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家に戻り、一息ついてから、先ほどの本をカバンから取り出し、眺めてみた。
表紙は濃い臙脂色で染められていて、文字は何も書かれていない。
改めて表紙を触ると、湿ったような冷たさを感じる。濡れているわけではないのに。そしてやはり、何か生臭いような、錆びたような臭いが微かにする......。
表紙をめくると、中表紙にタイトルが記されていた。
『水の記憶』
それだけが、ぽつんと中表紙に記されていた。
表紙の異様な存在感とは裏腹に、中表紙以降は淡いクリーム色の、ごくありふれた文庫本に使われている紙でまとめられている。
ただ、中表紙もタイトルが書かれているのみで、作者や発行者など、よくある情報は一切書かれていない。
不思議に思い、本文を読む前に奥付を確認してみたが、ない......。奥付がない?
私家本なのか? それでも普通、奥付はあると思っていたのだが。
まぁ、いい。
そんな装丁のことより、本は中身が大切なのだから。
わたしはクリーム色の紙を一枚、静かにめくる。
——水はすべてを記憶する
——ただ、そこに在るだけ
——すべてを覚えている
最初に現れたのは、見開きでたった三行。
挿絵もない。
なんだか意識高い系の本にあるキャッチフレーズのようだ。
こんなことしか書いていない本が、わたしの本当の悩みの解決になるというのか?
いや、そもそも本当の悩み......。
わたしは何かに悩んでいるの......か?
次の頁には何があるのか。ゆっくりとクリーム色の紙をめくる。
——水は水だけにあらず
次はたった一行だ。
そして、やはり挿絵はない。
このフレーズもなんだか“気取った”キャッチフレーズのよう。
一体何を言いたいのか。
水は水だろう。
水だけにあらず、とは何を言っているのか。
ジュースやお茶、そういった液体のことを指しているのか?
エッセイでも詩でもない。
一体この本は何?
次の頁も同じなのか?
——人もまた水
次もまた一行だ。
ああ、これはよく聞く“人のXX%は水でできている”っていう話のことか。
確か、新生児では75%、成人女性では55%など、何かで目にした記憶がある。
何だろう、この本は。
これがわたしの助けになると、あの占い師は言ったが、何が言いたかったのか。
そもそも“本当の悩み”という言葉からして意味がわからない。
確かに今日の相談内容はそこまで真剣な悩みではない。どの会社でもよくあるちょっとした人間関係のこと。
そんなに真剣に悩むほどのことでもない。彼女かわたしが会社を去れば、それで終わる内容だ。去らなくても、部署が移動すれば関係ない話である。
では、わたしの“本当の悩み”とは?
馬鹿らしい。
悩みが何か悩むなんて。
受け取った本を眺めながら、あれこれと考えていると母の声が聞こえた。
さっさと風呂に入るようにと促す声だ。
本を閉じ、バスルームへ向かい、わたしはシャワーを浴びる。
蒸気に霞む鏡の中に、あの赤黒い痣が浮かび上がる。
肩甲骨の下にある大きな赤黒い痣。真正面から鏡を見れば、そんなものがあるとは誰も気づかない。だが、背中を見れば嫌でも目に入る。
バスルームの鏡に映る背中。気にしなければ良いはずなのに、そこにあることを確認するかのように、必ず見てしまう。
一体、いつ、どこで、どうやって......。
誰も答えてくれない。
母も祖母も父も......。父は行方不明だから、意味はないか。
本当に、誰も見ていなかったのだろうか?
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風呂上り、何か冷たいものでもと、足はキッチンへと向かう。
冷蔵庫の中には...... 大して何も入っていない。
牛乳、缶ビール、どちらも今飲みたい気分のものではない。
紙パックに入ったトマトジュースがある。珍しい。
母が買ったのだろうか。
久しぶりに飲むトマトジュース。
やっぱりこの青臭い感じが苦手だ。
塩を入れれば味がまろやかになると聞くけれど、苦手なのは味ではなく、この土っぽいような、青臭い匂いなのだ。
トロリとした液体、少し血に似ているかも。
血糊としても使えるのかな。まぁ、わざわざ飲み物を使わなくても、専用のものがあるか。
それに血液はもう少しサラサラしている気がする。どちらかといえば水っぽいような。
グラスに少し残るトマトジュースを見ながら、思考はあちらこちらへと彷徨った。
そして、その赤い液体を見つめるうちに、ふと鼻腔の奥で、あの占い師の元で感じたような、生臭い水の臭いがした。気のせいだと頭では分かっているのに、その臭いは粘りつくようにわたしにまとわりつく。
その時、背中の痣が、何故か疼いた。気のせいかと背中に手を当てると、じんわりと熱を持っている。トマトジュースを飲んだからだろうか。いや、関係ない。
グラスの底に残った赤い液体が、まるで生きているかのように、不自然にゆらゆらと揺らめいているのが見えた。
「あら、あなたがトマトジュースなんて、どうしたの?」
どれくらいそうしていただろうか。わたしの後にシャワーを浴びた母がキッチンに顔を出した。
「あぁ、お母さん。ごめん、勝手に飲んじゃった」
「気にしていないわ。ただ、においが苦手って言っていたでしょ?」
「そうなんだけど、なんだかついね」
「変な子ね」
母は苦笑を浮かべながらそう言うと、缶ビールを手に自室へと戻っていった。