仇なすべきは
「ようやくだな」
「ああ」
親友の言葉に俺は頷く。俺達は今、国家の頂点に立とうとしている。
外からは慌ただしい物音。政府関係者たちが会見準備を進めているところだ。
時折それに混じり、マスコミの話し声も耳に届く。防音加工が施されたこの部屋にいて
これだけ聞こえるということは、一歩扉を開けば万雷の拍手とカメラのフラッシュが
俺達を出迎えるに違いあるまい。新たな指導者の誕生を祝う、喜びの光と声が。
俺達二人は幼い頃からの親友同士だった。ともに野山を駆け、河原を走り、街中を探検して、同じ学び舎で過ごして。夢を語らい、苦楽を共にし、切磋琢磨してきた。
何度となく衝突もした。だが、どれだけ紆余曲折を経ても、俺達は必ず最後には手を取り合った。
親友なんて言葉では物足りない、もはや相棒、いや、半身とさえ言える。
何の変哲もない一般家庭に生まれた俺達が、こうして政治の世界に踏み込むことが出来たのも、そうして互いを励まし、学ぼうと努力してきたからだろう。
誰しも幼い時分に、将来のことについて聞かれたきたはずだ。卒業文集だのに必ずといっていいほど書かされる、なりたい職業だとか、ああいう他愛もない質問だ。
俺達は揃って「えらいひと」と書いて、具体的でないと叱られたりもした。幼稚園の頃は曖昧模糊としていたその願望が、小学生になって「せいじか」となって、中学生、高校生と段階を経ていくにつれ、いつしかこの国で一番偉い指導者のことを指すようになっていった。
別に理由があったわけじゃない―――そう、はじめは。ただ、どうせ目指すなら、誰よりも高いところを見たかった。夢見がちな女子が書く「ケーキやさん」だとか、スポーツの得意な男子のあいつが書いた「サッカーせんしゅ」なんかよりも、ずっと高く、ずっと大きなものを。そういう意味じゃ、宇宙飛行士と書いてもよかったかもしれない。
だが不思議と、俺達が目指したものは社会に則したものだった。夢が具体的になっていくにつれ、なぜそれを望むのか、その意味も深く考えるようになった。
国をよりよくしたいから、当然それはある。今の体制に不満がある、それも正解だ。権力が欲しい、ともすれば下卑た欲望だが、人間である以上その意思は否定できない。すべて正しく、どれが一番とは言い難い。少なくとも、今俺の正面にいるこいつはそうだった、いやそうであるはずだ。
だからこそ、指導者の椅子に座ることが出来たのは、俺ではなくこいつなのだ。それ自体に不満などない。唯一無二の親友、換えがたき我が相棒。こいつがどれだけ立派な人間で、そのポストにおさまるに足る力を持っているか。この世で誰よりもそれを理解しているのは、間違いなく俺だ。ゆえに、俺は、その片腕としてこいつを支えてきた。
困難だった、なんて一語で済ますつもりはない。逆に、俺達が踏みしめてきた道のりのすべてをここで長々と示すつもりもない。……ただひとつ忘れがたい出来事はあったが、それ以外のことなんて、語る必要がない。今こうして、俺達は夢を実現させようとしているのだ。これまでの努力と道のりが実を結んで、いよいよ誰よりも偉く、誰よりも責任を求められる、名誉ある職務に就くことが許される。俺達、いや、こいつを選んでくれたこの国の人々の意思によって。
「正直、実感が湧いていないんだよな」
テーブルに置かれた水を飲み干して、親友は笑った。一息に水を呷るのはこいつの癖だ。緊張している時、必ずそうやって喉の渇きを癒す。それも知っている、俺だけが。
「俺もだよ」
親友の緊張を解きほぐすように、俺は同じように水を飲み干してみせ、頷いた。今、この控え室には、俺達二人だけがいる。他の関係者はみな、部屋の外だ。じきに会場の準備が整い、俺達にも声がかかるだろう。投票によって選ばれた、正当な指導者の就任がすべての国民へと報じられるのだ。そしてようやく、俺達の夢は叶う。
「お前が緊張する必要は、ないじゃないか。補佐官なんて、他にもいるんだしな」
水を飲んで舌がなめらかになったのか、親友は軽口を叩く。そう、俺はあくまで補佐、指導者のサポートに回る裏方でしかない。もちろん、権力闘争に敗れたとか、そういうことじゃない。俺が自分でそれを選んだのだ。指導者は二人も必要ない。どちらかがそうならなければいけないから。
