1話 最初の音
「さよなら、モノクローム」1話投稿いたします。これに時間がかかっており、なかなか前作の「いつか神様になれたら」の最終話を投稿できておらず、申し訳ありませんでした。
今作品も面白いお話にしますので、お楽しみに。
言葉は、いつも足りない。
ママの「好き」と、私の「好き」は、きっと違う色をしている。
パパの「楽しい」と、私の「楽しい」も、きっと違う形をしている。
思ったことの半分も言えないし、言えたとしても、それは本物じゃない気がした。
私の言葉は、いつも喉の奥のほうで形を変えて、当たり障りのない、まるで味のしないガムみたいなものになって口から出ていく。
「優奈は聞き分けが良くて、いい子ね」
大人はみんなそう言って私の頭を撫でた。
私は曖昧に笑って、また言葉を飲み込む。
そうじゃない、と叫びたい気持ちを、お腹の底のほうに沈めて。
だから、私は今日も鍵盤に触れる。
白と黒の鍵盤だけは、嘘をつかないから。
私の家は、ありふれた建売住宅が並ぶ、関東郊外の住宅街にあった。
小さな庭と、黒い屋根、どこにでもある普通の家。
リビングには、この家には不釣り合いなほど大きな、黒いグランドピアノが置いてあった。
それは、私が生まれる前からそこにあったらしい。
昔、音楽の先生をしていたおばあちゃんの形見なのだと聞いた。
ママも昔は少し弾いていたらしいけれど、私が物心ついた頃には、その黒い巨体の蓋が開けられることはほとんどなかった。
艶のある黒い塗装は、窓から差し込む光を静かに反射して、部屋の景色をぼんやりと映し込んでいる。
大きくて、静かで、何を考えているのか分からない、まるで黒い生き物。
時々、ママが濡れた布でその体を拭いてやる時だけ、息を潜めているのが分かる。
それ以外の時間は、ただひたすらに沈黙を守り続けていた。
私、斎藤優奈は、五歳になっても、その黒い生き物とどう接すればいいのか分からなかった。
パパとママは、私のことを愛してくれている。
それは、たぶん本当だ。
「優奈、見てごらん、綺麗なお花が咲いたよ」
「優奈、今日のご飯は優奈の好きなハンバーグだからね」
二人はいつも、私にたくさんの言葉をくれる。
優しい言葉、正しい言葉、私のためを思う言葉。
でも、その言葉が、私の心まで届くことはあまりなかった。
それはまるで、ガラス窓を隔てて話しかけられているみたいだ。
音だけが聞こえて、本当の温度だけは何も伝わってこない。
私の好きなハンバーグは、本当はケチャップじゃなくてデミグラスソースのほうがいい、なんて言えない。
お庭のお花よりも、道端に咲いている名前も知らない雑草のほうが、雨に濡れてきらきら光っていて綺麗だ、なんて言えない。
そんなことを言ったら、パパとママはきっと、悲しそうな顔をするだろうから。
「どうしてそんなことを言うの?」
そう聞かれたら、私はうまく説明できない。
私の「好き」と、みんなの「好き」が違う理由を、私自身も知らないからだ。
だから私はいつも「うん、ありがとう」と、言って笑う。
上手に笑えているかは分からない。
鏡で練習した笑顔は、なんだか私の顔じゃないみたいに、ひきつって見えた。
その日も、パパとママはリビングでお喋りをしていた。
会社のこと、ご近所さんのこと、今度の週末の予定のこと。
私は少し離れた場所で、絵本を読んでいるふりをしながら、二人の会話を聞いていた。
たくさんの言葉が、意味のある音の塊として空中を飛び交っている。
でも、それは私には関係のない、遠い国の言葉みたいに聞こえた。
ふと視線を上げた先に、黒いピアノがあった。
西日が差し込んで、その巨体の輪郭をオレンジ色に縁取っている。
そしてピアノの周りの空気中を舞う小さな埃が、光の筋の中でキラキラと輝いていた。
私は、吸い寄せられるように、絵本を置いて立ち上がった。
「優奈、どうしたの?」
ママの声が聞こえたけれど、私は返事をしなかった。
なぜか返事ができなかった。
一歩、また一歩と、黒い生き物に近づいていく。
いつもは遠くから眺めているだけの存在。
触れたら、もしかしたら怒られるかもしれない。
そう思うと少し怖かったけれど、それ以上に、知りたいという気持ちが勝っていた。
つやつやとした黒い塗装に、私の小さな姿が映り込む。
おかっぱ頭で、ワンピースを着た、表情の乏しい女の子。
私はおそるおそる、その冷たい体に指先で触れた。
ひんやりとして、硬い。
生き物だと思っていたけれど、やっぱりこれはただの物なのだろうか。
でも指先に伝わる微かな振動が、やっぱりこれが生きているのだと私に告げているような気がした。
「ピアノ、弾いてみたいの?」
優しいママの声に、私はびくりと肩を震わせた。
怒られる、と思った。
勝手に触っちゃいけないものだったんだ。
でも、ママは怒っていなかった。
少しだけ驚いたような、それでいてどこか嬉しそうな顔をしていた。
「そうね、優奈ももう五歳だものね。ちょっとだけ弾いてみる?」
ママはそう言うと、軋む音を立ててピアノの椅子を引いた。
そして、私をひょいと抱き上げると、その椅子の上に座らせてくれた。
足が床につかなくて、ぶらぶらと揺れる。
目の前には、今まで見たこともない景色が広がっていた。
「いい?優奈。これはね、鍵盤っていうのよ」
ママは私の隣に立つと、重たい蓋に手をかけた。ぎぃ、と厳かな音を立てて、黒い蓋が開かれる。
そこに現れたのは、どこまでも続く白と黒の階段だった。
白い鍵盤と、その合間に少しだけ顔を覗かせる黒い鍵盤。
「さあ、押してみてごらん」
ママに促されて、私はごくりと唾を飲んだ。
緊張で指先が少しだけ震える。
どの鍵盤を押せばいいのか分からない。
正しい音はどれ?
