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何故、目覚めた時には覚えていないのだろう。
夢なのか、過去に実際あったことなのか。あまりにも現実離れしていて、でも、すべてが実際にあったことのように思われてしまう。
再び夢の中へと戻ると、父と母は洞窟の入り口でまだ口論していた。
ただ、先ほどと違うのは、父が赤い小瓶を手に持っていること。——あれは......やはり飾り棚にあったもの。先の小部屋で見かけたものともよく似ている気がした。
「こんな瓶にこっそり血を入れて持ち出すなんて。病院にバレたらどうするのだ? 既に気付かれているかもしれないんだぞ。そこまでして、この泉に血を捧げないといけないのか?」
父はガラスの小瓶を母に突きつけるように差し出している。小瓶の表面に反射するろうそくの炎が、まるで小瓶の中で蠢く血のように見えた。だが、それを見つめる母の目は冷ややかだ。
「昔のように、直接人から血を採れとでも言うの? それとも、もっと昔のように、人柱でも行う? 少し余分に貰うだけ。健康な女の子からしか貰っていないから問題ないわよ」
その言葉が、まるで凍てつく氷の刃のように、父の心臓を直接抉り取ったかのようだった。
「だから、そこまでする必要があるのか、と言っているんだ! 医者の君が、神の祟りを恐れているなんて......」
父と母の会話がまったくかみ合っていない。父はそのことに苛立ちを覚えているようで、俯き、肩を震わせていた。
だが今の話。母は勤め先の病院から、採血した血をどうにかしてあの小瓶に移し替えて、持ち出しているらしい。その目的は、この泉に捧げる為だと言うのだ。まさに人柱。今の世に人柱的なものを受け継いでいるなんて、母は正気なのだろうか。
父と母の口論がますますひどくなる。ここまで母が声を荒げるのは見たことがない。母は本当にこの泉に血を捧げているのだろうか。それが正しいと信じているのだろうか。
足元を風がよぎる。
父がその風の正体を確かめるために視線を下に向けると、小さなわたしが泉に向かって、足早に歩いていくところだった。
驚いた父が、泉へ向かう小さなわたしに手を伸ばす。
その時、目に入ったのは泉からぬらりと立ち上がる白い影だった。人型をしているが、妙に細く、手足が長い。ゆらゆらと揺れるように体を動かし、片手でこちらへ手招きをしているのがわかる。
小さなわたしは、その手招きに応じるかのようにトコトコと歩みを進めている。
「ひっ!」母が声をあげた。
父は驚きに一瞬体を強張らせたが、それでも慌てて小さなわたしに追いつこうと走り出す。
小さなわたしの手が、白い人影の手に触れんとした時、父の手もまた小さなわたしの手を取っていた。
!
突然のことだった。
凍り付くような記憶の断片が、堰を切ったように頭の中になだれ込んでくる。
父の温かい手が、白い人影の湿った冷たい指と、幼い私の手を同時に捉えた時、この後何が起きたのか、父に何が起こったのかを思い出した。
思い出すと同時に、わたしは“小さなわたし”の眼からこの状況をもう一度見ていた。
父はわたしを白い人影からひったくるように引き離すと、そのまま押し出すように泉から遠ざけた。
小さなわたしはそのまま倒れるようにつんのめる。が、体をなんとか起こして膝をつき、父を振り返り、手を伸ばしていた。
白い人影は、小さなわたしを追うのではなく、父の手を取っていた。そして、父をまるで抱擁するかのように抱きしめたかと思うと、そのまま白い影の中へと呑み込んでいった。
父の声は、顔を白い影に抱きかかえられ、沈んでいく中で、僅かにもごもごとした音しか届かなかった。
ただ、その片手だけは、わたしを白い影から引き離した手だけは、真っ直ぐに伸びている。
助けを求めているのか、逃げろと促しているのか。
だが、白い人影は優しく絡め取るように、その手も影の中へと呑み込んでいく。
すべてが終わって、何もなかったかのように白い人影がゆらりと立っていた。
すると、その白い手がゆらりとわたしに伸ばされる。そして、指先に——あれは血なのか——赤黒いものが凝縮していく。
父の体を溶かし込み、要らないモノを凝縮しているかのようだった。
そして、それがその手首からゆらりと伸びてくる。
繊細なレース編みのように、細く薄く華やかなほどに豪奢に。
血を限りなく凝り固めたような赤黒さ、いや、濃い臙脂色。
ろうそくの灯りを受けて、てらてらと赤く黒く光りながら、レースは編みあがり伸びてくる。
豪奢なレースが絡みつくような動きをみせながら、白い手首からわたしに伸びてくる。
小さなわたしは、ただ驚きで目を見開き、その状況を眺めることしかできなくて。
豪奢なレースがわたしの手に絡み、服を纏うかのように肩へと這い上がる。
そして、肩甲骨の元へ、まるで小さな翼が生えるかのように集まっていく。
白い影の手には、既に赤いレースは見られない。
すべてわたしの背で蠢いてる。
皮膚の下で、無数の細い血管が、まるで根のように絡み合い、深く深く、わたしの肉体に食い込んでいくような感覚に襲われた。
豪奢なレースがギュッと押し集まり、凝縮し、凝固し、小さな翼となって背中へ、べったりと張り付いた。
熱い、焼けるよう、お父さん、お母さん、助けて、痛い、これを取って......
