マリーと王子<上>
「フェリクス! フェーリクス!」
今日も妾は好いた男を追いかける。乙女にこんなに走らせるなんて、罪な男じゃ。
「お、マリー、ちょうどいいところに来たな」
城の廊下を侍女を連れて歩いていたフェリクスに駆け寄ると、フェリクスはにっこり笑って妾の頭を撫でた。
ん? なんじゃ。今日はいつもと反応が違うの。
「今日、これから隣国の王子が来るんだ。
留学? 遊学? っつーのか? 七歳だっていうから、おまえの一歳上だろう?
ちょっと相手してやってくれ」
「はぁ? なんで妾が子どもの相手をしなくてはならんのじゃ」
「おまえだって子どもだろうが。いつも暇そうにしてるんだ、ちょっとくらい、いいだろ」
「暇そうとはなんじゃ! 妾とて忙しいのに、貴重な時間を割いてフェリクスの元へ来ておるのじゃぞ!」
「へぇ。なんで忙しいんだ?」
「それはその……。礼儀作法とかな、語学とかな、裁縫とかな」
「全て姫様がさぼっておられる授業でございます」
「うっ」
妾が指折り数えてフェリクスに話していると、フェリクスの後ろに控えていた侍女がズバッと言った。
「そ、そんなことないぞ、カーラ。礼儀作法は昨日やったし、語学も宿題をちゃんと出したから今日はないのじゃ。裁縫は先生が腹痛で休みだから、やりたくてもできないのじゃ」
「姫様。礼儀作法は毎日あります。語学はリーンハルトの分は終わったようですが、ロクサーヌのほうはまだでしょう。
お裁縫の先生がお休みになられているのは、姫様がいじわるをなさったせいだと聞いていますよ」
「ほぉ」
フェリクスがおもしろそうな顔でカーラを見る。カーラは妾が小さい頃からフェリクスの側に仕えている侍女で、必然的に妾の面倒もよく見てくれた。年はもう四十過ぎのはずじゃが、若い頃に寡婦となり、今は独り身じゃ。
「いじわるなどしておらん」
「そうですか? お裁縫の先生が蛙を大嫌いだと知っていてハンカチのモチーフに希望したとか、料理長に頼んでお茶菓子のクッキーをわざわざ蛙の形にしたとか、裁縫道具の中に蛙のブローチを入れて開けたとたんひっくり返った先生を笑ったとか、数々の所業を聞いていますよ」
「おまえ、そんなことしたのか。なかなかやるな」
「で、でも、それはいじわるじゃないのじゃ。
カーラは蛙を気持ち悪いと思うか? 妾は小さくて緑色でつやつやしてるあやつが、大好きじゃ。先生にも、妾の好きな蛙を好きになったほしかっただけなのじゃ……」
だから、ハンカチにかわいく刺繍すればいいと思った。
クッキーだって、先生は甘い物が好きだから喜んでくれると思った。
ブローチは……プレゼントのつもりだった。驚いて転んだ姿勢がおもしろくて笑ってしまったのは悪かったが、決して嫌がらせをしようとしたのではなかった。
「なるほどな。想いってのは、自分の思った通りには伝わらないもんだよな」
ドレスの裾をつかんで俯いた妾の頭を、フェリクスが優しく撫でてくれる。
「でも、マリーのやったことは、その先生にとっては嫌なことだったんだ。
相手にとって嫌なことをしたら謝らなくちゃならない。マリーは先生に謝ったのか?」
「ブローチのときは、その場で謝った。けど、軽い謝り方だったかもしれない」
「そっか。どうする? もっとちゃんと謝っておくか?」
「うむ。しかし、先生が来てくれないことには謝れない」
「手紙を書けばいいですわ」
どうしたものかと頭を悩ませたところで、助け舟を出してくれたのはカーラだった。
「心をこめて、お手紙を書きましょう。ね?」
腰をかがめ、目線を合わせてカーラが言う。優しい物言いに、母と言うのはこういう感じなのじゃろうかとふと思った。
「わかった。カーラ、文を一緒に考えてくれるか?」
「えぇ、いいですよ。今から書きますか?」
「おう、思い立ったが吉日じゃ! さぁ、行こうぞ」
妾はカーラの手をとって、ぐいぐいと引く。カーラはフェリクスに一礼すると、妾に歩調を合わせて歩きだした。
「おい、マリー! 王子の遊び相手の話は!」
「考えておく!」
一人廊下に残されたフェリクスに、振り返って言う。いつも妾が待たされておるのじゃ。たまにはフェリクスを困らせるのもいいじゃろう。
「姫様、そういうところがいじわるなんですよ」
「むぅ。だって、フェリクスも」
「“だって”や“でも”は言ってはいけません。自分への言い訳を許しているようでは、立派な淑女にはなれませんわ」
「……わかった」
カーラに言われるとなんとも逆らえない。妾は大人しく言うことを聞き、手紙の作成にとりかかった。
妾の騎士がアナンドの歩兵を倒す。
空いたところから王を狙おうとしたら、アナンドの僧正が妾の騎士を刺していた。
