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3話 反抗のディストーション

金色のトロフィーは、私の部屋の本棚の一番上に飾られた。

私の才能と未来を照らす灯台のように、いつも静かに私を見下ろしていた。


コンクールでの優勝をきっかけに、私の日常はさらにピアノ中心に回るようになった。

ママは熱心に私の練習スケジュールを管理し、パパは「将来は世界的なピアニストだな」と、本気とも冗談ともつかない口調で言った。

二人の期待は日に日に膨れ上がる。

彼らが望む「斎藤優奈」という完璧なピアニストの役に、私を押し込めようとしている。

私はその箱の中で、静かに息を潜めていた。


「次の課題曲はショパンよ。優奈の繊細な指なら、きっと美しく弾きこなせるわ」


「このコンクールで勝てば、もっと有名な先生を紹介してもらえるかもしれない」


ママの言葉は、いつも優しかった。

でもその優しさは、私の首をゆっくりと絞める絹のロープのようにも感じられた。

ショパンの「ノクターン第20番 遺作」は、確かに美しかった。

悲しくて、どうしようもなくロマンチックで。

でもそれはショパンの心であって、私の心じゃない。

私はただ楽譜という設計図をなぞって、他人の感情を再現するだけの精巧な人形に過ぎなかった。

練習すればするほど、指は滑らかに動くようになった。

でも心の奥底にある何かが、少しずつ、確実にすり減っていくのが分かった。

空っぽの音。

完璧で、美しくて、私の心には全く届かない、空っぽの音。

その音を紡ぎ出すたびに、私は言いようのない焦りと、息苦しさを感じていた。


このままじゃ、ダメだ。


このまま綺麗なだけの音を奏でる人形で終わってしまったら、私はいつか壊れてしまう。


反抗のきっかけは、本当に些細なことだった。

ある日の夜、パパがリビングで見ていた音楽番組。

有名なオーケストラの指揮者が、情熱的にタクトを振っている。


「やっぱり、クラシックは素晴らしいな。心が洗われるようだ」


パパはうっとりとそう呟いた。

その時だった。

画面が切り替わり、全く違う音楽が流れ始めた。

それは、轟音だった。

激しく歪んだギターの音、地面を揺らすようなベースの重低音、そして、すべてを叩き壊すかのようなドラムのビート。

黒い革のジャケットを着た男が、髪を振り乱しながら叫ぶように歌っている。

それは、私が今まで「音楽」として認識していたものとは、全く別の生き物だった。

うるさくて、汚くて、暴力的で。

でも、なぜか目が離せなかった。


「なんだこれは、騒々しい」


パパは顔をしかめて、すぐにチャンネルを変えてしまった。

画面はまた、上品なオーケストラの映像に戻る。

でも私の耳の奥には、あの轟音がまだこびりついて離れなかった。

あの、叫び声のようなギターの音。

私がずっと押し殺してきた、声にならない心の叫びにとてもよく似ていた。


次の日から、私は秘密の探検を始めた。

パパの書斎にあるパソコンをこっそり借りて、ヘッドホンをして、昨日のバンドの名前を検索する。

するとそこには、私の知らない広大な世界が広がっていた。

ロック、パンク、メタル、オルタナティブ…。

聞いたこともない言葉が、無数に並んでいる。

私は夢中になって、色々なバンドの曲を聴き漁った。

どのバンドも、ピアノとは全く違った。

そこには、楽譜になんて縛られない、剥き出しの感情があった。

怒り、悲しみ、喜び、絶望。

ぐちゃぐちゃで、整理されていなくて。

でも、だからこそどこか本物だと感じられる、生々しい魂の叫び。

中でも私が一番心を奪われたのは、「エレキギター」という楽器だった。

ピアノが、白と黒の鍵盤を叩いて澄んだ音を出す、優等生だとしたら。

エレキギターは、六本の弦を掻き鳴らして、歪んだ音を吐き出す不良だ。

スイッチ一つで、その音はクリーンな優しい音から、空間を切り裂くような凶暴な音まで、自在に表情を変える。

