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 一段降りる度に、濡れた絨毯を踏んだような音がする。じゅわりと、水が染み出す感触が足に伝わる。別にこの階段に絨毯が敷かれているわけではない。苔か草か、湿気のせいで階段が何かそのようなものに覆われているのだ。

 手すりはなく、壁に片手を這わせ、ゆっくりと下へと降りる。


 ——また、夢の続きだ。

 だが、場面は違う。先程のロッジではなく、どこかに降りる階段にいる。

 小さなわたしは父に背負われ、父は先ほどの大きなカバンを片手に持ったままだ。


 階段を降り切ると目の前には鉄の扉がある。

 この湿気のせいか、所々赤黒い錆が目立つ。水が腐敗したような、濡れた土の匂いが充満する中に、生臭さと赤錆びの血のような臭いが混じり合う。


 ドアノブに手をかけると、冷やりとした鉄独特の冷たさを感じる。手の熱が伝わったためか、錆びの血のような臭いがより立ち上がる。

 錆びた見かけと違い、ドアはあっさりと開かれ、部屋の中へと進む。

 部屋の奥に、母の背中があった。






「このカバンはなんだ! 一体どういうつもりだ。金で済ませるつもりなのか。そんなもので誤魔化せる話ではないぞ」


「じゃぁ、どうすればいいと言うのよ。それより、どうしてその子を此処まで連れてくるの? ロッジまではまだしも、此処に連れてきて。危険でしょ?」


「暖炉の前に、こんな小さな子を一人、置いておけるか!」


 気づけば父と母が激しく口論していた。そんな二人を小さなわたしは、やはり膝を抱えて座って、ただ眺めていた。父の視線から見る小さなわたしは、怯えた表情で二人を見ている。


 父と母はテーブルを挟んで向き合っている。

 小さなテーブルの上には先ほどのカバン。違うのはファスナーが開けられ、中身がテーブルに飛び出していること。札束と、それを取り囲むように山のような書類が散乱している。

 何が問題なのだろう。よくわからない。母が問題をお金で解決しようとしたことが、父には気に入らないらしい。




 しかし、この部屋はなんだろう。とても小さな部屋だ。雰囲気と先ほどの階段の様子から、地下室と思われる。そのせいなのか、妙に湿気が多い。

 中央にある小さなテーブルの他に、片方の壁際に古びた木製の棚が目立つ。

 棚には、まるで血を固めたかのように、そして禍々しい輝きを放つ、綺麗な赤いガラス瓶が数本あるが、どれも中味は入っていないようだ——。あの小瓶、確か、あの飾り棚にあったような......。ただの飾りにしては、妙に存在感を放っていた。


 そしてこの部屋も、水が腐敗したような、湿った土の匂いが混じり合った生臭さが一際強く感じられる。

 僅かに開いたままの扉からは、雷鳴と雨音が微かに聞こえてくる。こんな地下まで聞こえてくるとは、どれだけ酷い空模様なのだろう。

 だが、雨音とは別に水の音がする。ぴちゃり、ぴちゃりと、雨漏りでもしているのか。水滴が一粒ずつ、ゆっくりと水桶に落ちているような音。リズミカルではなく、不規則に、そろそろ次の水滴が落ちるのでは、と思っても音はせず、タイミングを違えて音がする。では、次はもっと間隔が空くのかと予想すれば、間隔を置かずにぴちゃりと音がする。この予測できない苛立ちが、父の苛立ちに輪をかけているようだ。



 ——もどかしい。


 父が何を考えているのか、思っているのかさっぱりわからない。なんとなく怒っている、苛立っているといった感情はわかるのだが、その心の内がわからない。この夢の中では、わたしは父の体に意識を間借りしているようなもの。もう少し父の考えが、思いが分かればいいのに。


