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マリーと王子<下>

 リーンハルト城は、真ん中にフェリクスのいる大きな塔があって、それを囲むように四つの塔がある。さらに、四つの塔は長い建物でつながれていて、それぞれ騎士団や城仕えのものが生活している。

 城のすぐ外側は商店街で、何も見ずにただ歩くだけでも、一周するには半日はかかる広さじゃ。外側には住居が立ち並び、北側には寺院や墓地、東側には学校が多くある。一番外側には厚い城壁があって、有事の際には、城門を締めれば何人たりとも城下に侵入できないようになっているそうじゃ。


「姫様、こんにちは! 何をお探しで?」

「豚の焼串いかがですか? 甘辛で美味しいですよ!」

「このブローチ、昨日入ったばかりなんでさぁ! 姫様にお似合いだよ!」


 露店が立ち並ぶ通りを歩いて行くと、様々な店から声がかかる。


「ひ、姫。普通城下町散策というのは、お忍びでするものなのでは」


「なぜじゃ? フェリクスもいつもぶらりと買い物に来ておるぞ」


「おおお、王も?」


 ヨナの話によると、エウスタキオでは、何かの式典のときしか王族は民の前に姿を現さないのだという。それ以外は、こっそり街を歩くことはあっても、今日のように堂々と買い物をすることはないそうじゃ。


「では、ヨナは自国で買い物をしたことはないのか」


「あ、ありません。そんな危ないこと……」


「なぜ危ないのじゃ?」


「そ、それは、ですから、襲われたりさらわれたり……」


「自国の民に襲われたり攫われたりする心配が必要な国など、そのほうがおかしいじゃろう」


「え……、あ……。い、いわれてみれば」


 民が安心して暮らせる国。

 それがフェリクスが目指している国であり、その“民”には農民も商人も王族もすべてが含まれる。


「で、でも、もし外から来たものが姫に何かしようとしたら」


「こそこそ歩いていたら、何かされても誰にも気づいてもらえぬかもしれんな。

 だから、逆に堂々と顔を出して歩けばいいのじゃ。もし不埒な真似をしようとする者がいたら、周りのものが必ず助けてくれる」


 けれど、それが間に合わないこともある。なので、最初の襲撃を防ぐために、侍女カーラたちが付き添っているのじゃ。


「そうですか……。そうですね。勉強になります……」


 ヨナはなにやら肩を落としている。妾はそんなに変なことを言ったのじゃろうか。リーンハルト(わがくに)では当たり前と思っていたことが、エウスタキオでは違ったのじゃろうか。


「ヴァルト王子様、国によって事情は様々でございますから、全てが同じようにはいきません。

 正しいことが全てまかり通るわけではなく、悪いことだからといって全てを否定できるわけでもないのです。物事には何か理由わけがあって、どうしようもないこともありますからね。

 我が国の王と民の近さというのは、珍しいほうだと思います。エウスタキオのほうが一般的ですよ」


「そうなのか?」


「そうでございます、姫様」


 妾は、にっこりと微笑むカーラを見上げる。そういえば、カーラの死んだ夫は、他国の者じゃったか。妾の知らぬ話を、たくさん聞いておるのじゃろう。妾も、リーンハルトのことだけでなく、他国のことももっと学ばねばならぬ。


