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淡路島の洲本市は古くから政治・経済の中心であり、島の中核を担っている。洲本バスセンターは路線バスの起点でもある。ちなみに淡路島に電車は走っていない。かつては淡路交通鉄道が走っていたが、車社会になったことによって1966年に全線が廃止されている
私は自転車通学をしているのが、雨の日には路線バスを使う。放課後、本屋に立ち寄ってから、停留所のベンチでバスの到着を待っていた。時間つぶしにスマホを取り出そうとした時、唐突に声をかけられた。
「すいません、お嬢さん。つかぬことをうかがいますが」
顔を上げると、銀髪の男性が素敵な笑顔をうかべていた。アラフォーの母と同世代に見えるけど、お腹は少しも出ていないし、背筋がピンと伸びている。ストライプの麻のジャケットにスカイブルーのチノパン。足元を見れば、ウイングチップの革靴。首元にさりげなくチーフを巻いている。
なかなかダンディなおじさまだ。まさかナンパだろうか。わたしは少しだけ警戒する。
「そちらの手提げ袋なのですが……」おじさまは私が傍らに置いた、手提げ袋を指差した。「もしかすると、水乃屋さんの袋ではないでしょうか?」
「ミズノヤさん、ですか?」私は小首を傾げる。
水車小屋が切り絵風に描かれている手提げ袋だが、店名は印刷されていない。
「はい、高級果実の専門店ですよ。ほら、近くの商店街にも以前、出店していました。淡路島に来たのは久し振りなのですが、今もお店はあるのでしょうか?」
どうやら、私がそこで買い物をしてきた、と思われたらしい。母の勤務先だったので、水乃屋には小さいころ何度か訪れたことがある。
「ああ、ありましたね。いつも店頭で、パッションフルーツとか、南国風の果物のいい匂いがしていましたっけ。よく覚えています」
「はい、仕事で何度もうかがいましたが、僕はあのお店の香りが大好きでした」
素敵な笑顔を浮かべたおじさまに、ドキっとしてしまう。
「ですが、すいません」私は少し困った顔になる。「水乃屋さんはお店を畳みました。今は別のお店が入っているみたいです」
「そうですか、残念ですね。でも、そうすると、あなたがお持ちのその手提げ袋は?」
「ああ、これは以前、母がとっておいたものなんです」
「なるほど、そうでしたか。これは僕の早とちりでしたね」おじさまは照れくさそうに頭をかく。「四半世紀ぶりに、懐かしいデザインを見て、つい声をかけてしまいました」
四半世紀というと、25年ぶりか。私は影も形もなかった頃の話だ。本当なら、ここで会話を打ち切ってもよかった。でも、好奇心が顔をもたげて、私はおじさまに訊ねてしまう。
「あの、懐かしいというのは、何か大事な思い出がおありなんですか?」
おじさまは照れくさそうに微笑んだ。
「ええ、実はそのグラフィックデザインは、僕が手掛けたものなんですよ。初めて受注して形になった仕事でした。大学を出たばかりで、駆け出しの頃のことです」
「へぇ、そうなんですか」改めて、手提げ袋を見つめる。「素朴でかわいらしいデザインですね」
「ありがとうございます」
「ということは、水乃屋さんとは、何度も打ち合わせをされたわけですね」
「ええ、そうですね。完成形に至るまで、十数回ほどでしょうか。僕が未熟なせいもあって、先方には御迷惑をおかけしました」
いえいえ、そんなことはありません。私は心の中で呟く。本当にすいません。その担当者は実は、私の母なんです。若かりし頃の母には、こっそり憧れていた片思いの相手がいた。本人の名誉のために言っておくと、今は亡き父と出会う前の話である。
母は当時、ハンサムなデザイナーさんに会いたいがために、デザインになかなかOKを出さずに、何度も足を運んでもらったのだ。その折りは母が御迷惑をおかけしました。私は心の中で、おじさまに頭を下げる。
それにしても、母親の片想いの相手と会って、こうして言葉を交わしているなんて、不思議な感じがする。あたりさわりのない話をしながら、このことを母にどう伝えるか、考えていた。そこで、おじさまに訊いてみた。
「あの、水乃屋さんの担当窓口の方を覚えておられますか?」
「ええ、覚えていますよ。顎鬚を蓄えた年配の店長さんです。デザインにはこだわりがあって、粘り強い方でした」
「あれ、男性の方ですか? 女性の方ではなくて」
「ええ、随分前の話ですが、そうだったと思いますよ」
ああ、そうなんだ。何度も打ち合わせをした母は、すでに忘却の彼方というわけか。まぁ、片思いの相手というものは、そういうものかもしれない。
それとも、母が嘘をついたとは思わないが、こうありたいという願望を何度も思い描いていて、それが真実だと思い込んでしまったのか。
おじさまの記憶違い、という可能性も考えられるけど、それはそれで母にとっては、忘却の彼方と同じくらい気の毒な話だ。
おじさまは今でも魅力的だし、充分かっこいいと思う。もし、おじさまが現在独身で、私のことを本気で想ってくれるのなら、お付き合いをしてもいいかもしれない。ただ、私と母が同じ好みであるということは、いささか妙な気分だ。
あの母と三角関係を繰り広げるなんて、出来の悪いコメディとしか思えない。考えただけでゾッとする。おじさまの薬指にリングはないが、くだらない妄想は打ち切ることにしよう。
おじさまは到着した路線バスに乗り込むようだ。私は次のバスを待っていることを伝えて、おじさまを見送ることにした。
「では、失礼します。お嬢さんとお話ができてよかったですよ」
おじさまは会釈をして立ち去っていく。その後ろ姿をスマホでこっそり盗み撮りをした。
私のイケメンフォルダーには、ざっと数えただけでも、50人分が保存されている。街角で見かけた男性も含めて、それぞれに思い出がある。何度も整理しようとしたけれど、結局一つも捨てられず、必然的に溜めこんでしまう。
ふと、これは母譲りなのかなと思いつく。
やはり、おじさまのことは母に伝えないでおこう。私は嘘を吐くのが苦手なので、つい口をすべらせるかもしれない。母の思い出を守るためには、何も言わないのが無難である。
ただ、良心が痛むので、母の好きなスイーツでも買っていこうか。確か、近くの商店街に美味しいケーキ屋があったはずだ。食後のデザートにフルーツケーキはどうだろう。母がスイーツを食べるときの笑顔を思い浮かべながら、私は歩きはじめた。




