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家に戻ると母は出掛けていた。
朝、何も食べずに出たので、流石に何か胃に入れないとまずい。
普段であれば、あのお気に入りの喫茶店に立ち寄ったのだろうが、今日はそんな気分にはなれなかった。
何故だか、あの場所を穢してしまうような気がしたのだ。
キッチンのテーブルの上にメモがあった。
冷凍のクロワッサンを朝食にしろと書かれている。
素直に従うことにして、何か飲み物も、と考える。流石に今はトマトジュースの気分ではない。
手軽にミルクティーでも飲もうと、お湯を用意し、牛乳を温める。
クロワッサンをトースターで温め、リビングでのんびりと朝食兼昼食を摂りはじめた。
いつもは気にならない飾り棚が、何故か妙に気になる。
飾り棚といっても、本来の目的以上に物が置かれ、雑然とした本棚兼なんでも置きに化しているのだが。
何も変わらないはずなのに、なんだろう?
あぁ......。アルバムだ。最近見かけなかったアルバムが目立つところに置いてある。
立ち上がり、アルバムを手にソファへ座りなおす。
こんな色だっただろうか。
色褪せた表紙はくすんだ臙脂色......。また、臙脂色だ。
駄目。
なんでも関連付けていたら、自分がおかしくなってしまう。
表紙が目に入るのを避けるように、アルバムを開く。
少し黄ばんだ台紙の上に、やはり少し色あせたカラー写真が所々に置いてある。
歯抜けのように、所々が妙に四角く白い。
母が抜いて捨ててしまったのだ。
それこそ物心が付く前のわたしの写真ばかりだ。
母や祖母が嬉しそうに笑っている写真もある。
どこかへ旅行した時のものが多い。
見慣れない風景ばかりが並んでいる。
母は旅行好きだ。最近も祖母やわたしを頻繁に誘ってくる。きっと昔もそうだったのだろう。
そんな見慣れぬ風景の中、半べそをかいたり、笑ったり。小さなわたしが写っている。
空白の箇所にはどんな写真があったのだろう。
恐らくは父の写真。
その空白を指でなぞると、何故か“あの”ひやりとした感触が伝わってきた。微かに、あの生臭い水の臭いがするような気もする。
父は一人でいたのか、母と一緒なのか。一緒ならば、笑っていたのか、怒っていたのか。わたしが一緒に写っているものもあったはず。でも、そんな写真は一枚も残っていない。まるで、父の存在そのものが、このアルバムから、そして世界から、水に溶けるように消え去ってしまったかのようだ。
「ただいま」
顔を上げると、母がいた。
気付かなかった。いつの間に帰宅していたのだろう?
気付かないと言えば、雨音がする。
リビングも窓の外の暗さを引き込み、昼間なのに夕暮れ時のようだ。
この雨の中を帰ってきたせいか、母の肩が少し濡れているのがわかる。
パタパタと肩の水滴を振り払うと、リビングに入ってきた。
そして、わたしの手元を見ると、母は眉を寄せた。
「また、そんなものを引っ張り出してきて」
母の顔色が一瞬で変わったのが分かった。その声には、怒りというよりも、深い焦りの色が滲んでいる。
「えっ、だって、目立つところに出ていたから......」
母はわたしがこのアルバムを見ることを嫌う。そのせいか、悪いことをしていないのだが、後ろめたい気分になってしまい、言い淀んでしまう。
だが、それでも毎回聞いてしまう。
「ねぇ、お母さん。お父さんの写真って、一枚も残っていないの?」
「——」
母はわたしが発した言葉など、聞こえていないかのように、震える手でわたしの手元からアルバムを取り上げると、自室へ行ってしまった。
何も教えてくれない背中。
痣と父。知りたくても知れない二つの事実。
この話題を振ると、いつもこの背中を見せられる。
雨に濡れる窓ガラスに、母が歩き去る姿が映る。
怒ったような表情とは裏腹に、その背中は泣いているようだった。