「ふふっ、ヴァルト王子様がいらしてくださったことは、姫様にもとてもよい刺激になっているようですね。

 自国を知るために他国を、他国を知るために自国のことを知ることはとても大切なことです。街を歩いていろいろ学ばれてください。

 ということで、これ、今日のおこづかいです」


 カーラが、妾とヨナの手の平に、銅貨を十枚ずつ乗せた。


「じ、じじじ、自分で買い物するんですか?」


「十枚? 少ないぞ! もうちょっとくれ!」


 さっき露店の店主がすすめてくれた、香ばしい匂いのする焼串は、銅貨三枚じゃった。他に飲み物を買って、甘いものを買ったら、すぐになくなってしまう。


「これではリボンが買えぬ!」


「ぷっ、くすくすくす。姫様、王子様が呆気にとられてますよ」


 カーラに言われてヨナの方を見ると、ヨナはぽかんと口を開けて、妾と手の中の銅貨を見比べていた。


「あのな、ヨナ。銅貨十枚でリーンハルト銀貨一枚になるのじゃ。銀貨十枚でリーンハルト金貨一枚じゃ。リーンハルト金貨百枚が、大陸金貨一枚になる」


「あ、え、あ……、では、リーンハルト金貨二枚とエウスタキオ金貨一枚が同じということですね」


「そうなのか? まぁ、金貨なんぞ、妾はめったに見たことがないがの。

 実はモーフィーという年寄りがの、大老部屋のごみ箱の一番下に、金貨を三枚貼りつけて隠しもっておるのじゃ。今度見せてやるからの」


「へ、へぇ。あの、銀貨も見せていただきたいです。僕は金貨以外見たことがないので」


「はぁ? なんじゃ、それは! エウスタキオはそんなに物価が高いのか?」


「高いというか……」


 ヨナが、金色の眉毛を困ったように寄せる。後ろではカーラが体を折り曲げて笑っていた。もう一人の侍女も、口元を手で押さえてあらぬ方向を向いている。


「……何がおかしい」


「いえ、ぷっ、くすくす……。

 姫様が健やかに成長なされていて、嬉しいのですわ」


「そうか? ならばなぜそんなに笑うのじゃ。

 ヨナ、妾はもしかすると、普通の姫君とはかなりずれておるのか?」


「えっ、あの、そ、そんなことはありません。姫はとてもすばらしい姫君であらせられます」


「本当に?」


「ほほほ、本当です。僕、姫のような、す、すてきな方に会ったことがありません。

 ぼ、僕は、姫に会えて、すごく……」


「“すてき”というのも微妙じゃのう。妾は普通かどうかを聞いておるのじゃが」


「“普通”なんて誰が決めるんですか。姫様はそのままでいいんですよ。

 王も私もみんな、姫様のことが大好きです」


「フェリクスも? それならいいか」


「あ、あの、僕も姫のこと、好きですっ」


「うむ、ありがとう。皆がそういうならいいとするか。

 では、ヨナ。こづかいは少ないが、二人で協力してやりくりをしようぞ。まず欲しい物を買って、残った金で美味うまそうなものを見つけよう。なんでも半分こすれば、いろいろな種類が食べられるじゃろ」


「は、はい」


 ヨナにしては、元気に返事をする。気合いを入れるのはよいが、迷子になられては困るので、妾はヨナに手の平を差し出した。


「?」


「行くぞ」


 きょとんとして首を傾げたヨナの手をとって、走り出す。つないだヨナの手は、しっとりと汗ばんでいて、柔らかかった。






「でな、こぉんな大きな小麦煎餅をな、二人でたいらげたのじゃ!」


「あぁ、あれだろ、鉄板に小麦を薄く伸ばして焼いたやつな! あれ、うまいんだよなぁ」


 城下町から戻り、妾は一番にフェリクスの執務室に駆け込んだ。フェリクスはちょうどお茶を飲んで休憩をしていたところだったので、妾を膝に乗せて話を聞いてくれた。


「ヨナはな、焼串の食べ方も知らぬのじゃ。こうやってかぶりつくんじゃと教えてやったら、目を丸くしておったわ」


「はははっ

 エウスタキオの晩餐には、焼串は出ないかもなぁ。出ても上品に切ってあるんだろ。

 で、王子は今どうしてるんだ」


「疲れたようじゃから、昼寝をさせるとカーラが言っておった。いっぱい歩いたからの。それでもまだ街の半分じゃ。今度、もう半分を見に行くんじゃ。いいじゃろう? フェリクス」