エフェクターという箱を通せば、泣いているようにも、笑っているようにも、怒っているようにも聞こえる。


なんて、自由なんだろう。

なんて、雄弁なんだろう。


ピアノでは決して表現できなかった、私の心の中にあるどろりとした、言葉にならない感情の塊。

それをこの楽器なら、音にしてくれるかもしれない。

私は取り憑かれたように、エレキギターの動画を見続けた。

指の動きを、何度も何度もスロー再生して食い入るように見つめた。


そして、私の八歳の誕生日。

おじいちゃんやおばあちゃんからもらったお祝い金を全部握りしめて、私は一人で電車に乗って隣町の楽器屋へ向かった。

ママには、「本屋さんに行ってくる」と嘘をついた。

初めてついた、本格的な嘘だった。

心臓が、破裂しそうなくらいドキドキした。

楽器屋のドアを開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴った。

壁一面に、色とりどりのエレキギターが掛けられている。

赤、青、黒、黄。


「いらっしゃい。お嬢ちゃん、一人?」


店員の髪を金髪に染めたお兄さんが、意外そうな顔で私に話しかけてきた。

私は声が震えないように、ゆっくりと頷いた。


「あの…ギターが、欲しいんです」


そこからのことは、あまりよく覚えていない。

お兄さんに予算を伝え、初心者向けのセットを選んでもらったこと。

ヘッドホンアンプ、ヘッドホン、チューナー、弦、ピック、ストラップ。

必要なものが全部入った、黒いソフトケース。

それを買うと、お祝い金はほとんどなくなってしまった。

重たいケースを背負って、家に帰る道。

夕日が私の影を長く、長く伸ばしていた。

背中に感じる、確かな重み。

それは、私の初めての「秘密」の重さだった。


その日から、私の本当の時間は夜中に始まった。

パパとママが寝静まったのを確かめてから、ベッドを抜け出し、部屋の隅に隠しておいたギターケースをそっと開ける。

部屋にあったヘッドホンをして、アンプの小さなスイッチを入れる。

ボリュームは、3の目盛りまで絞って。

ボディを恐る恐る抱え、ピックを握る。

動画で見た通りに、一番太い6弦にピックを当てて、振り下ろした。


ジャーン。


ヘッドホンの中から、音が爆発した。

それは、ピアノの澄んだ音とは似ても似つかない、ざらざらとした、濁った音だった。

でもその音は、私の体の真ん中をまっすぐに貫いた。

弦の振動が、耳とボディを通して、お腹に、胸に、耳に直接伝わってくる。

どくどくと、ギターが脈打っている。

それは私の心臓の音と、ぴったりと重なった。

私はもう一度、弦を掻き鳴らした。

今度は、もっと強く。

ヘッドホンアンプについている、「DISTORTION」と書かれた赤いボタンを押してみる。

そして、弾いた。


ギャアアアアン!!


鼓膜が破れそうなほどの、ノイズの塊。

それはもう、音楽ではなかった。

ただの破壊的な騒音。

でもその瞬間、私は確かに感じた。

ガラスの箱に、ヒビが入る音を。


ああ、これだ。

これだ、私の音は。

綺麗じゃなくていい。正しくなくていい。

誰かに褒められなくたっていい。

ただ、ここに在る、私の感情。


ママの言うことを聞けない、悪い私の気持ち。

パパの期待に応えられない、ダメな私の気持ち。

空っぽの音しか弾けない、ピアニストの私への怒り。

そのすべてがディストーションの歪んだ叫び声になって、ヘッドホンの中で渦を巻いていた。

私は、夢中でギターを掻き鳴らした。

指が痛くなるのも忘れて、ただひたすらに。

それは、反抗の音だった。

世界に対する、そして聞き分けのいい「いい子」を演じている、自分自身に対する初めての反抗。

歪んだ音の向こう側に、ほんの少しだけ、本当の自分が見えたような気がした。

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