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2話 孤独の音

私の最初の友達になったピアノは、私に新しい世界を見せてくれた。と同時に、新しい壁も作った。

ママは、私が和音を感覚で理解したあの日から、私を天才だと信じて疑わなくなった。

すぐに市内で一番月謝の高いピアノ教室に通わされ、高名だという先生を紹介された。

先生は、私の演奏を一度聴いただけで「この子は逸材です」と目を細め、ママは誇らしげに微笑んだ。

パパも、最初は「女の子の習い事」くらいにしか思っていなかったようだけど、先生の言葉と、日に日に上達していく私の腕前を見て、次第に期待を寄せるようになった。


「すごいぞ優奈、もうこんな難しい曲が弾けるのか!」


リビングで練習していると、パパはそう言って、少し不格好な手拍子をくれる。

二人の期待は、私にとってかなり息苦しかった。

私がピアノを好きなのは、誰かに褒められるためじゃない。

ましてや、誰かと競うためでもない。

ただ、私だけの言葉で、私だけの話をするための大切な時間。

それだけなのに、大人はすぐにそれに意味と値段をつけたがった。

「才能」という、きらきらした、居心地の悪い名前をつけて。


そして、ピアノを始めて一年が経った六歳の冬。

私は、最初のコンクールに出ることになった。


会場のホールは、暖房が効きすぎているのか、少し蒸し暑かった。

そして、独特の匂いがする。

それは、人の緊張と期待と、古い椅子の布地が混ざり合った匂いだった。

舞台袖の控え室では、私と同じくらいの歳の子たちが、親に手を引かれて最後の練習に励んでいる。

フリルのついたドレスの子、緊張で顔が真っ青になっている子、小さな指で必死に鍵盤の動きをなぞっている子。

みんな、これから戦場に向かう兵士みたいに見えた。


「優奈、大丈夫? 緊張してない?」


ママが心配そうに私の顔を覗き込む。

私は小さく首を横に振った。


緊張は、していなかった。

怖いとも、楽しみだとも思わなかった。


そこにあったのは、空っぽの感情だけ。

だって私にとってコンクールは、ただの作業でしかなかったから。

今日の課題は、楽譜に書かれた音符を一音も間違えずに、指定された通りの強さと速さで、最初から最後まで並べ替えること。

わかりやすく言えば、精密なプラモデルを設計図通りに組み立てる作業と同じようなものだ。

感情なんて必要ない。

むしろ、邪魔になるだけだ。


「斎藤優奈さん、次です。準備してください」


スタッフの人の声が響く。

ママが私の背中をぽん、と叩いた。


「いつも通りでいいのよ、優奈ならできるわ」


その声には私を信じる気持ちと、絶対に勝ってほしいという願いが、くっきりと滲んでいた。


大きな拍手に迎えられて、舞台の中央へと歩き出す。

眩しい照明が、私の影を床にくっきりと落としていた。

客席は暗くてよく見えないけれど、たくさんの人が息を殺して私を見ているのが肌で分かった。

ピアノの前に座り、深く、一度だけお辞儀をする。

椅子の高さを調整し、鍵盤に指を置く。

しーん、とホールが静まり返る。

咳払い一つ許さないような、張り詰めた沈黙。

私はゆっくりと息を吸い、最初の音を鳴らした。


弾いたのは、モーツァルトのピアノソナタ ハ長調 K.545

明るくて、軽やかで、たくさんの音がキラキラと飛び跳ねるような曲。

私の指は意思とは関係なく、勝手に動いているみたいだった。

練習で、何百回、何千回と繰り返した動き。

指が、筋肉が、この曲のすべてを記憶している。

右手が明るいメロディを歌い、左手がそれを追いかけながら下支えする。

指先から生まれる音は、寸分の狂いもなく、楽譜の指示通りにホールを満たしていく。

速く、強く、そして弱く。

作曲家が、何百年も前にそこに込めたであろう感情の設計図を、私はただなぞっていくだけ。

でもその中に、私の心の音はどこにもいなかった。

頭の中は、真っ白な霧がかかったように静まり返っていた。

自分ではない誰かが、私の体を使ってピアノを弾いているのを、少し離れた場所からぼんやりと眺めているような、幽体離脱しているような感覚だった。


この音は、綺麗だろうか。

この音は、楽しいだろうか。