「ピン・アップじゃ」
アナンドがふふんと鼻を鳴らす。妾はなんとかピンを解消しようと思考をめぐらせたが、どう駒を動かしても次の手で女王をとられてしまう展開になってしもうた。
「くっ」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。そぉれ」
アナンドが嬉しそうに妾の女王をとる。妾は悔しがる……ふりをして、騎士を手にした。
「王手!」
「なぬ!? おおおおお」
アナンドは、目玉が飛び出すのではと思うくらい目を見開いて盤上を睨みつけ、両手を震わせて低く唸った。
「そう興奮するでない。脳の血管が切れて頓死するぞ」
「くぅっ、姫様にしてやられましたぞ! かくなる上は、もう一戦!」
「今日はここまでじゃ。そろそろ隣国の王子とやらが到着する頃だからの。
はぁ……。どうして妾が子どもの世話なぞせねばならぬのだ」
駒を並べようとするアナンドを止め、妾はふぅっと溜息をつく。
「なんじゃ、姫様。いつも前向きな姫様らしくないぞい。
隣国の王子の相手なぞ、姫様なら朝飯前じゃろうに」
「そうじゃそうじゃ。手の上でころころ~っと転がして、適当にあしらってやればよいのじゃ」
「なおかつ、王子のはぁとをがっちりげっとできれば、我が国との将来的な友好関係もばっちりで、姫様の株も上がって一石二鳥じゃ」
「ん? 何? 今、なんと言った?」
アナンドの後ろで大老の二人――モーフィーとガルリ――が何やら言っているのが気になった。
「うぬ? 王子のはぁとをがっちりげっと☆」
「そのあとじゃ」
モーフィーが、器用に片目を瞑って言う。しかし、妾が聞きたかったのはそれではない。
「我が国との将来的な友好関係と、姫様の株の話かの。
リーンハルト王国は、フェリクス王の超人的な資質による統治力と直感的な軍事力でここまでのし上がってきた国じゃ。近隣諸国とのつながりはまだまだ不安定で、弱みを見せれば、いつ攻め込まれるかわからぬ。隣国のエウスタキオ王国は、小さいながら希少な鉱物を産出する国で、代々賢王が治め、諸国も一目置いておる。そこの王子と懇意になれれば、王子が戴冠するころには我が国との関係は強固なものとなり、王国の安定につながるじゃろう。
それに姫様が一役買ったとなれば、王も感謝するに違いないぞい」
モーフィーを押しのけ、ずいと前に出たガルリが真面目な顔で言う。妾は難しい言葉が混ざっていたガルリの話をなんとか咀嚼し、理解した。
「つまり、今日来るエウスタキオ王国の王子と妾が仲良くなれば、国が助かり、ひいてはフェリクスが妾を感謝の念を抱いてくれるということじゃな!」
「ふぉっ、ふぉっ。そういうことじゃ。できれば姫様が王子を籠絡してくれるとなお良いの」
「ろうらく?」
「姫様の魅力でめろめろにさせて、手なずけるのじゃ。
きっすの一つでもしてやれば、小国の王子なぞ、イチコロじゃぞ」
ガルリが話し、モーフィーが説明をする。アナンドは腕を組んで、うんうんとうなずいていた。
「キッスとな。それは口づけのことじゃな。フェリクスに毎朝しておるように、ほっぺでいいのかのぅ」
「ほっぺじゃだめぞな。きっすっちゅうのは、こう、口と口を合わせて、ぶちゅ~っと」
「こぉら、モーフィー! わしで実演するのはやめぃ! 気色の悪い!」
「なんじゃと、アナンド! 若い頃は絶世の美少年と謳われたわしにせまられて、なんという言い草じゃ」
「若い頃じゃろうがしわくちゃのじじいじゃろうが、わしに男色の気はないぞい」
「何を言うか、これも姫様のため! いまさらきっすの一つや二つでびびるでない」
「びびってなどおらん! 相手がおまえなのが嫌なだけじゃ!」
モーフィーとアナンドがぎゃあぎゃあと騒ぎ始めたので、妾は駒を片づけて退散することにした。
「とりあえず口ということはわかったがの。いつすればいいのかがわからん」
片づけながら、一足先にすばやく騒ぎの輪からはずれて茶をすすっていたガルリに尋く。
「そりゃ、二人っきりになったときじゃぞい。ちぃと難易度高めでもよければ、周りに誰もおらん状態で、なおかつフェリクス王だけに見えるときを狙うと、王に焼きもちを妬かせることができるかもしれん」
「焼きもち! それはよいの。わかった、試してみる!」
ガルリによい助言をもらった妾は、意気揚々と大老の部屋を出た。さっきまでは憂鬱で仕方なかった王子の相手じゃが、フェリクスに焼きもちを妬かせられるとあらば別じゃ。積極的に王子と仲良くなり、国の安寧に努めていることを強調し、フェリクスに感謝された上で焼きもちも妬かせてやるのじゃ!