「おう。ただ、王子もほどほどに休ませてやれよ。具合が悪くなられちゃ困るからな」


「わかっておる。来週からは妾も忙しくなるから、そうそうヨナの相手ばかりも……そうじゃ」


 来週、と自分で言って、ドレスの隠しに入れておいたハンカチを思い出した。


「これ、やる」


「ん? おぉ、もしかしてマリーが作ったのか。よくできたな」


 城下町で買った青いリボンをかけたハンカチを渡す。フェリクスはリボンをほどいてハンカチを広げると、名前を刺繍したところを見て褒めてくれた。


「今はまだそれが精一杯じゃが、裁縫の先生にちゃんと習って、もっとうまくできるようになる」


「あぁ、がんばれ」


 フェリクスが妾の頭をぽんと撫でてくれる。そして右頬にキスをしてくれた。


「……おまえのほっぺた、なんでべたべたするんだ」


「っっっ

 綿あめを食べたからじゃ! ヨナが食べたことがないと言うから」


「ははっ、そうか。おまえのほっぺたも綿あめみたいにうまそうだぞ」


「あっ、たっ、こら、噛むな、フェリクス! フェーリクス!」


 膝の上に抱えられていては逃げ場がない。妾は必死に抵抗したが、結局がぶがぶと頬を噛まれることになってしまった。






 そんなこんなで、あっという間に月日はすぎ、ヨナがリーンハルトに来て一か月がたった。

 ヨナから毎日届く手紙は相当な厚みとなり、籠いっぱいになった。


「毎度、花やら刺繍のモチーフやら入れてくるからの。紙だけならまだよいものを」


「そんな風に言うものじゃありませんよ、姫様。

 こちら、今日の分です。これが最後になるかもしれませんね」


 夜、風呂を済ませて寝る支度をしていると、カーラが手紙を渡してきた。

 明日、ヨナはエウスタキオに帰る。歳は一つ上じゃが、弟ができたような気分になっていた妾は、少し寂しい気がした。


「どれどれ。あぁ、昼間一緒に菓子作りをした話じゃな」


 故郷の家族に土産をということで、妾はヨナと一緒に菓子を焼いた。リーンハルトに来るまでは何もできなかったヨナじゃが、ひと月の間にずいぶんいろいろなことができるようになっていた。


「木登りも川泳ぎもしたの。体を動かすことは妾のほうがうまいが、手先はヨナのほうが器用じゃ」


「普通逆なんですけどね」


「“普通”なんてものはないんじゃよ」


「あら、姫様にしてやられましたわ」


 カーラがくすくすと笑う。

 妾は澄ました顔で、手紙の二枚目をめくった。


「ん?」


『追伸

 もしお時間がありましたら、月が高く昇るころ、東の塔の露台テラスにいらしてください。

 貴女の親友 ヴァルト=ヨーナ=エウスタキオ』


 東の塔の三階には、中庭が見下ろせる夕涼み用の露台テラスがある。

 月が高く昇るころ、というと、もう間もなくではないか。


「カーラ、まだ暑くて寝る気になれん。少し夜風に当たりに行ってきてもいいか?」


「いいですけど、上着ガウンを持って行ってくださいね。夜は結構冷えますよ」


「わかった」


 カーラに言われ、上着を持って部屋を出る。東の塔の露台テラスは、渡り廊下を通ればすぐそこだった。


「ヨナ」


「姫! いらしてくださったのですね!」


 黄色いマントをひるがえし、ヨナが駆け寄ってくる。夜着一枚の妾と違って、ヨナは初めてリーンハルトに来たときと同じ、正装だった。


「どうしたんじゃ、あらたまって」


「いえ、あの……、僕、明日で帰るから……」


 できることはいろいろ増えたヨナじゃが、この気弱なしゃべり方はなかなか直らん。次に会うことがあれば、この話し方も直してやりたいものじゃ。


「姫には本当によくしていただいて……。大老の方々にもかわいがっていただいて、嬉しかったです。チェスもできるようになったし……」


 アナンドたちは、妾がヨナを連れて行くと、大層喜んだ。エウスタキオの様子について聞き、チェスを教え、共に茶を飲んで盛り上がった。


「それで、あの、あのですね」


 露台テラスには、心地の良い風が吹いてくる。見下ろした中庭には白薔薇が咲いているのが見え、真ん中の塔にはまだ明かりがついていて、大人たち(フェリクス)はまだ仕事をしているのだろうと思った。


「僕、国に帰ってしまうから……、もう姫に会えないから……」


「そうじゃな。よかったらまた手紙をくれ。

 あぁ、毎日はいらんぞ。中身も手紙だけでいいからな」


「は、はい。手紙は送らせていただきます。

 あの、でも、そうじゃなくて、僕は……」


 ヨナがいつも増して、もじもじとする。


「なんじゃ、厠にでも行きたいのか」


「ち、違います! ぼ、僕、あの、姫のことが好きなんですっ

 大きくなったら、僕と、け、結婚してください!」


 ヨナ、突然膝をついて、そう言った。

 差し出された右手は、ぷるぷると震えている。


「……は?」


「あ、あの、ですから、今はまだ小さくて無理ですけど、大きくなったら迎えに来ますから、僕と……その……」


 妾を見上げるヨナの顔が赤い。

 なんとこれは、すっかり忘れていためろめろ作戦、成功か?