「だったら、俺が「代わってくれ」って言ったら、代わってくれるのか?」
同じように皮肉を言う。親友は肩を揺すって笑い、「まさか」と首を横に振った。当然だ。いまさら交代などできるはずはないし、お互いにそんなことをするつもりもない。俺達は共々納得して、こういう形で夢を叶えることを選んだのだから。どちらか一人が指導者の地位に立てれば、それが俺達にとっての成功であり、勝利なのだ。
時計を見る。残り時間は10分もない。準備が滞っているのか、それともギリギリまで語らう時間を与えてくれているのか、会場への移動を促す連絡はまだない。……好都合だ。まだ、話したいことは山ほどある。そう、山ほど。
「なあ、聞いていいか?」
出し抜けに親友が言った。俺は頷き、言葉を続けさせる。何を聞こうとしているのか、推測はついているが。
「どうして、俺に譲ってくれた? この席を」
やはり思ったとおりだった。俺がこいつの実力と人格を認めているように、こいつもまた俺の能力を買ってくれている。謙遜やお世辞じゃない、そうやって認めてきたからこそ、俺達はこの年齢になるまで肩を並べてやってこれたのだ。長所も、短所も、知り得ているからこそ、腹の底から信頼を置きあえる。
「譲ったように見えるか」
「見える」
即答、そして首肯。
「お前なら、いや、お前こそこの役目に相応しいはずだ。だのに、お前は」
「やめろよ。今から政権争いか? そういうのは任期満了まで取っておいたほうがいいぞ」
冗談めかす俺の言葉に対して、親友の顔は真剣そのものだった。水差しからコップに水を注ぎ、また一息に飲み干す。そして、俺の目をじっと見つめ、言葉を続けた。
「奥さんのことが原因か」
反射的に、水差しを取ろうとした手が止まってしまった。俺は伸ばしかけたその掌を膝の上に戻して、親友の目を見返す。
「鋭いな」
「当たり前だろ。親友だからな」
ふと、硬い表情だった口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。そしてまた、引き締まる。敵意や悪意はない、あくまで、疑問を解明しようとする者の顔つきだった。
「……奥さんのことは、残念だったと思う。だが、それで俺に遠慮したなら」
「やめろよ」
やや語気を強め、俺は言葉を打ち切らせる。聞きたくない、というわけではない。
「こんな晴れ舞台に、湿っぽい話は似合わないだろ」
「湿っぽいっていうなら、それこそ水臭いぜ、お前。ずっと黙ってるつもりだったんだろう?」
「いや。そんなことはないさ、話すつもりでいたよ。ただ、タイミングが見つからなかっただけだ」
深く息を吐き、ソファに身を沈ませる。そして天井を仰いだ。豪奢なシャンデリアの輝きに照らし返され、俺は思わず目を細めた。
俺にはかつて、妻がいた。親友とともに猛勉強して入った名門の大学で出会った、いいとこのお嬢様だ。不思議と女性の趣味は俺と親友で違っていて、青臭いドラマにありがちな、恋人の奪い合いみたいなものは起きなかった。普通に出会い、普通に惹かれあって、それを親友は後押ししてくれた。そして普通に告白して―――そう、たしか俺のほうから想いを告げたんだったか―――OKをもらうことが出来た。ラブロマンス小説を参考に段取りを決めて、親友を使って事前練習までしたっていうのに、緊張したせいでまともに言葉が出てこなくて、くすくすと笑われたのを覚えている。
ともあれ、そうして俺には恋人が出来た。友情と愛情を天秤にかけるほど子供でもなかったし、彼女もあいつも器量がよくて、自然、俺達は三人でつるむことが多くなった。あいにくと横恋慕なんてものは起きなかったし、恋人同士の気分になりたい時は、あいつも空気を読んでくれたっけ。逆に、男同士で親友と語り合いたい時は、彼女もそっとしておいてくれた。つくづく、いい友と恋人に恵まれたものだと、今になっても嬉しく思える。
そうして俺と彼女は付き合いを続け、大学の卒業を機に結婚した。彼女の父親のコネクションが、今ここに俺達が立てたことの礎になったことは否定するまでもないが、そんなことが目的で告白したんじゃないのは、はっきりと示しておきたい。俺は彼女を、妻を真摯に愛していて、妻もそれに応えてくれた。そう、愛していたんだ。
……だからこそ、妻が事故で亡くなったとき、俺はいままで歩んできた人生の中で最大の絶望と悲しみを味わった。
