ヒーローの心がヒロインに移ったので目の前で庇って死んで永遠の傷痕になろうとしたら、死に損ねて最悪の呪いになりました
※ハッピーエンドではありません。結末にご注意ください。
この世界のシナリオを知っているはずの私が、どうしても計算に入れられなかったもの。それは、画面越しではなく現実の温度を持って目の前に立つ彼の瞳が、いつからか私ではなく彼女ばかりを追いかけるようになるスピードだった。
「おい、さっさと歩かねぇと置いていくぞ」
口調こそいつも通り乱暴でぶっきらぼうなのに、その歩幅は明らかに彼女の速さに合わせて緩められている。夕闇が迫る街角、少し先を歩く彼女の背中に向けられた彼の視線には、彼自身すらまだ無自覚な熱と仄かな執着が宿っていた。
転生者としてこの世界に降り立った時、私はただの観察者でいるつもりだった。この世界の「主人公」である彼女と、彼女を取り巻く物語。けれど、実際に彼と出会い、その不器用な優しさや情に厚い素顔に触れるうちに、私の胸には膨らんではいけない感情が芽生えてしまっていた。
「……何ボーッとしてんだよ、あんたも早く来い」
ふと立ち止まった彼が振り返り、眉をひそめて私を呼ぶ。その声に一瞬だけ跳ねた心臓を誤魔化すように、私は「はいはい」と苦笑いを浮かべて二人の元へ駆け寄った。
けれど、彼の視線はすぐに彼女へと戻ってしまう。彼女がふとした仕草を見せるたび、彼の瞳がわずかに揺れ、その口元が照れ隠しのように硬くなる。その誰も踏み込めない二人の空気感を見るたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛む。私がどれだけ彼の傍にいても、彼を真の意味で惹きつけ、その心を揺さぶるのは主人公である彼女なのだと思い知らされる。
彼の気持ちが彼女に向かっていくのを、誰よりも早く、そして誰よりも近くで察してしまうのは、転生者としての悲しい特権だった。
「……ずるいな」
夕風にかき消されるほど小さな呟きは、当然誰の耳にも届かない。彼が彼女に魅せられていくその瞬間を一番近くで見つめながら、私は今日も溢れそうな恋心を静かに胸の奥へ押し込め、二人の歩む影を後ろから追いかけ続ける。
◇
「ずっと、好きだった」
その言葉をもらい、彼の恋人になれた日は、世界で一番幸せだった。不器用な手が私の髪を撫で、乱暴な口づけの後に少し照れたように笑う彼。彼の温度を独占できる時間は、まるで夢のようだった。
「恋人」という特別な立場にいたからこそ、その変化は耐え難いほどの拷問だった。かつては私だけに向けられていた熱い視線が、ふとした瞬間に彼女へと注がれる。手を繋いで歩いていても、彼の意識はどこか遠く、私の隣で彼女の背中を追っていた。
私に触れる手が、どこか気遣いや義務感を含み始めた時の絶望を、彼自身は気づいていない。「恋人」として隣にいるのに、彼の心から私のかたちが消えていく。問い詰めることすらできず、冷えていく体温を抱えながらただ耐えていた。
そして、残酷な運命の瞬間が訪れる。
戦場に響く爆音。倒れた彼女の胸元へ、強大な敵の爪牙が振り下ろされる。
「死なせる、かよ——っ!!」
彼の悲痛な叫び。私を抱きしめてくれた腕が、その足が、彼女のもとへ向かって地を蹴る。けれど、距離が遠すぎる。絶対に間に合わない。
(ああ、やっぱりあなたは、彼女のために走るんだね)
恋人としての惨めな嫉妬も、諦めも、すべてがすっと冷えて消えていった。彼が愛する人を失って絶望する姿なんて、見たくなかった。
気づけば身体が動いていた。彼女の前に割り込み、彼女を覆うようにして倒れ込む。背中を貫く灼熱の痛みに、視界が真っ赤に染まった。
「……なっ、おい……何やってんだあんた……っ!?」
目の前で崩れ落ちる私を狂ったように抱き寄せる。「なんで……なんでお前が!!」と叫ぶ彼の声は激しく震え、無骨な手は私の血で赤く染まっていく。
「……ねえ」
血を吐きながら、私はかすかに微笑んだ。彼の指から、私の指をそっとほどく。もう私を縛る「恋人」という虚しい鎖はいらない。彼の瞳からぼろぼろとこぼれ落ちる涙を、私は震える手で拭った。
「私を……好きになってくれて、ありがとう」