 もどかしさで言えば、小さなわたしのこともそうだ。

 自分自身のことなのに。この光景が過去あったことならば、何故わたしは思い出せないのか。

 今も傍観者としての感想しか浮かばない。

 父や母へどんな感情を持っているのかすら、今のわたしにはわからないのだから。




「もういい!」

 口論が続く中、父が突然大声をあげた。と同時に、足早に母の横を通り過ぎ、その背に隠れていた扉から飛び出した。


 母はよほど驚いたのか、父がその体を押しのけるように通り過ぎた時、体を強張らせていた。父がチラリと後ろを確認すると、父を止めたかったのであろう、伸ばした手が宙に浮いていた。




 扉の先は地下道。人が一人通れる程度の細い通路が続く。背後と前方から漏れる灯りが、かろうじて通路の様子を照らし出す。

 先程よりも湿気をより強く感じる。まるで水の中にいるかのよう。

 しっとりとヒンヤリとした空気が顔に手にとまとわりつく。


 じゅわっ、じゅわっ、と父が足を運ぶたびに音がする。

 足元も水分を多く含む土のようで、足が沈む感じがする。

 そして、ぴちゃり、ぴちゃりと水音もよりはっきりと聞こえてくる。


 前方からの灯りが見えるのだ。あっという間に地下道は終わり、父は洞窟の入り口に立っていた。




 不思議な空間だった。

 円形の洞窟の奥には泉——池かもしれないが——があり、その奥の壁には神棚めいたものがある。父が立つ位置からその泉まで、赤玉砂利が敷かれてちょっとした小路が造られている。

 そして、泉の手前には朱塗りの鳥居。こんな地下洞窟の中に小振りとはいえ、鳥居がある不思議に驚いてしまう。

 そしてこの洞窟内を照らすのは数多のろうそく。恐らく和ろうそく。風もないのに、炎が大きくゆらゆらと揺れている。その揺れは、まるで洞窟全体がゆっくりと呼吸しているかのようだ。それに、この生臭い臭いの中に、甘い香りが微かに感じられるのは、きっとこの和ろうそくのせいだ。

 炎の揺れで影が蠢く。たくさんの大きな炎。不規則に揺らめく炎が、蠢く影を造り出す。蠢く影のその向こう側、暗闇の中に土砂で塞がれたような穴があることに気づく。以前はあの穴が通路だったのだろうか。


 ろうそくの炎は足元の赤玉砂利も照らす。玉砂利が泉の水に濡れ、てらてらと鈍く光り、その臙脂色が目についてしまう。目につくと言えば、神棚も。良く知る神棚は白木が使われている。だが、泉の奥にある神棚は赤い。朱の赤さではなく、血を煮詰めたような臙脂色。あの本の表紙を思い起こさせる色だ。

 こんな夢の中にまで、あの本を思い出すなんて、わたしは本当にどうかしている。




 父は泉とその神棚を見つめて立っている。何か迷っているのか、一歩踏み出せないでいるようだ。

 握り締めた拳が小さく震え、硬く歯を食いしばっているのが感じられる。


「あなた! 何をするつもりなの? その先は男子禁制だからとお願いしたはずよ」


「何が男子禁制だ。いくらお前の家が代々巫女の家系だからといって、仮にも医者を名乗る者がそんな迷信じみたことを口にするなんて」


 ——えっ? 巫女の家系? 何それ、聞いたことがない。それなら祖母も同じってこと?

 頭の中が真っ白になる。今まで当たり前だと思っていた日常が、一瞬にして崩れ去るような感覚に襲われた。


「迷信ではないわ! 現にこの神域をわたし達はずっと守護してきたの」


「何が神域だ。ここにいるのは神ではない、邪神の間違いではないのか? 血を欲しがる——しかも女性——ようなものが、まっとうな神と言えるのか?」


 ——今、父は何と言った? 血、それも女性の血を欲しがると......。心臓が激しく脈打ち、背中の痣が、まるでその言葉に呼応するかのように、ジンジンと熱を帯びた。





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