ライバル出現
疲労困憊の身体に鞭打ち、僕は淡路島に向かった。東京駅で新幹線のチケットを購入して乗り込んだ際の記憶がきれいに飛んでいる。指定席にシートにおさまると、新神戸駅で到着するまでの2時間40分、僕は泥のように眠った。たとえ脱線しても目を覚まさなかったかもしれない。
淡路島行きのバスに乗りかえる際にサウナ風呂のような蒸し暑さに包まれても、せっかちな乗客に押されたりバッグをぶつけられたりしても、今なら腹も立たない。もうすぐ可愛い姪っ子に会うことができるのだ。大抵のことなら笑って許すことができる。今の僕は世界一の博愛主義者だった。
ああ、それなのに、実家のドアを開けた時、そこに期待していた笑顔はなかった。出迎えてくれるはずのあっちゃんはいなかったのだ。
「何や、あんたかいな」母は怪訝な顔つきで言った。「びっくりするやないの。早く帰ってくるなら帰ってくるで、電話しぃな」
「仕事が忙しすぎて、電話をする暇がなかったんだよ」
「食べてきたんか? あんたの食事は用意してへんで」
母の小言を聞き流しつつ、僕はコップの麦茶を飲みながら、家の中を見て回った。ついでに和室にある父の仏壇にも手を合わす。だが、どこにも、あっちゃんの姿はいない。
「母さん、あっちゃんは?」
「はぁ、あっちゃん? 何で? 今日は来てへんで」
「何で?」
「何でって、あの子は保育園やんか。平日はいろいろと忙しいし、ここに来るんは土曜か日曜ぐらいやで」
「少し前までは毎日、ここに来ていたのに?」
「あれは特別やろ。父さんを亡くしたばかりで、あんたら二人が心配して来てくれたからやんか」
あの頃、僕と妹は母のことが心配だった。母は長い間、父に依存しきっていた。何もかも父に頼りきっていたので、喪失感は計り知れなかったはずだ。また、母の言う通り、ここは僕の実家であって、あっちゃんの家ではない。彼女の暮らしているのは、近所にある妹の家である。
「まぁ、ええわ。あとで電話して、あっちゃんと遊ぶ約束をする」
「どうやろ、あっちゃん、来るかな? 最近、友達がいっぱいできて、保育園に行くのが楽しいみたいやで。あの子はあんたと違って、人見知りやないからな。いつも明るく元気な人気者やで」
嫌なことを思い出させる母だ。僕は集団生活が大嫌いな子供だった。幼稚園では「帰るんやーっ」とか「眠いんやーっ」とか喚き散らして、母と先生方を困らせたものである。
ともあれ、あっちゃんが人気者なのは納得だ。あのキュートな笑顔は、そこらのアイドルなど裸足で逃げ出すような愛らしさなのだから。
さらに、母は気になることを言った。
「そういや、好きな男の子ができたらしいで。年長さんで、〈たっくん〉やったかな」
一瞬、意味がわからなかった。え、好きな男の子? 誰が好きなの? まさか、あっちゃんが? その年長さんを?
突然のライバル出現だった。考えてみれば当然である。あっちゃんの魅力に気付かない男など一人もいないはずだから。僕は見知らぬ〈たっくん〉に、メラメラと対抗意識を燃やすのだった。
できるだけ早く、あっちゃんに会わなくてはならない。そう思った僕はシャワーを浴びて頭を冷やしてから、妹の家に電話をかけた。帰郷した旨を伝えて、早々にあっちゃんに替わってもらう。
「おじちゃんか?」と、あっちゃんは言った。
「ああ、おじちゃんや。久しぶりやな、あっちゃん」
「うん、久しぶりやな。それで、おじちゃん、何か用なんか?」
思わず絶句した。予想外の塩対応だったからだ。それでも何とか持ち直して、
「かわいい姪っ子に会うのに、用事なんかいるかいな。明日、一緒に遊ぼうや」
「えーっ、困ったなぁ。あっちゃん、明日いそがしいねん。遊ぶ約束しているからなぁ」
「何でやねん。おじちゃんは時間をかけて、東京から来たんやで。友達となんか、いつでも遊べるやないか」
「でもなぁ、約束してもうたからなぁ」
「そや、あっちゃんへのお土産もあるねんで」
「へぇ、お土産って何やのん?」
「それは電話では言えんな。あっちゃんと会うまでの秘密や」
すると驚いたことに、あっちゃんが溜め息を吐いたのだ。「はぁーっ」という大きな溜め息だ。まるで、この男は何てアホなんやろ。お土産で私が釣れると思ってんのか。甘く見られたもんやな。そんな風に言われた気がした。
「どうしようかなぁ。あっちゃん、迷うなぁ」
あっちゃんは五歳にして、男心を弄ぶ風格を身に着けたらしい。しもべである僕を手のひらでコロコロ転がして、電話の向こうで悪女の微笑を浮かべているのかもしれない。まぁ、もちろん、僕の妄想にすぎないんだけど。