これ以上にないほど、誰にも責任を求めることが出来ないくらいに「事故」だった。その日妻は、久々の三人での食事のため、街中で俺達を待っていた。不幸なことにその近辺で交通事故が起こり、妻は周囲に人々もろとも巻き込まれてしまったのだ。
事故そのものの原因は複数あった。過労で満足に眠れていない状態で仕事に駆り出されたドライバーがいて、自動車会社の不備によってエンジンに不具合を起こした車があり、さらにいえばその日の道路は整備が整っておらず、スリップしやすい状態になっていた。休日なためか特別人が多く、交通に影響を与えていたのもあるのだろう。
誰が悪いというのを特定できない、起こるべくして起こった事故。そんな理不尽によって、妻は命を落とした。
俺達が事故を回避できたのは幸運というほかない。いや、妻と共に死ねなかったという悲観からいえば、不幸でもあるが。仕事が忙しくて待ち合わせの時間に若干遅れてしまった、それが俺達の命を救い、そして妻の命を奪ってしまった。
さっさと仕事を切り上げて、妻を迎えに行けたなら、あるいは。事故から暫くの間、何度もそう考えた。だがそのたび、俺は思考を打ち消してきた。というのも、仕事が増えたのは、親友の些細なミスによるものがあったからだ。どやされるあいつを無視して先に待ち合わせにことも、その時の俺には出来た。だが、それまで何度もやってきたように、俺は親友を助けた。一緒になってどやされて、一緒になって問題を解決していたのだ。だから、俺はあいつに責任をなすりつけることなど出来ないし、ましてや親友を見捨てることが正解だったとも思わない。それがどれだけ小さなことであれ、だ。
いずれにせよ、俺はそんな出来事によって、しばらく全てに対して無気力になっていた。そんな俺を励まし、以前の状態に戻してくれたのもまた、親友のおかげだった。いつかの酒の席で、自分が仕事を失敗しなければと零したあいつに対し、俺は何も言わずに肩を叩きもした。あいつが自分を責める必要なんて、どこにもないんだ。
なぜなら、誰も悪くないから。平等に原因と責任があって、起こるべくして起こってしまったのだから。誰が妻を殺したとか、誰を恨めばいいだとか、そんなシンプルな話ではない。時間をかけてその事実を飲み込んで、親友の助けを借り、俺は再び立ち上がることが出来た。
心のなかに、ひとつの決意を秘めたまま。
俺は視線を戻した。目の前には、真剣な表情の親友がいる。おそらく、俺がいまだに妻のことを引きずっていて、それで夢への情熱を失ったと思っているのだろう。
「なあ、やっぱり」
首を横に振り、親友の言葉を留める。繰り返すが、こんなところまで来て交代などできるはずがないし、するつもりも俺はないのだ。感傷的になると現実を忘れてしまうのは、こいつの悪い癖だ。そして、一度決めたら梃子でも動かないのが、おそらくは俺の悪癖だろう。
「いいんだよ、これで。お前がそうなってくれて、これでようやく準備が整ったんだ」
「……準備?」
あいつが首をかしげた。時計を見る、残り3分といったところか。じきに秘書官がやってきて、会見の準備が終わったことを伝えてくれるだろう。
だから今しかない。俺の決意を、本当の願いを叶えるチャンスは、ここしかない。
「そうだ。今までずっと黙ってたんだが、俺の夢はとっくに変わってるんだ」
親友は眉根を顰める。きっと、俺の口元にはゆるい笑みが浮かんでいるに違いない。当然だろう、自分の夢が結実する時、喜ばないでいられる人なんて、いるわけがない。
「どういう、ことだ」
あいつの手が水差しに伸びようとして、戻った。緊張しているんだな、とその動作でわかる。だがそうしなかった理由も、またわかる。
「なんなんだよ、それ」
目の前の親友の声に震えが混じった。決然とした意志が瞳から消え、困惑と恐怖が浮かんでいる。当然だろう。目の前の相棒が、自分に拳銃を突き詰めているなんて状況に陥ったら、ただただ疑問を投げかけるしかあるまい。それでも取り乱さないのは、さすが俺の親友といったところか。
「なん、何のつもりだ」
「見ての通りさ」
静かに答える。拳銃の撃鉄を起こし、引き金に指をかける。かちり、と音を立ててシリンダが回転し、装填された二発の弾丸のうち、片方が弾倉に込められた。あとはこの人差し指にほんの少し力を入れれば、死神の鎌は振り下ろされ、俺の親友は命を落とすだろう。銃に関しては正直素人だが、何度となく予行練習を繰り返してきた。失敗はしない。
