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休日の朝である。
いつもより遅い起床。
普段なら「あぁ、よく寝た!」と気持ちよく起き上がるのだが、今朝はなんだかスッキリしない。
昨夜から、背中の痣がやけに気になって眠りが浅かった。いや、痣だけではない。あの不気味な本、『水の記憶』。そして、その表紙の色と痣の色が、脳裏で重なり合い......。
風呂上りに飲んだトマトジュース。何故、好きでもないのに手に取り、飲んだのか。
一口飲むたびに、その色が血を連想させ、血の色から本の表紙と背中の痣へと繋がっていく。気づけば、血は水である、なんて馬鹿なことを思い浮かべていた。
そんなことを昨夜ベッドに横になってから考えていたのだ。
それに、眠りについたはずの耳の奥では、絶えず雨音のような音が響き、不規則に、しかし確実に、何かに抑え込まれるような不快感があった。それはまるで、深い水中に沈んでいくような、息苦しさを伴っていた。
——あの本のせいだ。
思考があの本のせいで、なんだかおかしなことになっている。
痣のことなんて、もう諦めと慣れで、どうってこともないはずなのに。
何故か気になる。
いつ、どうして、あの痣が......。
気づくと痣とあの本のことを考えている。
駄目だ。
こんな自分は変だ。
この本が、わたしを狂わせている。
うん、きっとそうだ。
この、ひんやりとした重みが、わたしの理性を蝕んでいるんだ。
——返してこよう。
そう思ってしまうと居ても立っても居られない。
手早く身支度を済ませ、部屋を飛び出した。
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休日に、ここに来るのは初めてかもしれない。
昼間の明るい陽が差し込む中、螺旋階段を降りた先は薄暗い。
そして、その奥。占いコーナーは外の明るさに反比例するように、より深く暗い影に沈み込んでいた。
こんな時間から占いコーナーにやってくる客は少ないようだ。
どのブースの待合も誰も座っていない。
そもそも占い師がまだ来ていないブースすらある。
わたしは昨日のタロット占いのブースへと足を向ける。
ここも待合には誰もいない。
まだ占い師は来ていないのかと不安になるが、入り口にネームが掲げてある。
それに客も入っていないようで、入り口のカーテンが開かれている。
「あの——」
中に体を半分入れるようにして、声をかける。
今日は占ってもらいに来たのではない。あの本を返すために来たのだ。
だが、声を掛けた相手は昨日の占い師ではなかった。
落胆しつつも失礼を詫び、簡潔に理由を説明する。
すると「ああ、昨日の人ね。ちょっと変わっているのよね。連絡先を知っていればいいんだけど、わたしも知らないのよね。ごめんなさいね」と言われてしまった。
本を預かって渡してもらえないかと、ダメもとで頼んでみたが、滅多に会うことはないのでと断られた。
手にしたまま、宙に浮いた臙脂色の本。
触れる指先は、まるで水に浸しているかのように冷たく、ひんやりとした感触が指先から腕へと這い上がってくる。
そして、あの生臭い水の臭いが、粘りつくように鼻腔を刺激し、背筋がゾクリと粟立った。
まるで、本そのものが、わたしに張り付いて離れない、と言っているかのようだ。
この本は、わたしを放してくれるつもりはない。その、確かな「意思」を感じて、全身の血の気が引いていくのを感じた。