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 ■■■■



 家に戻り、一息ついてから、先ほどの本をカバンから取り出し、眺めてみた。


 表紙は濃い臙脂えんじ色で染められていて、文字は何も書かれていない。

 改めて表紙を触ると、湿ったような冷たさを感じる。濡れているわけではないのに。そしてやはり、何か生臭いような、錆びたような臭いが微かにする......。


 表紙をめくると、中表紙にタイトルが記されていた。


『水の記憶』


 それだけが、ぽつんと中表紙に記されていた。

 表紙の異様な存在感とは裏腹に、中表紙以降は淡いクリーム色の、ごくありふれた文庫本に使われている紙でまとめられている。

 ただ、中表紙もタイトルが書かれているのみで、作者や発行者など、よくある情報は一切書かれていない。

 不思議に思い、本文を読む前に奥付を確認してみたが、ない......。奥付がない?

 私家本なのか? それでも普通、奥付はあると思っていたのだが。


 まぁ、いい。

 そんな装丁のことより、本は中身が大切なのだから。


 わたしはクリーム色の紙を一枚、静かにめくる。



 ——水はすべてを記憶する

 ——ただ、そこに在るだけ

 ——すべてを覚えている


 最初に現れたのは、見開きでたった三行。

 挿絵もない。


 なんだか意識高い系の本にあるキャッチフレーズのようだ。

 こんなことしか書いていない本が、わたしの本当の悩みの解決になるというのか?

 いや、そもそも本当の悩み......。

 わたしは何かに悩んでいるの......か?




 次の頁には何があるのか。ゆっくりとクリーム色の紙をめくる。


 ——水は水だけにあらず


 次はたった一行だ。

 そして、やはり挿絵はない。


 このフレーズもなんだか“気取った”キャッチフレーズのよう。

 一体何を言いたいのか。

 水は水だろう。

 水だけにあらず、とは何を言っているのか。

 ジュースやお茶、そういった液体のことを指しているのか?


 エッセイでも詩でもない。

 一体この本は何?

 次の頁も同じなのか?




 ——人もまた水


 次もまた一行だ。


 ああ、これはよく聞く“人のXX%は水でできている”っていう話のことか。

 確か、新生児では75%、成人女性では55%など、何かで目にした記憶がある。


 何だろう、この本は。

 これがわたしの助けになると、あの占い師は言ったが、何が言いたかったのか。

 そもそも“本当の悩み”という言葉からして意味がわからない。


 確かに今日の相談内容はそこまで真剣な悩みではない。どの会社でもよくあるちょっとした人間関係のこと。

 そんなに真剣に悩むほどのことでもない。彼女かわたしが会社を去れば、それで終わる内容だ。去らなくても、部署が移動すれば関係ない話である。


 では、わたしの“本当の悩み”とは?

 馬鹿らしい。

 悩みが何か悩むなんて。




 受け取った本を眺めながら、あれこれと考えていると母の声が聞こえた。

 さっさと風呂に入るようにと促す声だ。

 本を閉じ、バスルームへ向かい、わたしはシャワーを浴びる。


 蒸気に霞む鏡の中に、あの赤黒い痣が浮かび上がる。

 肩甲骨の下にある大きな赤黒い痣。真正面から鏡を見れば、そんなものがあるとは誰も気づかない。だが、背中を見れば嫌でも目に入る。

 バスルームの鏡に映る背中。気にしなければ良いはずなのに、そこにあることを確認するかのように、必ず見てしまう。

 一体、いつ、どこで、どうやって......。

 誰も答えてくれない。

 母も祖母も父も......。父は行方不明だから、意味はないか。

 本当に、誰も見ていなかったのだろうか?




 ----------



 風呂上り、何か冷たいものでもと、足はキッチンへと向かう。

 冷蔵庫の中には...... 大して何も入っていない。

 牛乳、缶ビール、どちらも今飲みたい気分のものではない。

 紙パックに入ったトマトジュースがある。珍しい。

 母が買ったのだろうか。


 久しぶりに飲むトマトジュース。

 やっぱりこの青臭い感じが苦手だ。

 塩を入れれば味がまろやかになると聞くけれど、苦手なのは味ではなく、この土っぽいような、青臭い匂いなのだ。

 トロリとした液体、少し血に似ているかも。

 血糊としても使えるのかな。まぁ、わざわざ飲み物を使わなくても、専用のものがあるか。

 それに血液はもう少しサラサラしている気がする。どちらかといえば水っぽいような。

 グラスに少し残るトマトジュースを見ながら、思考はあちらこちらへと彷徨った。

 そして、その赤い液体を見つめるうちに、ふと鼻腔の奥で、あの占い師の元で感じたような、生臭い水の臭いがした。気のせいだと頭では分かっているのに、その臭いは粘りつくようにわたしにまとわりつく。


 その時、背中の痣が、何故か疼いた。気のせいかと背中に手を当てると、じんわりと熱を持っている。トマトジュースを飲んだからだろうか。いや、関係ない。

 グラスの底に残った赤い液体が、まるで生きているかのように、不自然にゆらゆらと揺らめいているのが見えた。




「あら、あなたがトマトジュースなんて、どうしたの?」

 どれくらいそうしていただろうか。わたしの後にシャワーを浴びた母がキッチンに顔を出した。


「あぁ、お母さん。ごめん、勝手に飲んじゃった」


「気にしていないわ。ただ、においが苦手って言っていたでしょ?」


「そうなんだけど、なんだかついね」


「変な子ね」


 母は苦笑を浮かべながらそう言うと、缶ビールを手に自室へと戻っていった。



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