 けれど、結婚というのは困る。妾はフェリクスが好きなのじゃから。


「ヨナ、あのな」


「だ、だめですか? だめですよね。僕なんて姫には似合わないですから……。

 結局チェスも一度も勝ったことがなかったですし、木も登れないし泳げないし、お金の計算もいまいちまだよくわかってないし、唯一できるのは裁縫だけで、でもそれも姫もずいぶん上手になったし……」


 ヨナは手を差し出したまま、ぼそぼそと言い出す。妾は王子ヨナをめろめろにしたあとどうすればよかったんじゃっけと、大老たちに言われたことを思い出そうとした。


「だめということはないのだがの。チェスだってはじめたばかりじゃし……くしゅん!」


 さぁっと吹いてきた風に、くしゃみが出た。妾が手にした上着をはおろうとしたら、さっと立ち上がったヨナがマントを肩にかけてくれた。


「すすす、すみません、ここ、寒かったですね。僕、何も考えずにお呼びしてしまって……」


「ちゃんと上着を持ってきておるから大丈夫じゃ」


 ヨナは妾の肩に手を置いて、マントを押さえている。妾がその手をどけて上着を着ようとしたら、ヨナは逆に力をこめた。


「ヨナ?」


「姫……」


 ヨナの顔が近付いて来る。なんじゃと思ったら、不意に大老たちが言っていたことを思い出した。


『王子のはぁとをがっちりげっとできれば、我が国との将来的な友好関係もばっちりで、姫様の株も上がって一石二鳥じゃ』


 おう、そうじゃ。

 ヨナとはずいぶん仲良くなれたと思う。


『姫様の魅力でめろめろにさせて、手なずけるのじゃ。

 きっすの一つでもしてやれば、小国の王子なぞ、イチコロじゃぞ』


 そういえば、そんなことも言っておったの。

 ヨナの顔が、さらに迫ってきおる。ん? もしかしてこれは?


『ほっぺじゃだめぞな。きっすっちゅうのは、こう、口と口を合わせて、ぶちゅ~っと』

 

 ヨナは妾に”きっす”をするつもりなのか。まぁ、作戦通りといえば作戦通りか。

 ……別に、口と口が合わさることくらい、なんでもないじゃろう。

 それが、フェリクスのためになるのなら。


 妾は、来たるべきときのために、ぎゅっと目を瞑った。本来は妾からするつもりじゃったが、どっちでもかまわんじゃろう。こうなったら受けて立つのみじゃ。


「……」


 ヨナの口が、くっついて、離れた。

 ほら、やっぱりなんでもな……。


「姫、どうして泣いてるんです」


「……っ、泣いてなど……!」


 ヨナに言われ、目元をぬぐった。手の甲が、確かに濡れた。

 なんじゃ、これは。


「あの、すみません、僕……」


 妾が、泣くなど。

 しかも、ヨナの前で。


「姫! あっ、お待ちください!」


 ヨナを突き飛ばし、駆け出す。ヨナのマントが、はらりと床に落ちた。


「姫っ、姫っ、姫―!」


 尻餅をついたヨナの、声だけが妾を追いかけてきた。妾は上着を握りしめ、夢中になって回廊を走った。






 ばたん!

 勢いよく、執務室の扉を開ける。


「マリー? こんな時間にどうした」


 羽根ペン片手に書類から顔をあげたフェリクスに、駆け寄って飛びつく。


つめてっ

 ……泣いてるのか? 怖い夢でも見たか?」


 妾はフェリクスの首にしがみつき、ふるふると頭を振る。


「ならどうした。

 冷え切ってるじゃないか。カーラは何をやってるんだ。とりあえず上着を着ろ」


 フェリクスが上着を持って、袖を通してくれる。妾はそれでもフェリクスの体温のほうが気持ちよくて、またぴったりとくっついた。


「なんだぁ? ほんとに夢を見たんじゃないのか?

