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深淵の覇主  作者: aaaa


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第0章 最後の夜

黒瀬凪は画面を睨みながら、缶ビールを傾けた。


四本目だった。空き缶がデスクの端に並んでいる。テイクアウトの弁当箱は半分しか食べていない——鶏の唐揚げ定食、冷えて久しい。食欲より設計欲が勝った結果だった。


画面には、ダンジョンのマップが広がっていた。


『CRYPTHOLD』——発売から六年、過去四周、総プレイ時間一千二百時間超。マイナーな欧米産ダンジョン経営ストラテジーゲームで、日本語ローカライズはなく、PCゲーム配信サービスのレビューは「非常に好評」、ただし評価数はわずか三百件足らず。知る人ぞ知る——という言葉がこれほど似合うゲームを、凪は他に知らなかった。


「ここを迂回路にするか」


独り言だった。返事をする人間はいない。一人暮らしの1LDK、同僚も友人も今頃は寝ている時間だ。


画面の中で、石造りの廊下が交差していた。入口から核のある最奥部まで、凪は六層の防衛網を組んでいた。各層に罠と番兵の組み合わせ、逃走経路を塞ぐ一方向弁構造、MPを消耗させてから物理戦闘に誘い込む流れ——これを組み上げるのに三時間かかっていた。


プレイヤーの中には「強いモンスターを大量に配置すれば勝てる」という考え方の者もいる。凪はそれを効率が悪いと思っていた。強さは数ではなく構造の問題だ。罠一つで三体分の働きをさせる設計こそが正解で、総コストを抑えながら撃退率を上げることが本質だった。


ゲームの話だった。


今のところは。


---


凪がこのゲームを始めたのは大学一年のときで、当時は純粋に「シミュレーションゲームが好きだから」という理由だった。


それが今では職業的な関心と重なっていた。ソフトウェアデベロッパーとして五年働く中で、凪が好んで関わったのは設計の仕事だった。アーキテクチャの構築、ボトルネックの特定、リソース最適化——ゲームでやっていることと、コードでやっていることの間に、本質的な違いはないと思っていた。


制約条件の中で最善解を見つける。


それだけだ。


缶ビールが空になった。五本目を開ける気力を測り、デスクの脇の段ボール箱に手を伸ばした。残り二本。


「ちょうどいい」


今夜は六本で終わりにする。そう決めていた。明日は十時に定例ミーティングがある。二日酔いで参加したのは先月で懲りていた。


五本目を開けてひと口飲んだとき、画面に変化があった。


小さな変化だった。


核のアイコンが、一瞬だけ輝いた。


ゲーム内で「核」のアイコンが光るのは特定のイベントフラグが立ったときだが、今は何もしていない。凪の手はマウスの上に乗っているだけで、特定のコマンドは実行していない。


「バグか」


ログウィンドウを確認した。エラーは出ていない。通常通りのテキストが流れている。


凪は肩をすくめた。


まあいい。クリティカルでないバグは無視する。これはゲームの鉄則だ。


---


問題のツールチップが出たのは、それから十五分後だった。


核のアイコンにマウスカーソルを重ねると、通常は「DUNGEON CORE: HP 100/100」と表示される。それだけだ。何の変哲もない。


しかしその夜、表示されたのは違うテキストだった。


```

DUNGEON CORE: SEARCHING

候補評価:進行中

INT適性:AA

戦略評価:S

倫理係数:調整可能範囲内

推定移送成功率:94.7%

```


凪はテキストを三回読んだ。


「何だこれ」


英語と日本語が混在している。このゲームに日本語テキストは存在しない。そもそも「移送」という概念がゲームのどこにも実装されていない——六年間プレイして一度も見たことがない。


Modか? 凪はModを一切導入していない。バニラ環境でのプレイにこだわっていた。ゲームファイルの改竄は設計の邪魔になる。


スクリーンショットを撮っておくか、とマウスを動かした瞬間、ツールチップは消えた。


カーソルを核のアイコンに戻す。


```

DUNGEON CORE: HP 100/100

```


通常の表示だった。


「……酔ってるな」


凪は缶ビールを持ち上げ、少し考えてから飲んだ。五本目が半分を超えていた。アルコールが判断に影響している可能性はある。見間違いという結論は妥当だ。


ゲームを再開した。


---


午前三時四十分。


六本目の缶ビールを開けながら、凪は防衛設計の最終調整をしていた。入口から核まで十二の罠、四層の番兵、脱出経路を絶つ一方通行ゲートが三箇所。攻略難易度は最高設定で、テストプレイを三回して侵入者を全員撃退することを確認した。


完璧だった。


仕事ならとっくに寝ている時間だが、こういう「完成」の瞬間は特別だった。積み上げたものが機能する感触——凪が数少ない満足感を覚える瞬間の一つだった。


もう一周回してみようかと思ったとき、画面全体が暗転した。


電源が落ちたわけではない。モニターの電源ランプは点いている。PCファンも回っている。ただ、画面だけが黒くなった。


凪はキーボードを叩いた。反応がない。マウスを動かした。カーソルさえ表示されない。


「フリーズか」


強制終了のショートカットに手を伸ばした——その瞬間、画面に文字が浮かんだ。


```

選定完了。

移送を開始します。

```


日本語だった。


凪は一瞬、その文字を見た。


見た、というより——確認した。


```

推定適合度:最上位

INT 45 / LUK 15 確認

倫理係数:軽度調整で運用可

前世スキル転用:承認

```


「これは——」


何か言おうとした。


言えなかった。


缶ビールを持った右手が止まった。


止まった、というより——止められた。体が動かない。意識は明瞭なのに、指一本動かせない。まるでゲームの一時停止画面に自分が放り込まれたような、奇妙な静止感があった。


画面の文字が続いた。


```

※ 本プロセスへの同意は不要です。

最適候補の確保を優先します。

```


ああ、と凪は思った。


言語化する時間はなかった。思考の断片だけが残った——バグじゃなかった、最初から。そういえば「移送成功率94.7%」と書いてあった。残り5.3%はどうなるんだろう。


それが最後の思考だった。


室内の空気が変わった。


変わった、という感覚さえ一瞬で——消えた。


---


部屋に残ったのは、静寂だった。


モニターの画面には『CRYPTHOLD』が起動したままだった。凪の操作していたダンジョンマップが表示されている。核のアイコンだけが、さっきより少し暗くなっていた。まるで電源が落ちかけているように。


デスクの上に缶ビールが残っていた。六本目、半分まで飲んだもの。


持つ手がなくなったそれは、ゆっくりと傾いた。


コポコポと音を立てながら、缶が転がり、テーブルの端へ向かった。テーブルの縁を超えて宙に浮き、床に落ちて乾いた音を立てた。ビールが細い筋になって流れていく。


誰も拾わなかった。


スマートフォンの画面が光った。


通知だった。


会社の同僚——田村というエンジニア——からのSNSメッセージ。「明日のミーティング資料、凪さんのとこに届いてますか? 共有リンクが見当たらなくて」


既読にならなかった。


部屋は静かだった。PCのファンが低く唸り続けていた。冷えた唐揚げ定食が、テーブルの上で朝を待っていた。


ゲームの画面の中で、ダンジョンだけが続いていた。


凪の操作したダンジョンが、凪のいない部屋で、静かに動いていた。

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