4話 ひとりぼっちのバンド
お久しぶりです。しばらく更新できておらずすみません。
今日からまた、新たに更新していきます。
歪んだギターの音は、私の秘密の言葉になった。
聞き分けのいい「いい子」の仮面を被って、リビングのピアノでショパンを弾く。
私の演奏に、ママは満足そうに微笑む。
その中で、私は昨日の夜にヘッドホンの中で鳴らした、荒々しいギターリフの感触を思い出していた。
初めはただ、衝動のままに弦を掻き鳴らしているだけだった。
でも私の指は、ピアノで培われた正確さで、すぐにエレキギターという楽器を理解し始めた。
ネットで見つけた好きなバンドの曲を、耳で聴いて、指で再現する。
その中で、オルタネート練習など基礎練もしていった。
それは私にとって、いまや楽しい音ゲーだった。
練習し始めてすぐに、ギターソロが弾けるようになった。
指板の上を指が動く感覚はピアノとはまた違っていて、どこか直接的な興奮があった。
でも何か月も経つうちに、私はまた新しい渇きを感じ始めていた。
何かが、足りない。
ヘッドホンから流れてくるプロの音源に合わせてギターを弾くと、私の音はパズルの最後のピースみたいに、ぴったりとハマる。
でも音源を止めて自分のギターの音だけで弾いてみると、それは途端に心細く、薄っぺらいものに聞こえた。
私は気づいた。ギターは一人では歌えないんだ、と。
どんな曲にも、必ず土台がある。
心臓の鼓動みたいに、リズムを刻ず「ドラム」と、その心臓とメロディを繋ぐ血管みたいに、低く、太い音で全体を支える「ベース」。
ギターが物語を語る主人公だとしたら、ドラムとベースは、その物語が繰り広げられる世界そのものだ。
世界がなければ、主人公はただ、虚空で踊るしかない。
私は、その「世界」が欲しくなった。
他の誰かが作った世界の上で踊るんじゃなくて、私自身の手で、私だけの世界を創造したくなった。
私の次の探検は、お小遣いを貯めて、中古の「ベース」を手に入れることから始まった。
ギターよりも少しだけ大きくて、長くて、弦は四本しかないのに、一本一本がずっしりと太い。初めてその弦を指で弾いた時、アンプから出てきたのは「音」というより「振動」だった。
ブォン、と空気が揺れて、床が、壁が、そして私の体の中の骨が、微かに震えるのが分かった。
なんて、頼もしい音なんだろう。
ギターみたいに前に出てきて叫んだりはしない。でも、この音がいるだけで、世界がぐっと安定する。この音が、しっかりとした地面になってくれるから、ギターは安心して空を飛べるんだ。
私はすぐにベースの虜になった。ルート音を弾くだけで、曲の印象ががらりと変わる。時にはギターと同じ動きをして力強さを加えたり、時には全く違う動きをして、物語に深みを与えたり。
ベースは、孤独な主人公の、一番の理解者みたいだった。
そして、最後に残った一番大きなパズルのピース。
それはドラムだった。
ドラムは、他の楽器とは全く違った。
場所を取って、そして何より音が大きい。
アコースティックドラムなんて、狭い子供部屋に置けるはずもないし、叩けば一瞬でパパとママに秘密がバレてしまう。
無理だ、と一瞬諦めかけた。
でも私の探求心は、その答えを見つけ出してくれた。
インターネットで、「電子ドラム」という存在を知ったのだ。
ヘッドホンを繋げば、本物のドラムみたいな音がするのに、実際にパッドを叩く音は、クッションを叩くくらいの「ペチペチ」という音しかしない。
これなら私の部屋でも、誰にも気づかれずに心臓の鼓動を鳴らすことができる。
問題は、値段だった。
今まで買ったどの機材よりも高価で、お小遣いやお祝い金を何年も貯めないと、とても手が届かない。
私は、その日から徹底的な倹約家になった。
欲しいおもちゃも、可愛い洋服も、全部我慢した。
ピアノのコンクールでもらった賞金も、すべて貯金箱に入れた。
そして、私が十歳になった年のクリスマス。
私はサンタクロースへのお願いと称して、貯めたすべてのお金をパパに渡し、一緒に楽器屋へ行ってもらった。
「…本当に、これでいいのか? 優奈。ピアノの練習になるようなもののほうが…」
困惑するパパの隣で、私は何度も何度も頷いた。
こうして、私の秘密基地には、ついに最後のパーツが揃った。
黒いパイプに、丸や三角のゴムパッドが取り付けられた電子ドラム。
初めてその椅子に座り、四本のスティック…じゃなくて、両手両足を使って、同時に違うリズムを刻んだ時の衝撃は、今でも忘れられない。
最初は、頭がパニックになった。
右手と左手と、右足と左足が、全部バラバラに動かすということに。
でも練習を繰り返すうちに、脳が新しい言語を覚えるように、四肢の動きが一つにまとまっていくのが分かった。
ドン、タッ、ドド、タッ。
単純な4ビートを、狂いなく永遠に繰り返す。
このリズムこそが、私の世界の時間そのものになるのだ。
そして、私は最後の魔法を手に入れた。
パパが使わなくなった古いパソコンに、「多重録音」ができる無料のソフトをインストールした。
それは、私にとって、神様になるための道具だった。
まず、電子ドラムをピアノ用に使っていたオーディオインターフェイスを通してパソコンに繋ぎ、リズムを録音する。
次に、そのリズムをヘッドホンで聴きながら、ベースを重ねる。
自分の叩いたドラムの音に合わせて、自分の指がベースを弾く。
それは過去の自分と、現在の自分が交わるような不思議な感覚だった。
ドラムという骨格に、ベースという血肉がついていく。
そして、最後にギターの番だ。
バッキングを重ねて、世界の壁と天井を作る。
その上で、自由にリードギターを重ねる。
四つのパート。ドラム、ベース、バッキングギター、リードギター。
そのすべてを、私が一人で演奏した。
すべての録音が終わった後、私は震える指で再生ボタンをクリックした。
ヘッドホンの中で、新たな世界が生まれた。
それは、完璧な世界だった。
狂いなく、すべての音がお互いを理解し合っている。
ドラムの一打一打に、ベースの音が寄り添い、その隙間をギターの音が美しく埋めていく。
誰とも、コミュニケーションを取る必要がない。
誰かに、気を使う必要もない。
誰かを、傷つけたり、傷つけられたりすることもない。
だってこの世界の住人は、たった一人。
私だけなのだから。
それは、私が今までで一番雄弁に話せた、最高の会話だった。
相手は、過去に楽器を演奏した、たくさんの私自身。
こんなに楽しい会話は、生まれて初めてだった。
聞き分けのいいピアニスト、斎藤優奈は、今日はリビングで「月光」を弾く。
中身はない。
意味もない。
ただいい子で、聞き分けのいい子でいるために。
夜になると自分の部屋で、たった一人だけのバンドを従えて、新しい世界を創造する。
そこは誰にも邪魔されない、私だけのライブハウスだった。
音だけで出来たその箱には、たくさんの音が溢れていたけれど、演者もフロアにいる客もたった一人だけだった。