 カーラに怒られでもしたか? 幽霊でも見たか?」


 夢か。夢ならよかった。でも妾は、ヨナを突き飛ばして逃げてきてしもうた。


「フェリクス、すまぬ……」


「ん? なんであやまるんだ?」


「だって、妾は……妾は……」


 ヨナは、すぐには立ち上がれないようじゃった。

 怪我でもしてしまったじゃろうか。

 これが元で、エウスタキオとリーンハルトが戦争にでもなったらどうしたらいいのじゃろう。


「どうした、マリー。何があったんだ?」


 フェリクスが妾の頭を撫でてくれる。お風呂から出てカーラが丁寧にいてくれた髪はさらさらで、フェリクスの指が髪の間を通っていくのが心地よかった。


「……ヨナが」


「王子?」


 ヨナにキスされたことを、フェリクスに言ってもいいものじゃろうか。

 ヨナを突き飛ばしてしまったことをフェリクスが知ったら、怒るじゃろうか。


「……」


 どうしたらいいかわからなくなり、妾の目からはまた涙があふれた。


「そんなに泣くなよ、マリー。目が溶けちまうぞ」


 フェリクスがハンカチを取り出して、妾の涙を拭いてくれる。

 あ、それは妾が刺繍をしてやったやつじゃ。ヨナに教わって、フェリクスの名前を……。


「もう、泣くなって。

 あぁ、子どもの泣き止ませ方なんて、俺わかんねぇよ。これが他の女なら押し倒して終わりなのによ!」


 フェリクスが、妾の脇の下に手を入れて持ち上げる。そして膝の上に座り直させると、妾の頬に涙でへばりついた髪をかきあげて、ちゅっとキスをした。


「……フェリクス?」


「お、泣き止んだな」


 フェリクスが妾にキスをした。しかも、口に。


「今、何をした」


「何ってキスだよ。いつもしてるだろ」


 そう言って、フェリクスは今度は頬にキスをした。


「そうじゃない。さっきは違ったじゃろう」


「ん? そうか?」


 フェリクスがちゅっちゅっとキスをしてくる。何回かは頬に、そして何回かは口がくっついた。

 なぜじゃろう。フェリクスが相手だと、嫌ではない。それどころか、もっとしてほしい。


「後宮の女とは、もっと違うキスをしていたじゃろう」


 妾は思い出す。以前フェリクスが変な女を寝室で押し倒していたときに、口をくっつけた後にもごもごやっていたことを。


「あれは……おまえにはまだ早い」


「なぜじゃ。してくれないと、また泣くぞ」


 妾は目頭に力を入れ、まばたきをして目を潤ませる。


「また泣くって、おまえ……。はぁ」


 瞳にたまっていた水がぽろりとこぼれるのと、フェリクスがこうべを垂れるのとはほぼ同時じゃった。


「誰にも言うなよ」


 フェリクスの手が妾の頬を包む。

 唇がふさがれた瞬間、フェリクスの太い舌が口の中に入ってきた。


「むぐっ、何す……」


 フェリクスの舌が、妾の口の中でぬらぬらと動く。

 妾は息ができなくなって、フェリクスの胸をどんどんと叩いた。


「ぷっは! 苦しいではないか!」


「おまえがしろっつったんだろ。鼻で息すりゃいいんだよ」


「鼻? 鼻もおぬしの顔でほとんどつぶれておったわ!」


 妾が先ほどまでとは違う涙をにじませてフェリクスを睨み付けると、フェリクスはぶはっと吹いた。


「はっははは! そっか、それは悪いことをしたな!

 子どものくせに大人のキスなんざねだるからだ。機嫌は直ったか? 早く寝ろ」


 フェリクスが机上のベルをリンと鳴らす。

 すかさずやってきた侍女が、妾の手を引いて扉を開けた。


「明日はヴァルト王子の送別式だな。寝坊すんなよ」


「うむ……」


 手を振るフェリクスに、小さく手を振り返す。そうじゃった、ヨナは……。部屋に戻ったじゃろうか。

 

