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 ■



 わたしには背中に痣がある。まるで何かがべったりと焼き付いたような、赤黒く、醜い痣だ。

 かなり目立つものだが、普段は服に隠れて見えない。

 とはいえ、着替え時には当然見えてしまう。その度に多少の気まずさはあるものの、それももう慣れっこになっていた。

 小学生や中学生の頃にはその痣のせいで何度か嫌な思いもしたが、今は大人になり、他人からどう見られようと気にしない図太さも身につけた。

 それでも、夏場にノースリーブを着て、ふと電車の窓に映る自分の姿を見た時に、誰かの視線が背中にあるような気がして、思わず身をすくめてしまう。そんな些細な臆病さが、今もわたしの奥底にこびりついている。

 だから、夏場でも露出が多い服はどうしても避けてしまう。


 この目立つようで目立たない痣だが、どうも生まれつきのものではないらしい。

 物心がついた頃には、その痣の存在を認識していたため、生まれつきだと信じ込んでいた。




 いつだっただろう。

 確か、母と二人で旅行へ行った時のことだ。

 楽しみにしていた旅行は、しとしとと降り続く雨に祟られ、ほとんどの時間を旅館の部屋で過ごした。

 雨音が微かに聞こえる部屋の中。空には鉛色の雲が分厚く垂れ込め、街の灯りも雨ににじんでぼやけている。

 楽しみにしていた夜の街歩きもできず、母と二人、ただぼんやりとソファに身を預けていた時だ。


 母が突然「あなたの痣なんだけど——」と、この痣が生まれつきのものではないと教えられた。

 当然わたしは驚いた。

 生まれつきだと思っていたからこそ諦めてもいたものが、実は後天的なものだと知ったショックは大きかった。


 では、何故、どういう事情でこの痣がついたのか。

 教えて欲しいと母に尋ねると、『知らない』そのあっさりとした答えに、わたしは耳を疑った。

 そんな馬鹿な話があるのかと思わずにはいられなかった。物心がついた頃からあった痣だからこそ、もし後天的についたのであれば、それ相応の怪我か病気をしているはずだ。


 だが、母は『知らない』の一点張りで、この話をすると絶対にこうやってわたしから問い詰められると思ったから、話したくなかったとも告げられた。

 だったら、それこそ何故、こんな旅先で突然切り出すのだ。


 その後、旅館の部屋で母と何を話したのか、思い出せない。降りしきる雨の音だけが、母の言葉をかき消すように耳にこびりついていた。




 母に聞いても埒が明かないので、後日、祖母に尋ねてみた。

 父に聞けばよいではないかと言われそうだが、父はそれこそ物心がつく前に失踪して行方不明。

 母も祖母もそのことは正直に、わたしが幼少時から教えてくれていたので、ある意味父はいなくても当然のような環境であった。


 というわけで、祖母にも聞いたのだが、これもまたはっきりしない。

 祖母も、気づいたら痣があったというのだ。

 これほどの大きさの痣だ。絶対に怪我か病気の跡のはず。

 何かそういった病気や怪我をわたしはしていないのかと聞いてみたが、祖母は記憶の中ではそのようなことは一度もないと言い切った。




 ■■



 今日は日中、嫌なことがあった。


 新しく入った人に仕事を手伝ってもらっているのだが、ちょっとした間違いを指摘したところ、

『教えてもらった通りにやっています。こうやって言われましたよね?』と反駁されてしまったのだ。

 わたしとしては、絶対にそのようなことは言わない、教えない内容なのだが、頑なに否定されて。もう、なんだか説明するのも相手にするのも馬鹿馬鹿しくなってしまい、これ以上話しても無駄だと諦めてしまった。

『わかりました。次からは気をつけてください』そう言って話を切り上げると、同僚達からは『ああいう人だから、気にしないで』と慰められたのだが、上手く対応出来なかった自分への苛立ちで、その言葉は全く頭に入ってこなかった。


 そのモヤモヤを引きずったままの帰り道、本来なら明日の休日は何をしようとウキウキしているはずが、うつうつと塞いだ気持ちで歩いている。

 そのせいだろう。すれ違う人々の明るい表情が妙に辛く感じてしまう。




 だから、今日は寄り道をする。

 いつもの会社からの帰り道。

 本来ならこの道を真っ直ぐ駅へと向かうのだが、駅の手前で小路を左へと入る。

 少し古びたビルが立ち並ぶ古い路地。

 昔ながらの喫茶店や飲み屋、小さなオフィスや個人経営の小さな店がひしめいている一角だ。

 夕暮れ時からちょうど夜へと切り替わる時間帯。空は群青から蒼へ、蒼から赤へと色の帯が広がり、刻々と表情を変えている。

 街路灯はちょうど灯りがつきはじめたところ。大通りと違って少し薄暗いこの小路では、その灯りがもう充分に役立っている。


 さっきまで塞いでいた気分も、今から目指す場所のことを考えると、何故か少し気分が浮き立ってくる。


 特にどうってことはない喫茶店に、今から行くだけなのに。




 通りに並ぶ似通った商業ビルの一つの前で足を止める。通りに面しているのに、何故か目立たない小さな下り階段を使い、地下1階へと向かう。

 緩く螺旋を描く階段を降り切り、五歩、六歩と数歩進む。年季の入った色合いの扉が目の前にある。

 ちょっと重たい木の扉を押すと、柔らかな音色のドアベルがカラコロと鳴った。その音に誘われるように、カウンターの奥からマスターが静かに顔を上げた。わたしは軽く会釈をして、空いている席を探す。