私がいなくなれば、あなたはもう自分を偽らなくていい。罪悪感も恋心の迷いも、全部私が持っていってあげる。
「これからは、本当の気持ちを大切にしてね」
「頼む、目を開けろ!何をいってんだ!? 居なくなるな!!」と絶叫する彼の声を遠くに聴きながら、私はゆっくりと目を閉じた。恋人としての甘い記憶と、最後にもらえた彼の涙を胸に抱いて。
◇
まぶしい真っ白な天井と、機械の無機質な重低音。目を覚ました瞬間に襲ってきたのは、身体を刺す激痛よりも、「生き残ってしまった」という絶望だった。
死ぬつもりだった。彼が彼女を愛していると知ったから、彼らの目の前で命を捨てて、彼の心に永遠の傷痕として残りたかった。それなのに、私を死なせてくれなかった。傷口は縫い合わされ、生きている証拠のように脈打つ心臓が恨めしい。
「……起きたのか……! よかった、本当に……っ」
病室のドアが開き、青ざめた顔の彼が駆け寄ってくる。その瞳には、私の一命を取り留めたことへの安堵と、ボロボロの涙が浮かんでいた。
けれど、私の胸を満たしたのは愛おしさではなく、冷え切った憎悪だった。
「来ないで」
低い声で言い放つと、彼の足がピタリと止まる。
「おい、何を言って……」
「来ないでって言ってるの! 二度と私の前に顔を見せないで!」
ベッドの上で身体を起こし、傷口が裂けるような痛みも無視して、私は彼を強く睨みつけた。
視界がにじむ。
私は優しい女なんかじゃない。正義感で彼女を庇ったわけでもない。彼が彼女を選ぶのが耐えられなくて、二人を永遠に罪悪感で縛りつけるために死のうとした、最低で悪い子だ。
それなのに、生きてしまった。
「私ね、あの子を助けたくて庇ったんじゃないよ。あなたが彼女ばかり見るから……私を捨ててあの子を選ぶくらいなら、目の前で死んでやりたかっただけ」
絞り出すような私の言葉に、彼が息を飲み、血の気を引かせて固まる。
「でも死ねなかった。生き残っちゃったの。……だから、もう二度と私に会いに来ないで。これ以上あなたの顔を見たら、あの時ちゃんと死ねばよかったって、あなたを……、死ぬほど恨んじゃうから」
愛しているからこそ、その愛が憎しみに変わってしまう前に。残された僅かなプライドと絶絶の果てに、私は彼との関係を自分から断ち切った。
彼は何かを言いかけ、伸ばしかけた手を虚しく空中にとどめたまま、二度と埋まらない絶望の表情で崩れた。私はもう彼を見ることなく、ただ冷たい窓の外へと視線を投げ打った。
◇
戦いが終わり、街に穏やかな時間が戻っても、あの日、体温が失われたかけた路地裏で、何かが止まったままだった。
「行こう?」
隣で彼女が声をかけ、彼の袖をそっと引っ張る。以前なら胸を揺らしたはずのその仕草にも、今の彼の心は微動だにしない。それどころか、触れられた袖口に冷や汗が滲み、無意識に一歩引き下がってしまう。
(……俺の彼女は、あんただろ)
冷たくなっていく体を抱きしめ、喉を引きちぎらんばかりに叫んだ自分の声。それが昼夜を問わず、裏でリフレインし続けている。
「恋人」として隣に置きながら、その視線を彼女へと彷徨わせていた己の醜さ。逃げ道を与えることもなく、「恋人」という鎖で縛りつけたまま身代わりにして死を選ばせた愚かさ。
「……あぁ、先に行ってろ」
生返事をしながら、彼は胸元をぎゅっと強く掴みしめる。息が詰まるほど胸が痛い。
力ない口からこぼれた「本当の気持ちを大切にしてね」という優しすぎる愛は、遺言のつもりだったのだろう。それに従おうとすればするほど、あの叫び声が鋭利な刃となって彼の心臓を深々と突き刺すのだ。
お前が一番愛するべきだったのは誰だ?
お前が手放してはならなかった『彼女』は、誰だったんだ?
その刃は容赦なく彼を刻みつけ、彼女へ手を伸ばすことも、誰かと幸せになることも許さない。彼女がどれほど健気に寄り添おうとも、彼の瞳に映るのは、自分の血で赤く染まったあの指先と、悲しいほど綺麗な病室での泣き顔だけだった。
「あんたの言う通りにしたぜ……でもよ、俺の『本当の気持ち』は、もう誰にも渡せねぇんだよ」
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