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婚約オペラは未婚のまま

作者: すじお
掲載日:2025/10/15

 私は、ただ王国第一王子アルディス殿下に恋をしていただけだった。

 幼いころから遠くで憧れ、声を交わすだけで胸が熱くなった。 


 けれど、平民上がりの私には決して許されぬ夢だとわかっていた。

 それでも殿下は、時折優しく微笑んでくださった。

 春の庭園で「君の瞳は音楽のようだ」と言ってくださったことを、今も忘れられない。


 ——だから、あの夜のことを信じたかった。


 酒に酔った殿下が私を抱きしめ、押し倒した夜。

 その腕の力強さを「愛」だと錯覚した。

 しかし、翌朝、彼は何もなかったように衣を正し、こう言った。


 「身分が違う。正式な婚姻などできぬ」


 それが答えだった。

 私は“王の慰み者”として生きていくしかなかった。




 そんな私を救ってくれたのは、従姉妹のセリアだった。



 彼女は王都で名を馳せる若き音楽家で、強く、美しく、そして誰よりも正直だった。


 「あなたの想いを、音にしよう」



 そう言って彼女が書き上げたのが、オペラ《婚約の花冠》だった。


 貴族令嬢と王子の禁じられた恋、身分を超えて結ばれるという幻想的な物語。

 まるで、私とアルディス殿下の恋をなぞるような旋律。


 ——だが、その物語の結末だけは、違っていた。


 オペラでは王子が、身分の壁を壊して愛を貫く。

 けれど、現実の王子は、沈黙したまま私以外の令嬢と恋仲になり、どこかへ去った。




 半年が過ぎ、《婚約の花冠》は王都で大人気の演目となった。

 街中で人々がその旋律を口ずさみ、子どもたちまで「花冠の姫」を真似して遊んでいた。


 「これで、あなたの想いは報われたようなものよ」


 セリアはそう言って微笑んだが、私は笑えなかった。



 私は花冠の姫ではない。

 身分のために愛されず、ただの影として捨てられた女。


 舞台で、俳優が王子役に抱かれて泣くたび、胸の奥がきしんだ。



 そして、婚約前夜。

 王城の鐘が鳴るころ、急報が入った。


 ——第一王子、婚約前日に逃亡。



 婚約者の第二公爵令嬢を残し、護衛も連れずに姿を消したという。


 王都は混乱に包まれ、祝宴の準備もすべて中止。

 翌朝には、街中の劇場から《婚約の花冠》の上演がすべて取りやめになった。


 セリアは舞台裏で譜面を抱きしめ、泣いていた。


 「半年かけて作り上げたのに……誰のための音楽だったのかしら」




 殿下は戻らなかった。

 けれど、あの舞台の旋律は、今も人々の記憶に残っている。


 “花冠の姫は、誰にも愛されなくても歌い続けた”


 そう、彼女は私だったのだ。

 そして私は今、セリアと共に新しいオペラを作っている。

 


 殿下が逃げた後、傷付いた私に爵位のない騎士が近づいてきた。彼はいつも黒い甲冑の鎧を身につけていた。

 私は最初、彼の無骨な容姿に嫌悪感すら抱いたが、実際は知性的で家庭的な面があると知った。

 昔読んだことがある本が同じだった。些細な積み重ねが親近感を呼んだ。

 

ーーもしも彼と一緒になることができたら。

  意外なところで気が合う彼と一緒になれたら。

 


 でも、私はもう殿下との一件でまともに相手にされないだろう。


 騙していたのは殿下だ。  


 後から、明らかになったことがいくつかあった。

 最初から一緒になると言ってくれないのは、殿下に想う他人がいたこと。

 そして、あの日の紅茶には強力な睡眠薬が混ぜられていて、私は半分寝ぼけ眼のまま抵抗もできずに関係を持たされていたのだ。

 頑なに先に結婚の約束がないことを理由に関係も拒んでいたが、あの日に殿下は強硬手段に出ていた。

 だから、私には落ち度はなかったと証明された。


 だからといって、噂がなくなるわけではない。

 自分がスキャンダルの渦中にいるのは知っている。


 セリアがまた、私の恋を応援すると言って曲を書いてくれていた。いくつかの案を見せられたが、私は殿下からの裏切りが忘れられず、ついかっとなって楽譜を破いてしまった。


「セリア…ごめん…」


 セリアもまた傷ついて、出ていった。

 セリアの楽譜を繋ぎ合わせると、騎士の甲冑の色である黒と、私の色である白が混ざり合うという曲だった。


「素敵な歌を作ってくれたのに……」


 私はあれ以来、情緒が不安定だ。

 それでもふとした時に、いつも黒い甲冑の騎士のことを考えていた。


 ある夜、騎士が私の家を訪れた。急用だという。


「私はあなたと子供を持ちたい」

 

 性急な顔をして騎士は言った。

 普通の令嬢ならば、憲兵を呼ぶだろう。

 でも私はもう違っていた。


「私は傷ものですが、あなたと家庭を持ちたい」

 

 結婚はもはや期待していなかった。だから、生涯一人でいることを覚悟した。

 それならばせめて、騎士の子を育てよう。

 


 一晩の契りだった。

 騎士は帰っていった。



 それからしばらくして、騎士は外国へ行ったと聞いた。

 殿下のように最初から私を愛人にするつもりだったのかはわからない。だが、すでに外国への武官派遣が決まっていたのだ。

 きっとまたこの恋も殿下の時のように騙されて、破られて終わるのだと思っていた。


 でも、騎士は言った。


「必ず戻ってきます」


 五年は待たないとだけ告げた。

 

 今は一月ごとに暦を数え、お腹に手を充てる日々だ。


 あの後、セリアに謝罪して仲直りをし、今ではまたお茶を飲む仲になった。

 セリアは再び新しい曲を作ってくれた。


 題名は《逃げた男と、残された花》——。



「…せめて、私がおばあさんになる前に帰ってきて欲しいわ」


 全く期待していない愛。

 彼が任地で死んだらそれで終わりの愛。


 それでも、お腹に感じる胎動が日々の光だった。

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