小さなわたしの心の声が聞こえる。
両手で肩を抱いて身もだえている小さなわたし。
ただ見ていることしかできない自分がもどかしい。
そういえば、あの白い人影はどうなったのだ。父は本当に消えてしまったのか。
小さなわたしは、まだうずくまったまま。
「ぎゃっ」
わたしが小さく声を上げ、体を大きくのけぞらした。
そうだ、あの赤黒いモノが背中に......。背中で蠢いていた赤黒い小さな翼は、ここでわたしを宿主と決めたかのように、背中の皮膚を突き破り、血管の奥底へと、まるで新たな神経が張り巡らされるように、体に根を張りだしたのだ。その感触が、体に何かが入り込んでくる感触に驚いて、大きく体が跳ねたのだ。そして、その弾みで顔を上げると——
白い人影が泉の上から、わたしをみていた。
先程までとは異なり、わたしを見つめる“目”がある。
その目がただひたすら、わたしを見て不気味に微笑んでいた。
糸のように細く、ぞっとするほど深く暗く、深淵を除くかのような目。
あの目付き......あれは、あの本を手渡された時の!
わたしが気づいたことに納得したかのように、その白い人影は「ニタリ」と大きく表情を変えると同時に、泉の中へと溶け込むように姿を消した。
これは何なのか。あの占い師はこの泉の神だとでもいうのか。わたしが忘れた過去を思い出させる為に、わざわざあの本を用意したとでもいうのだろうか。
そう、この後わたしは高熱を出して寝込んでしまう。目覚めた後、既に背中に痣があるのだが、その頃のわたしはまだ気づいていなかった。そもそも、ここで起きたことを、その前後のことを何も覚えておらず、父が急にいなくなったことをただ嘆いている子供だった。
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——水と血の臭いがする。それはもはや別々の匂いではなく、混じり合った一つの“何か”だった。腐敗した水の重たい湿気と、湿った土の奥底から湧き上がるような生臭さ。そのすべてに、赤錆びた血の臭いが溶け込み、私の呼吸と共に体の奥へ、奥へと浸透してくるようだった。
目覚めた場所は自分の部屋だった。確かリビングにいたはずだ。いつのまに自分は部屋に戻ったのだろう。しかも、ベッドに入り、再び眠り込むなんて。
昨夜からの水の生臭さは、いまだ部屋に充満し、体にまとわりついてくる。
それにこの血の臭い。どこからかと思えば、すぐ目の前。わたしはあの本を抱きかかえて眠っていた。この臙脂色の本が血を匂わせていた。
起きた今も、わたしは片手をその本に添えていた。臙脂色の表紙が、添えられた指先から血を吸い続けているのをぼんやりと見つめている。まるで本に血を与えているかのようだ。そんなバカげた考えが頭に浮かんだ途端、痣が疼いた。皮膚の下を何かが蠢くような感覚に襲われる。痣が蠢き、その根がより深く体の奥へと枝を伸ばしていくような錯覚に陥る。
幼いわたしの背に張り付いた赤黒い塊。あの塊が翼のようにわたしに根を下ろしていった時の感覚を思い出し、思わず己の肩を抱き寄せた。
弾みで本がベッドの上に......
覚えている。いや、正しくないのか。思い出した。
不思議な夢の中で再体験した過去。父の視点で少しだけ真実が知れた。
これまでずっと疑問だった背中の痣、父の失踪、答えを拒む母の背中。そして、あの赤い小瓶。すべてを思い出し、そして繋がった。それを繋げたのは、この本。いや、それともあの占い師か。
『あなたの本当の悩みの解決の鍵に』この一言が始まりだった。
思い出してしまえば、母の背中の意味も理解できる。何を問うても背中を見せてきた母。
すべてを思い出した今、わたしは母に何と言えばよいのだろう。きっと、何を言ってもあの背中は変わらない。ただ、もうあの嘘と沈黙に耐えられない、その思いだけが、冷たく私の胸に広がっていた。
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ちなみに、ジャンルは全く違いますが、現在ファンタジー小説『ヴィルディステの物語』も連載中です。こちらも、もしご興味があれば覗いてみてくださいね。
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