 店内はアンティークな家具や置物があちらこちらに置かれている。

 アンティークといっても、すべて同じもので揃えられているのではない。テーブルもそれぞれ違う。高さも大きさも。当然それに合わせて置かれる椅子やソファーもそれぞれ違う。それでも、お店の中は雑然としていない。マスターのセンスの良さなのだろう。年代も色調も異なる家具を綺麗にまとめ上げているのだから。

 当然のようにここでのBGMは、レコードから流れている。

 柔らかな音が静かに流れ、落ち着いた雰囲気をより深めている。

 店内のこの雰囲気がお気に入りなのはもちろんなのだが、ここの茶器もお気に入りだ。

 マスターがいろいろ集めているようで、毎回違うティーカップを出してくれる。


 今日は年代物のソファーの席にした。このソファは体が沈みこんでしまって、立ち上がるのに苦労するのだが、背もたれの柔らかさや生地の滑らかさが好みの席だ。


 こんなお店だから少しお値段も高い。

 でも、趣味の良い調度と、落ち着いた雰囲気。そして何よりも美味しい紅茶が気に入っている。

 ここは、ちょっと仕事で頑張った時や、今日のように少し気持ちが参っている時に立ち寄る、わたしの心のオアシスみたいな場所なのだ。




 だが、実はもう一つここに立ち寄る目的がある。

 それは悩んでいる時限定となるのだが。


 紅茶を飲み、ゆったりと寛いで心を少し落ち着かせる。

 十分に落ち着けたと、自分が納得出来た時、わたしは席を立つ。




 ■■■



 このお店を出ると、同じ地下1階に占いコーナーがある。

 階段を降りてすぐにある喫茶店とは異なり、占いコーナーは奥まった場所にある。

 そのせいか日中でも薄暗いのだが、当然仕事帰りで街灯も点き始める今の時間——喫茶店から視線を向けても暗くて全体が良く見えない。

 そこに、そんなコーナーがあると知らなければ、ひょっとしたら気づかないのではないかと、今改めて思ってしまう。


 だが、足を進めると、そこにはいくつかの小さなブースが立ち並び、それぞれ手相・タロット・四柱推命等と揃っている。

 各ブースの前には待合用に椅子が数脚。週末だからなのか、今日はお客さんが多いようだ。どのブースも一人は待ち人がいる。

 わたしのお気に入りはタロットで、悩み事があるとちょっとした自分へのヒントとして頼っている。

 当たる、当たらない、というよりも、話を聞いてもらって、カードを視て、結果どうするといいかのアドバイスをもらう、そんな感じだ。言ってみれば、ちょっとしたカウンセラーとして利用しているともいえる。

 ただ、毎回同じ人が占ってくれるわけではないので、それこそ当たり外れがあるのだが。


 今日はどんな人が占ってくれるのか、そんなことを考えながら占いコーナーへと足を向けた。


 ----------


 タロットも既に先客がいた。ただ、待合は誰もおらず、先程誰か座っているように見えたが、その人が今占ってもらっているのだろうか。まぁ、それならそれで、今のお客さんが終われば、次はわたし。

 少し待つことになるが、こればかりは仕方がないので、わたしも大人しく椅子に座って待つことにした。



 ----------


 まぁ、今日の占い師さんはまずまず当たりだった。

 話も弾んだし、あまり否定的なことも言わない。何といっても、わたしの話をちゃんと聞いてくれたからだ。

 今日の相談事は仕事上の人間関係——例の新しい人のこと。

 カードの結果を参考に、ちょっと週明けから頑張ってみよう。


 だけど、最後に手渡されたこの本。

 一体なんだろう。

 酷く薄っぺらくて、サイズはよくあるA4サイズ。表紙は、まるで血を煮詰めたかのような、濃い臙脂えんじ色。

 そして、何故か妙に古びてみえる。手に取った瞬間、ひやりとした冷たさが伝わってきた。


 この本を『あなたの本当の悩みの解決の鍵に』とブースを出る間際に手渡された。

 手渡された時に微かに触れた占い師の手。深紅のレースから覗く手は青白い。渡された本以上にひんやり と、そして妙に湿った占い師の指先......。その感触は、古びて錆びついた鉄扉を撫でたときのような、ぞっとする冷たさだった。そして、どこからともなく、地下水のような生臭い水の臭いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。


 わたしの本当の悩み?

 何それ、どういうこと?

 まったく訳が分からない。


 顔を上げて占い師を見つめ返すと、その占い師は目を細めて笑っている。糸のように細い目が、まるで底なしの沼のように深く暗く、深淵を覗き込んでいるような怖気を覚えた。

 そして、占い師は、もうそれ以上は何も言わず、ただ不気味に微笑んでいた。

 ブース前の待合に、客が二人も座っていることに気づき、流石にここでもめ事はまずいと思い、ひとまず受け取って帰ることにした。






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