間違った音はどれ?
私の頭の中を、不安がぐるぐると渦巻く。
もし、変な音が出たら?
もし、この黒い生き物を怒らせてしまったら?
言葉を選ぶときと、同じだった。
どの言葉が正解で、どの言葉が間違いなのか。
いつも分からなくて、黙り込んでしまう。
「大丈夫よ。どの音も、綺麗な音だから」
ママは私の心を読んだように、そう言って背中を優しく撫でてくれた。
私は意を決して、一番近くにあった白い鍵盤に人差し指を伸ばした。
ぽーん。
リビングに、間の抜けた、けれど澄んだ「ファ」の音が響いた。
その瞬間、私は息を飲んだ。
音が、空気を震わせるのが分かった。
窓ガラスが微かに揺れて、壁に飾られた写真立てがカタカタと鳴った。
音は、ただの音じゃなかった。
それは、目に見えない波になって、私の体に直接ぶつかってきた。
心の奥の一番柔らかい場所に、まっすぐに届いた。
言葉とは、全然違った。
パパやママの言葉は、いつも耳を通って、頭で考えて、それから心に届く。
その途中で、たくさんのものが削げ落ちてしまう。
でも、この音はそんな面倒な手続きを全部すっ飛ばして、いきなり私の心を鷲掴みにしてきた。
私は、夢中になった。
隣の鍵盤、そのまた隣の鍵盤。
指を動かすたびに、違う高さの音が生まれる。
低い音は大きくて、のんびりした動物みたいだった。
高い音は、小さくて、すばしっこい小鳥みたいだった。
私はめちゃくちゃに鍵盤を叩いた。
右手も左手も使って、思いつくままに。
生まれてくる音は、ぐちゃぐちゃの不協和音だったかもしれない。
音楽と呼べるようなものでは、到底なかっただろう。
でも、私にはそれが最高の言葉に聞こえた。
嬉しいとか、悲しいとか、楽しいとか、悔しいとか、今までうまく言葉にできなかった、私の心の中に渦巻いていた、ぐちゃぐちゃの感情。
そのすべてが、音になって溢れ出していく。
誰かに分かってもらおうとしなくてよくて、ただここにある。
私が、ここにいる。
ピアノが、それを許してくれている。
ふと、指が止まった。
三つの白い鍵盤を、同時に押さえていた。
ドと、ミと、ソの音。
それは今まで叩いていためちゃくちゃな音とは違って、不思議なほど綺麗に響き合った。
溶け合った、と言うほうが正しいかもしれない。
三つの違う音が、お互いを邪魔することなく、支え合って一つの美しい塊になっている。
それは、私がずっと探していたものだった。
パパと、ママと、私。
三人でいても、どこかバラバラな感じがしていた。
みんな、違う音を出しているだけだった。
でも、この音は違った。
違うもの同士が一つになって、もっと素敵なものになれると教えてくれていた。
これが「嬉しい」の色。
これが「綺麗」の形。
言葉なんかよりも、ずっとずっと正確だった。
「優奈…すごいわ…」
隣でママが息を飲む声が聞こえた。
私は、はっと我に返った。
ママの顔を見ると、その大きな瞳が、信じられないものを見るように見開かれていた。
「あなた、どうして…これが和音だって、分かるの…?」
和音。
そうか、この綺麗な響きには、そういう名前があるんだ。
私は何も答えなかった。
答えられなかった。
どうしてかなんて、私にも分からないから。
ママはしばらく呆然としていたけれど、やがて見たこともないくらい嬉しそうな顔で、私をぎゅっと抱きしめた。
「この子には、才能があるのかもしれないわ…!」
ママの言葉は、少しだけ上ずっていた。
その言葉は、やっぱりガラス窓の向こう側から聞こえてくるみたいに、どこか他人事のように私の耳を通り過ぎていった。
才能なんて、私にはどうでもよかった。
嬉しいのは、そんなことじゃない。
私はやっと見つけたのだ。
私の本当の言葉を。
私の感情の表現の仕方を。
その日から、ピアノは私の親友になった。
黒くて大きくて、言葉を話さない。
けれど、世界で一番雄弁な親友。
私は毎日、親友に話しかけた。
今日あったこと、感じたこと、誰にも言えない心の中の秘密。
言葉にならない想いは、全部十本の指を通して音に変えた。
ピアノは、いつだって黙って私の話を聞いてくれた。
そして、私が紡ぎ出す音を決して否定しなかった。
嬉しい音も、悲しい音も、怒りの音も、全部そのまま受け止めて、リビングの空気に響かせてくれた。
聞き分けのいい「いい子」の仮面を被った私は、ピアノの前に座った時だけ、本当の自分に戻ることができた。
こうして、私の世界は『音』で満たされるようになった。
言葉が足りないこの世界で、私は、私だけの言葉を見つけたのだ。
それは、この先もずっと続く、長い孤独な道のりの、始まりの音だった。