「俺を、恨んでるのか」
「違う」
震えながらも、けして逃げ出そうとはしない親友に、俺は教え諭すように応じる。恨みなんかない。俺は誰も恨んじゃいない。睡眠不足で注意力が鈍っていたドライバーのことも、エンジンのメンテナンスを怠った自動車修理工にも、道路の整備に手間取った作業員や、その上司、あるいはあの時その場にいたすべての通行人、ひいてはそれらと関わるすべての人々も、誰も恨んではいない。誰も悪くなど、ない。あれは事故だ。起こるべくして起きた事故なのだ。
「だからさ、組立て直すんだ」
「は……?」
間の抜けた声で親友が問い返した。同時に、俺は引き金を引いた。フィクションでよく耳にする劇画的な炸裂音とはまったく違う乾いた発砲音がして、しかし腕に伝う衝撃に思わず目を瞑ってしまう。そしてまたまぶたを開くと、そこには額を撃ち抜かれて即死した親友と、クモの巣状に飛び散った血痕が残っていた。
この部屋は防音加工されている。それに、警備がやってくるはずもない。根回しは済んでいるからだ。本当はこの役目も誰かに任せればよかったのだが、親友の命を奪うなんてことを、俺以外の誰かにやらせたくはなかった。俺が一番あいつを理解している、だから殺すのも俺でなければならない。ちょっとした、こだわりだ。
「悪いな」
立ち上がり、瞳を閉じさせてやって、俺は手を合わせた。罪悪感はない。やり遂げた達成感と、最後の仕上げをしなければならないという強い使命感だけがある。俺はもう一度撃鉄を起こし、残った最後の弾丸を弾倉に込めた。残り1分、ちょうどいい頃合いだ。時計を確認したのと同時に、部屋の扉が開いて、秘書官がやってきた。俺達に声をかけようとしたのだろう、何か言葉を一語発そうとして、部屋の状況を目の当たりにし、代わりに「ひ」というくぐもった悲鳴をのどの奥から漏らした。
俺はそいつを突き飛ばし、さっさと会見場へ向かう。警備は来ない。タカ派の議員どもに裏工作を仕込んであるからだ。じきに連中は軍部を拐かし、武装蜂起を起こすだろう。クーデター、というやつだ。比較的平和なこの国にも、そうした過激な思想を持つ輩はいるのだ。それでいい。解体のためには派手な作業が必要だ。
廊下を慌ただしく行き交う関係者や、俺の様子に気づいたSPどもを乱暴に振り払い、俺は会見場に飛び込んだ。扉が開かれた途端、俺をカメラのフラッシュと拍手が出迎えた。新たな指導者の誕生を祝う、音と光が。だがそれは即座に消えて、驚愕のどよめきへと変わっていく。中継カメラは……回っているようだ。それでいい。
わけのわからないことを叫んで俺を押し止めようとする大臣を殴り飛ばして、俺は会見席に立った。無数のマイクに口を近づけ、音割れも気にせずに叫ぶ。
「たった今、俺は親友を殺してきた! お前らが選んだ指導者は脳天を撃ちぬかれてお陀仏だ」
カメラが依然作動していることを確認し、言葉を続ける。
今頃タカ派議員達はほくそ笑んで軍部に連絡し、行動を起こし始めているだろう。同様に、俺が情報を横流ししたテロ組織どもも、さぞかし悪辣な破壊工作を開始するに違いない。それでいい。何もかもぶっ壊すには、そのくらいしなければならない。
「以前、表通りで起きた事故で俺の妻が死んだ。一緒に誰かが亡くなったという遺族どももたくさんいらっしゃることだろう!」
SPどもが駆け込んできた。仕方ない。さっさと仕上げに取り掛かろう。俺は手の中の黒い最終スイッチを持ち上げ、自分のこめかみに突きつけた。
「あれは事故だ、起きるべくして起きた事故だ。誰が悪いわけではなく、何か一つが原因というわけでもない!」
カメラを見据え、なおも叫ぶ。
「だが誰も無実ではない。いうなればこの国全てに原因がある。だから全部まっ平らにして作りなおすことにした。死ぬ奴も出るだろうが、まあ、連帯責任だ」
自然と笑みが浮かんだ。引き金にかけた指に力を込め、最後に一言。
「ざまあみろ」
そして俺は、この国の人間ども、ひいてはヤツらによって構築されたすべてのシステム同様、原因の一翼を担う自分自身をぶっ殺してやった。
もう事故は起きまい。次の国は、きっとうまくやってくれるだろう。