表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

1話 最初の音

「さよなら、モノクローム」1話投稿いたします。これに時間がかかっており、なかなか前作の「いつか神様になれたら」の最終話を投稿できておらず、申し訳ありませんでした。

今作品も面白いお話にしますので、お楽しみに。

言葉は、いつも足りない。

ママの「好き」と、私の「好き」は、きっと違う色をしている。

パパの「楽しい」と、私の「楽しい」も、きっと違う形をしている。

思ったことの半分も言えないし、言えたとしても、それは本物じゃない気がした。

私の言葉は、いつも喉の奥のほうで形を変えて、当たり障りのない、まるで味のしないガムみたいなものになって口から出ていく。


「優奈は聞き分けが良くて、いい子ね」


大人はみんなそう言って私の頭を撫でた。

私は曖昧に笑って、また言葉を飲み込む。

そうじゃない、と叫びたい気持ちを、お腹の底のほうに沈めて。

だから、私は今日も鍵盤に触れる。

白と黒の鍵盤だけは、嘘をつかないから。




私の家は、ありふれた建売住宅が並ぶ、関東郊外の住宅街にあった。

小さな庭と、黒い屋根、どこにでもある普通の家。

リビングには、この家には不釣り合いなほど大きな、黒いグランドピアノが置いてあった。

それは、私が生まれる前からそこにあったらしい。

昔、音楽の先生をしていたおばあちゃんの形見なのだと聞いた。

ママも昔は少し弾いていたらしいけれど、私が物心ついた頃には、その黒い巨体の蓋が開けられることはほとんどなかった。

艶のある黒い塗装は、窓から差し込む光を静かに反射して、部屋の景色をぼんやりと映し込んでいる。

大きくて、静かで、何を考えているのか分からない、まるで黒い生き物。

時々、ママが濡れた布でその体を拭いてやる時だけ、息を潜めているのが分かる。

それ以外の時間は、ただひたすらに沈黙を守り続けていた。

私、斎藤優奈は、五歳になっても、その黒い生き物とどう接すればいいのか分からなかった。


パパとママは、私のことを愛してくれている。

それは、たぶん本当だ。


「優奈、見てごらん、綺麗なお花が咲いたよ」


「優奈、今日のご飯は優奈の好きなハンバーグだからね」


二人はいつも、私にたくさんの言葉をくれる。

優しい言葉、正しい言葉、私のためを思う言葉。

でも、その言葉が、私の心まで届くことはあまりなかった。

それはまるで、ガラス窓を隔てて話しかけられているみたいだ。

音だけが聞こえて、本当の温度だけは何も伝わってこない。

私の好きなハンバーグは、本当はケチャップじゃなくてデミグラスソースのほうがいい、なんて言えない。

お庭のお花よりも、道端に咲いている名前も知らない雑草のほうが、雨に濡れてきらきら光っていて綺麗だ、なんて言えない。

そんなことを言ったら、パパとママはきっと、悲しそうな顔をするだろうから。


「どうしてそんなことを言うの?」


そう聞かれたら、私はうまく説明できない。

私の「好き」と、みんなの「好き」が違う理由を、私自身も知らないからだ。

だから私はいつも「うん、ありがとう」と、言って笑う。

上手に笑えているかは分からない。

鏡で練習した笑顔は、なんだか私の顔じゃないみたいに、ひきつって見えた。


その日も、パパとママはリビングでお喋りをしていた。

会社のこと、ご近所さんのこと、今度の週末の予定のこと。

私は少し離れた場所で、絵本を読んでいるふりをしながら、二人の会話を聞いていた。

たくさんの言葉が、意味のある音の塊として空中を飛び交っている。

でも、それは私には関係のない、遠い国の言葉みたいに聞こえた。

ふと視線を上げた先に、黒いピアノがあった。

西日が差し込んで、その巨体の輪郭をオレンジ色に縁取っている。

そしてピアノの周りの空気中を舞う小さな埃が、光の筋の中でキラキラと輝いていた。

私は、吸い寄せられるように、絵本を置いて立ち上がった。


「優奈、どうしたの?」


ママの声が聞こえたけれど、私は返事をしなかった。

なぜか返事ができなかった。

一歩、また一歩と、黒い生き物に近づいていく。

いつもは遠くから眺めているだけの存在。

触れたら、もしかしたら怒られるかもしれない。

そう思うと少し怖かったけれど、それ以上に、知りたいという気持ちが勝っていた。

つやつやとした黒い塗装に、私の小さな姿が映り込む。

おかっぱ頭で、ワンピースを着た、表情の乏しい女の子。

私はおそるおそる、その冷たい体に指先で触れた。

ひんやりとして、硬い。

生き物だと思っていたけれど、やっぱりこれはただの物なのだろうか。

でも指先に伝わる微かな振動が、やっぱりこれが生きているのだと私に告げているような気がした。


「ピアノ、弾いてみたいの?」


優しいママの声に、私はびくりと肩を震わせた。

怒られる、と思った。


勝手に触っちゃいけないものだったんだ。


でも、ママは怒っていなかった。

少しだけ驚いたような、それでいてどこか嬉しそうな顔をしていた。


「そうね、優奈ももう五歳だものね。ちょっとだけ弾いてみる?」


ママはそう言うと、軋む音を立ててピアノの椅子を引いた。

そして、私をひょいと抱き上げると、その椅子の上に座らせてくれた。

足が床につかなくて、ぶらぶらと揺れる。

目の前には、今まで見たこともない景色が広がっていた。


「いい?優奈。これはね、鍵盤っていうのよ」


ママは私の隣に立つと、重たい蓋に手をかけた。ぎぃ、と厳かな音を立てて、黒い蓋が開かれる。

そこに現れたのは、どこまでも続く白と黒の階段だった。

白い鍵盤と、その合間に少しだけ顔を覗かせる黒い鍵盤。


「さあ、押してみてごらん」


ママに促されて、私はごくりと唾を飲んだ。

緊張で指先が少しだけ震える。

どの鍵盤を押せばいいのか分からない。


正しい音はどれ?