客席にいる人たちは、この音を聴いて、何を感じているのだろう。

分からない。

私自身が、何も感じていないのだから。

ただ、ミスタッチだけはしないように。

テンポがずれないように。

それだけを考えて、指を動かし続けた。

第3楽章、最後の和音がホールに響き渡る。

私はしばらく鍵盤から指を離さず、その音が完全に消えてなくなるのを待った。

一瞬の静寂。

そして、次の瞬間。

わあ、という地鳴りのような拍手が、客席から押し寄せてきた。

それは、私が今まで聞いたどんな拍手よりも大きくて、熱を帯びていた。

私は椅子から立ち上がり、もう一度、深くお辞儀をした。

顔を上げた時、審査員席の眼鏡をかけたおじいさんが、満足そうに頷いているのが見えた。

ああ、成功したんだ。

作業は、完璧に終わったんだ。

そう思っただけだった。


心は、少しも動かなかった。



結果発表の時、私の名前は一番最後に呼ばれた。


「金賞は、斎藤優奈さん」


アナウンスと同時に、再び大きな拍手が巻き起こる。

ママが隣で「やったわ!」と小さな悲鳴を上げた。

私は促されるままに舞台に上がり、賞状と、大きくて金色に輝くトロフィーを受け取った。

重かった。

ずしりとした金属の重みが、腕に食い込む。


「すごいわ、優奈!」「おめでとう!」「天才少女ね!」


知らない大人たちが、次々に私に声をかけてくる。

パパとママは、満面の笑みで「ありがとうございます」と頭を下げていた。

私は、言われた通りに何度も「ありがとうございます」と繰り返し、カメラに向かって練習した笑顔を作った。

フラッシュが眩しくて、少しだけ涙が出そうになった。


家に帰る車の中、パパとママはずっと興奮した様子で喋り続けていた。


「いやあ、すごかったな!優奈の演奏は、他の子とはレベルが違ったよ!」


「ええ、本当に!あんなに小さな体で、よくあんな力強い音が出せるものだわ。先生も、あの子のタッチは天性だって褒めてくださったのよ」


「次のコンクールは、もっとレベルの高いものに挑戦させよう!」


二人の会話の中心には、いつも私がいた。

でも二人は、私の顔を見てはいなかった。

私の演奏を褒め、私の才能を褒め、私の未来に期待する。

でも私の心の中に、どんな音が響いていたかなんて、誰も聞いてはくれなかった。

私は後部座席で、膝の上に置いたトロフィーをただじっと見つめていた。

金色に輝くそれは、車のライトを反射して、時々鋭い光を放った。

冷たくて、硬くて、何の音も立てない。


これが、私の演奏の結果。

これが、私の才能の証明。


でも、これは私の言葉じゃない。

私はただモーツァルトの言葉を、間違えずに代弁しただけだ。

そこに、私の気持ちは一欠片も入っていないのに。

どうして、みんなこんなに喜んでいるんだろう。

どうして、誰も気づいてくれないんだろう。

この完璧な演奏が、空っぽの音だってことに。


自分の部屋に戻り、トロフィーを勉強机の上に置いた。

金色の女神が、小さな竪琴を抱えている。

部屋の蛍光灯の光を浴びて、きらきらと輝いていた。

綺麗だ、と思った。

でも、それだけ。

私は椅子に座って、それをしばらく眺めていた。


「すごいね」「上手だね」「天才だね」


今日、たくさんの人にもらった言葉が、頭の中でぐるぐると反響する。

でもそのどれもが、私には届いていない。

私は、勝った。

コンクールで、一番になった。

たくさんの人に褒められて、認められた。

なのに、どうしてだろう。

ピアノに初めて触れたあの日よりも、ずっとずっと孤独だった。

あの日、でたらめに鍵盤を叩いて、ぐちゃぐちゃの音を出していた時のほうが、よっぽど世界と繋がっていた気がする。

私はこの金色のトロフィーと、二人きりだった。

それはとても綺麗で、立派で、私が今日弾いたピアノと同じくらい、空っぽに見えた。


金色のトロフィーは、歌わなかった。

それは美しく、私と同じくらい沈黙していた。

天才ゆえの孤独があると、昔友人が言っていた。

すごい、天才、という言葉は、本人にとっては一時の感情の気休めか、それ以下だということ。

そうなると、選ばれるのは何になるのか。

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