妾はドレスの横を持って持ち上げ、大股で廊下を進む。
フェリクスに、王子の相手をしてやると返事をするために、あやつを探すのじゃ。
「フェリクス! フェーリクス!」
渡り廊下を通り、フェリクスの執務室に向かう。ばんっと勢いよく扉を開けたが、フェリクスの姿はなかった。
「ここにおらんということは、私室か」
階段を下り、城の奥へとさらに進む。毎日毎日フェリクスを探して歩き回っておるから、妾はそこらの歩兵より、よほど健脚だと思う。
「フェーリクス!」
ばんっと扉を開けたが、いつもフェリクスが座っている椅子に、フェリクスの姿はなかった。寝室のほうじゃろうか。
どこにおるのじゃろうと部屋をのぞくと、奥から何やら人の声が聞こえてきた。
「んっ、はぁっ、あぁ、王……!」
ねっとりした女の声が、フェリクスの寝室から聞こえる。どうやらフェリクスはここにおるようじゃ。
「フェリクス! 何をやっておる! そろそろ客人が来るころじゃろう!」
「えっ、あっ、きゃあっ」
「おお、マリー。すまんな」
寝室の扉のところに仁王立ちになって声をかけると、胸元をはだけさせた女に、フェリクスが覆いかぶさっていた。
「バルバラ、続きはまた今度な」
「え、えぇ」
バルバラと呼ばれた女に、フェリクスが口づける。モーフィーが言っていたように、口と口をくっつけて、何やらもごもごやっていた。
「何をしておるのじゃ! 早ぅせい!」
「はいはい。じゃぁな、バルバラ。うちの姫さんがうるさいからよ。
マリー、あんなに嫌がってたのに、気が変わったのか?」
フェリクスが寝台に腰かけて妾のほうを向くと、バルバラは衣服を整えてそそくさと部屋から出て行った。
「ふん。王子の一人や二人、妾に相手ができないわけがなかろう。年上じゃろうが年下じゃろうが、どんとこいじゃ!」
「……おまえ、またくそじじぃどもに何か変なこと吹き込まれてねぇだろうな」
「な、なんのことじゃ? フェリクスこそ、昼間っから寝室に女を連れ込んで、チチクリアッテたのじゃろう!」
「ぶっ
おまっ、何を……ってか、意味分かってんのか?
まぁ、助かったけどよ。ったく、貴重な睡眠時間を邪魔しやがって、あの馬鹿女。どうやって追い払おうかって思ってたんだ。一発やりゃぁ気が済むのかもしれないが、こっちもいちいち相手にしてちゃ疲れるだけだからな」
あの女は、どうやら最近後宮に上がった女で、他の女を出し抜こうと、フェリクスの寝こみを襲ったものらしい。
「王子の到着までもうしばらくある。マリー、ちょっとここに座れ」
フェリクスに言われ、寝台の枕元に腰かける。すると、フェリクスが横たわり、妾の膝に頭を乗せてきた。
「おまえがいれば、余計な奴は寄ってこないだろ。しばらくこうしててくれ」
フェリクスは、妾の膝を枕にして眠るつもりのようだ。まともに睡眠もとれぬとは、王というものも大変なものよの。
「ははっ、ちょっと肉が薄いが、なかなかの寝心地だぞ、マリー。
もっと、食って……早く、大きくな……」
すー……。
話をしていたフェリクスは、言い終わらないうちに寝息を立て始めた。
「早く大きくなりたいのは、妾だって同じじゃ。いつになったら、おぬしに追いつけるのか……」
妾は、妾が眠るときにフェリクスがしてくれるように、フェリクスの頭をそっと撫でる。フェリクスは、くすぐったそうに首をすくめてむにゃむにゃ言ったあと、またすやすやと寝息を立てるのだった。