間違った音はどれ?


私の頭の中を、不安がぐるぐると渦巻く。


もし、変な音が出たら?

もし、この黒い生き物を怒らせてしまったら?


言葉を選ぶときと、同じだった。

どの言葉が正解で、どの言葉が間違いなのか。

いつも分からなくて、黙り込んでしまう。


「大丈夫よ。どの音も、綺麗な音だから」


ママは私の心を読んだように、そう言って背中を優しく撫でてくれた。

私は意を決して、一番近くにあった白い鍵盤に人差し指を伸ばした。


ぽーん。


リビングに、間の抜けた、けれど澄んだ「ファ」の音が響いた。

その瞬間、私は息を飲んだ。

音が、空気を震わせるのが分かった。

窓ガラスが微かに揺れて、壁に飾られた写真立てがカタカタと鳴った。

音は、ただの音じゃなかった。

それは、目に見えない波になって、私の体に直接ぶつかってきた。

心の奥の一番柔らかい場所に、まっすぐに届いた。

言葉とは、全然違った。

パパやママの言葉は、いつも耳を通って、頭で考えて、それから心に届く。

その途中で、たくさんのものが削げ落ちてしまう。

でも、この音はそんな面倒な手続きを全部すっ飛ばして、いきなり私の心を鷲掴みにしてきた。

私は、夢中になった。

隣の鍵盤、そのまた隣の鍵盤。

指を動かすたびに、違う高さの音が生まれる。

低い音は大きくて、のんびりした動物みたいだった。

高い音は、小さくて、すばしっこい小鳥みたいだった。

私はめちゃくちゃに鍵盤を叩いた。

右手も左手も使って、思いつくままに。

生まれてくる音は、ぐちゃぐちゃの不協和音だったかもしれない。

音楽と呼べるようなものでは、到底なかっただろう。

でも、私にはそれが最高の言葉に聞こえた。

嬉しいとか、悲しいとか、楽しいとか、悔しいとか、今までうまく言葉にできなかった、私の心の中に渦巻いていた、ぐちゃぐちゃの感情。

そのすべてが、音になって溢れ出していく。

誰かに分かってもらおうとしなくてよくて、ただここにある。

私が、ここにいる。

ピアノが、それを許してくれている。

ふと、指が止まった。

三つの白い鍵盤を、同時に押さえていた。

ドと、ミと、ソの音。

それは今まで叩いていためちゃくちゃな音とは違って、不思議なほど綺麗に響き合った。

溶け合った、と言うほうが正しいかもしれない。

三つの違う音が、お互いを邪魔することなく、支え合って一つの美しい塊になっている。

それは、私がずっと探していたものだった。

パパと、ママと、私。

三人でいても、どこかバラバラな感じがしていた。

みんな、違う音を出しているだけだった。

でも、この音は違った。

違うもの同士が一つになって、もっと素敵なものになれると教えてくれていた。

これが「嬉しい」の色。

これが「綺麗」の形。

言葉なんかよりも、ずっとずっと正確だった。


「優奈…すごいわ…」


隣でママが息を飲む声が聞こえた。

私は、はっと我に返った。

ママの顔を見ると、その大きな瞳が、信じられないものを見るように見開かれていた。


「あなた、どうして…これが和音だって、分かるの…?」


和音。

そうか、この綺麗な響きには、そういう名前があるんだ。

私は何も答えなかった。

答えられなかった。

どうしてかなんて、私にも分からないから。

ママはしばらく呆然としていたけれど、やがて見たこともないくらい嬉しそうな顔で、私をぎゅっと抱きしめた。


「この子には、才能があるのかもしれないわ…!」


ママの言葉は、少しだけ上ずっていた。

その言葉は、やっぱりガラス窓の向こう側から聞こえてくるみたいに、どこか他人事のように私の耳を通り過ぎていった。

才能なんて、私にはどうでもよかった。

嬉しいのは、そんなことじゃない。

私はやっと見つけたのだ。

私の本当の言葉を。

私の感情の表現の仕方を。


その日から、ピアノは私の親友になった。

黒くて大きくて、言葉を話さない。

けれど、世界で一番雄弁な親友。

私は毎日、親友に話しかけた。

今日あったこと、感じたこと、誰にも言えない心の中の秘密。

言葉にならない想いは、全部十本の指を通して音に変えた。

ピアノは、いつだって黙って私の話を聞いてくれた。

そして、私が紡ぎ出す音を決して否定しなかった。

嬉しい音も、悲しい音も、怒りの音も、全部そのまま受け止めて、リビングの空気に響かせてくれた。

聞き分けのいい「いい子」の仮面を被った私は、ピアノの前に座った時だけ、本当の自分に戻ることができた。


こうして、私の世界は『音』で満たされるようになった。

言葉が足りないこの世界で、私は、私だけの言葉を見つけたのだ。

それは、この先もずっと続く、長い孤独な道のりの、始まりの音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