 侍女に手を引かれて自室に戻ると、蒼白な顔をしたカーラに出迎えられた。


「姫様! どちらにいらしたんですか!?」


「すまん、フェリクスのところにいた」


「王の? そうならそうと言ってくだされば……。夜風に当たられるというから、東の塔の露台テラスから中庭まで、城内を走り回ってお探ししましたよ」


 カーラはすぐ戻ってくると思った妾がなかなか戻ってこないので、心配して探してくれたそうじゃ。


露台テラスには……誰もいなかったか」


「いませんでしたわ。中庭にも誰も。誰かいれば姫様を見なかったか聞こうと思ったのですが、こんな時間ですものね。

 さぁ、姫様、もう寝ましょう。明日起きられなくても知りませんからね」


 誰もいなかったということは、ヨナも部屋に戻ったのじゃろう。

 妾は少しほっとして寝台に潜り込んだが、その晩はなかなか寝付けなかった。






 翌朝、帰る準備で忙しいというヨナには会えず、送別式典でも周りに人がたくさんいたため、ろくに話もできなかった。

 とうとう、ヨナが馬車に乗り込み、出発してしまうというとき。

 妾はフェリクスのそばを離れ、ヨナの乗る馬車に駆け寄った。


「ヨナ!」


「……姫?」


 妾が呼びかけると、ヨナはすぐに馬車の窓を開けてくれた。


「これ、やる! もっと練習して、もっとうまくなるから、また遊びにこい!」


 背伸びをして、手を伸ばして、ヨナの名を刺繍したハンカチを渡した。

 昨夜あまりに眠れなかったので、思い立ってこっそり起きて作ったのじゃ。


「姫……ありがとうございます。

 あの……、怒ってないんですか?」


「何を怒るんじゃ? 我らは親友じゃろうに。手紙、待っておるぞ」


「は、はい。

 ぼ、僕、立派な男になって、必ずもう一度申し込みますから。待っていてください!」


 ヨナのすみれ色の瞳が涙に濡れる。

 ガラガラと音を立てて走り出した馬車に、妾はいつまでも手を振った。






「そぉれ、王手チェックメイトじゃ!」


「あっ、ずるいぞ、モーフィー。その駒はこっちのマスじゃ」


「いんや、こっちのマスじゃった」


 ヨナがエウスタキオに帰ってしまって暇になった妾は、以前と同じように大老たちの部屋に入り浸っておる。


「で、姫様。王子めろめろ作戦はどうなったんかの」


「あぁ、まぁ、友だちにはなれた……と思う」


「ふぉっ、ふぉっ。そうか。

 王子のほうは、友だちとは思っておらんかったようじゃがのぅ。

 ずいぶんと名残惜しそうに帰っていかれたから、大成功じゃとわしは思うぞ」


 モーフィーが、ガルリにばちんと目配せをする。ガルリもにやっと笑って、ヨナにもらった茶をすすった。


「おぬしらまさか……。ヨナに余計な入れ知恵をしなかったじゃろうな」


「ふむ、入れ知恵とはなんのことかの」


「なんのことかじゃないわ! どおりであの夜いきなりヨナが変なことをしてきたわけじゃ!」


「ふぉふぉっ

 変なこととは? 何をされたんじゃ、姫」

「ほれ、このじいどもに話してみなされ」

「大丈夫じゃ、王には秘密にしてやるからの」


 モーフィー、ガルリ、アナンドの三人が、しわくちゃの顔をそろえて、妾に迫ってくる。


「~~~~~!

 おぬしらなんぞに絶対話すものか! こんの、窓際大臣どもめがあぁぁぁぁ!」






 その後、ヨナからは月に一度くらいの割合で手紙が届いている。

 中には、四季折々のエウスタキオの草花や、ヨナが作った手芸作品、いい匂いのする栞などが入っていた。


「手紙だけでいいと言うたのにの」


「くすくす。今度もっと大きな箱を用意しておきますね」


 カーラが手にしたヨナ専用の手紙入れは、すでにいっぱいになっていた。


「さ、姫様。おやつの後は礼儀作法のお時間ですわ。身支度を整えて、先生の待つお部屋へ行きましょう」


「ん? そうじゃったな。あ、ちょっと待ってくれ、カーラ。

 フェリクスに用事があったのを思い出したぞ」


「王にご用事? 急ぎでないなら私がうけたまわって……、あっ、姫様っ」


「急ぎの用事じゃもーん! フェリクス、どこじゃ! フェーリクス!」


 ドレスの裾をからげ、城内を駆けて行く。


 渡り廊下の窓から見えた中庭には、あの日と同じ、白い薔薇が咲き誇っていた。









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