暴じゃ!」
「うるさい。病み上がりなんだ、おとなしくしてろ」
「一週間は長いぞ! せめて三日」
「何言ってんだ。本当に鍵つけてやろうか」
「くっ、それだけは……!」
じたばたと暴れてフェリクスの腕から逃れようとする。が、逆にしっかりと抱き上げられてしまった。
「とにかく、部屋まで連れて行くから寝ろ。またぶり返しても知らねぇぞ」
フェリクスの言うことはもっともなので、妾はしぶしぶと従う。
夜中に大音量で起こされて人々は、やれやれと顔を見合わせて、あくびをしながら自分の部屋へと戻っていった。
後日カーラに聞いた話によると、今、後宮にいるのは嫁ぎ先の決まった女ばかりで、ずいぶんと落ち着いているとのことだった。
ソナリは、ひと月ほど前に連れてこられた南の国の王女だった。。
最近ソナリの国で戦争があり、ついでに疫病も流行って国がぼろぼろになったところで近隣諸国が乗り込んできて、あわや国家瓦解となるところをフェリクスが救ったらしい。
フェリクスは、国の建て直しに協力するかわりに、ソナリの国の金山の権利と港の使用権、そして美姫と名高いソナリを得た。
フェリクスは、いずれ己の腹心にソナリを娶らせて、南の国への影響力を維持し続けようとしたらしいが、ソナリに想い人がいるのに気づき、手を出さずに相手が攫いにくるのを待ってたんじゃと。
「じゃが、窓辺で抱き合っているのを見たぞ」
「お相手がなかなか来ないので、ちょっとあおってみたみたいですね。
まぁ、それくらいのつまみぐいは役得でもいいんじゃないでしょうか」
「何もそんな面倒なことをせんでも、相手を呼んで引き渡してやればよかったではないか」
「それだと、相手の男はそれなりの対価を払わねばならないでしょう。金山や港と同価値の王女ですよ? 一介の騎士ごときに払えますか?」
そこを攫われたとすることで、タダで引き渡してやることができたとのことじゃ。
「お相手は、月光の騎士と呼ばれる、戦場では有名な騎士だそうですよ。王女としての暮らしはできませんが、好きな人と一緒なのが一番ですよね。
あぁ、まるで吟遊詩人の歌う恋物語のようではありませんか」
話しながら、カーラはうっとりと目を瞑る。
若い身空で未亡人となり、亡き夫を今でも想い続けているカーラは、寄らば夫の愚痴ばかり言っておる同世代の女たちより、かなりロマンチストなのじゃった。
「妾も大きくなったら、フェリクスに有利な男の元へ嫁に出されるのか?」
「あら、姫様は王の正……、いえ、それはわかりませんわ。好きな人ができれば、きっと王は姫様のお気持ちを一番に考えて、協力してくださると思います」
「妾が好きなのはフェリクスじゃ。フェリクスと結婚できるかの」
「くすくす。そうですわね。そのためには、もっとお勉強してもっとおきれいにならないと」
「……そうくるか。
はぁ、でも確かにそうじゃ。フェリクスに釣り合う女子になるために、もうちょっとがんばってみる」
「その意気ですわ! ではまず手始めに爪を磨きましょう!」
「あれはくすぐったくて嫌じゃ。でも……ソナリの爪はきれいじゃったの」
妾が渋々手を出すと、カーラがうれしそうに爪磨き用の貝殻を手にした。
「あっ、やんっ、カーラ、だめじゃっ、そこはやめっ、あああっ」
「マリー、何をしている!」
ばん! と扉を開けて入ってきたフェリクスが目にしたのは、仕上げ用のなめし革で妾の爪を磨くカーラと、あまりのくすぐったさに身悶えしている妾の姿じゃった。
「ま、紛らわしい声出すんじゃねぇよ!」
ばん! と乱暴に扉を閉めて、フェリクスが出ていく。
「? 何をしにきたんじゃ?」
「くすくすくす。王はああ見えて姫様のことが心配で仕方ないのですわ。
ですから、今のところはたまに後宮にこもるくらい、許して差し上げてくださいね」
「ふうん?」
なんだかよくわからんが、カーラがそう言うなら、少し見逃してやることにしよう。
「できましたわ」
「おお、きれいじゃのう! フェリクスに見せに行ってもいいか?」
「姫様は外出禁止期間中です。また王がいらしてくださったときに見せましょうね」
「うぬぅ、そうじゃった。
また変な声を出せば来てくれるかの。
あぁん、フェリクスぅ」
「やめろ、心臓に悪い」
今度は、静かに扉が開いた。どうやら、フェリクスは立ち去ったのではなく、扉の向こうにいたようじゃった。
「王女が置いてった。おまえが使うのがいいだろう」
「シタール! もらってもいいのか?」
戸口に立つフェリクスの手には、ソナリが持っていた異国の楽器が握られていた。
「あぁ。俺はこういうのはからきしだからな。あとで教えられる奴見つけてやるよ」
「フェリクス、ありがとう! 感謝する!」
妾はシタールごとフェリクスに抱きつく。妾の身長ほどあろうかという、この楽器を弾きこなせるようになる頃には、フェリクスも妾を女性として見てくれるようになるじゃろうか。
「フェリクス、キスしてもいいか?」
「あぁ? わざわざ聞かなくても、いつも勝手にしてるじゃねぇか」
「いつものじゃない。大人のキスじゃ」
「馬っ、おまえ、何言って……」
フェリクスが慌てて、視線を泳がせる。妾の後ろには、カーラが控えていた。
「王、まさか姫様に変なことを教えてませんよね?
いくら王でも、まだ六歳の姫様に手を出したら犯罪……」
「おまっ、マリー、誰にも言うなって言っただろ。じゃない、違うんだカーラ、これは……!」
フェリクスは、頬にちゅっちゅと吸いつく妾を引きはがそうとし、カーラはそんなフェリクスをじとっと睨んだ。
「マリー、マリエッタ!
やめろっ、頼むから離れてくれ! マリイィィィィィィィィ!」
大きくなったらの、妾はフェリクスのお嫁さんになるのじゃ。
くふふと笑った妾の脳裏には、騎士の腕に抱かれ幸せそうに微笑んでいたソナリの顔が浮かんでいた。