守れぬ、秘密。
渫と籥は、史書を読み終えると静かにそれを趨に手渡した。
「感想は?」
「糺国と椎国が・・・ひとつの国だったなんて・・・あまりにも驚いて・・・」
「ふたつの『宝石』がその歯車を狂わせた。俺と麗姫はその狂った歯車を元に戻そうとしているだけだ」
趨は受け取った史書をまた無造作に床に放り投げた。
渫は黙ってそれを見守っていたが、籥が横で口を開く。
「ですが、どちらかの国にふたつの『宝石』を揃えてしまったら、また争いは続くのでは?」
「大丈夫だ、それも考えてある」
糺国と椎国がかつてひとつの国であったとしても、両国の歴史は長い。
ふたつの国に別れてしまってから、両国の王は何代も入れ替わった。
糺太子と椎太子が兄弟であることを忘れるほどに。
ひとつの国にふたりの王はいらない。
糺国王と椎国王、どちらが残った玉座に座るのだろうか。
「『朱石』に今、触れることができるのは父上だけ。だから、父上が病で臥せっていようとも、ご存命中は『朱石』を動かすことはできない」
「椎国の姫は、『蒼石』に触れることができるのですか?」
「今現在、あの石を守っているのは麗姫だからな」
では、糺国王が亡くなった暁には、ふたつの『石』は平和を願う若い国主たちに委ねられるということか。
「ここだけの話。父上の容体はあまりよくない。もう、長くはない」
低く小さく告げられた趨の言葉の意味に、渫と籥は息を呑む。
「なぜ・・・それをあたしたちに・・・」
そう。思えば不思議なことばかり。
なぜ、趨はこんなに大事な国の未来を懸けた計画を渫と籥に話したのだろうか。
そもそも、なぜ、趨は渫と籥を自らの護衛としてそばに置いたのだろうか。
「『守人』の話は、幼い頃からおまえたちの長に聞いていた」
趨は抑揚もなく淡々と話し始めた。
「『朱石』と王を守るために訓練された暗殺部隊。俺と年の近い者までいると聞いて、ずっと興味があったんだ」
『守人』の育成には国が全面援助する。民の教育には一切関与せず、援助しない糺国が、唯一手を掛けている存在。
「渫や籥、そして蒐。おまえたちのことはよく聞いていた」
『守人』の中でも若くて強い、より先鋭された3人。
趨が渫と籥を見る。今まで見たことない、暖かい瞳で。
「おまえたちには言わなかったが、蒐が椎国で生きていることは、麗姫の手紙で知っていた」
「え?!」
ぱっと渫が顔をあげて趨を見た。趨の口から蒐の名が何度も出てくるのも不思議だった。
「会ってみたかった。そして、共に国が変わる瞬間を見てほしかった」
そして、趨はまた巻き物を渫に差し出した。
「それは・・・?」
「麗姫からの手紙を読んでからでいい。これをどうするか決めてほしい」
渫と籥は、困惑した様子で趨を見返す。彼はさらに言った。
「これは、俺から麗姫への最後の手紙だ。父上が亡くなったら、それを麗姫に渡してほしい」
つまり、渫と籥に椎国へ行き、手紙を届けろということか。
「そこには、俺と麗姫が国を変える瞬間を築く場所が指定されている」
麗は、すべてを語り終えると、静かに息を吐いた。
「・・・ありがとうございました、麗姫さま」
蒐がそう言えば、麗は優しく微笑んだ。
「ふたつの国が『宝石』を求めていつまでも争い続けることは愚かなことだわ」
「・・・趨太子も、そうお考えだったのですか?」
思い切って蒐が尋ねると、麗は驚いたように剋を見た。剋は、あいまいな表情を浮かべたまま、小さくうなずいた。
再び麗は蒐を見、そして固い声で肯定した。
「えぇ。趨太子も同じ考えよ」
なぜか、麗の声は緊張を帯びていた。その理由がわからず、蒐は黙って麗を見つめる。
彼女にしては珍しく、なにかを蒐に言いたそうなのに、それをためらっているようだった。
「・・・どうかされましたか、麗姫さま?」
「本当は・・・朧がもっと元気になってから尋ねようかと思っていたのだけど・・・」
麗のためらいがちな態度が、蒐を不安にさせる。
まだなにも麗に言われていないのに、心臓が早鐘のように鳴っている。
どんな厳しい任務でも、いつだって冷静で落ち着いていた蒐なのに。
「言って・・・ください、麗姫さま・・・」
声が擦れるのは緊張のせいか、負傷のせいか。
剋も視界の端で心配そうに麗と蒐を見守っている。
麗が、重そうに口を開く。
「・・・ねぇ、朧・・・・・・あなたの本当の名前は、『蒐』ではないの・・・?」
確信めいたその麗の言葉に、蒐は思わず剋に視線を向ける。
だが、その剋も驚いているようで、茫然とした様子で麗を見ている。
そのふたりの様子を見て、彼女は小さくため息をついた。
「剋は、彼の名前を知っているのね」
「それは・・・・・・」
「答えなさい。偽りは、許さないわ」
決然とした、女王の威厳。
麗は剋の前でそれを示す。剋もまた、それに抗うことなど、できない。
「・・・知ってます・・・」
「名は?」
麗に問われ、剋がうかがうように蒐を見る。
これ以上は限界。
蒐は、それを悟る。
これ以上は、秘密を守り続けることは、偽り続けることは、できない。
「・・・蒐、と申します、麗姫さま」
静かに、表情をなくして、蒐が麗に告げる。
麗が、蒐を見る。
見つめ返す蒐の表情は、すでに冷たいほどの無。
「長らく、偽りを申し上げたことをお詫び申し上げます」
瞳を揺るがすことなく、そう告げる蒐はまぎれもなく『守人』の気配をまとっていた。そこに、麗の知る『朧』はどこにもいない。
「いいえ。わたくしは、知っていたの。趨太子の手紙で、蒐という『守人』が国境付近で行方がしれなくなったと」
悲しそうに話し始める麗に、蒐は黙って先を促す。
「最初、剋があなたを連れてきたときはその『守人』だとは思わなかったわ。だけど、趨太子にあなたの容姿のことを話せば、間違えなく『蒐』であろう、という返事が返ってきた。・・・そして、同時に言われたわ、『しばらくは蒐を預かってほしい』と」
「趨太子が・・・・・・?」
趨が、『守人』に両親を殺された麗に、『守人』をかくまえと言ったのか。
いったい、なぜ。
「『守人』がどんな存在か。糺国の民がどんな人間か。蒐を通して知ってほしい、そう趨太子は言ったわ。・・・だから、わたくしも向き合うためにあなたに名を与えたの」
朧夜の『朧』。
真実の月を覆い隠し、『守人』という先入観なく『蒐』という人間性だけを見るために。
「ねぇ、朧、いえ、蒐。あなたが、わたくしに言ってくれたこと、してくれたことはすべて偽りだったの?『守人』としての、任務だった?」
麗の言葉に、蒐の瞳が揺れる。
冷たい瞳が、氷が解けるように温かさを取り戻す。
「・・・いいえ」
それだけはわかってほしくて、蒐は必死に麗に伝える。
「いいえ、麗姫さま。わたしは、本当に、あなたの望みを、笑顔を守りたいと、思っています。それが、『守人』であるわたしが言うべきことではないとわかっていても」
蒐の言葉を受けて、麗の表情が和らぐ。それを見て、剋も後ろで微笑みながら言い加えた。
「蒐の言うことは本当です、麗姫。こいつはオレにも言ったんです。麗姫の信念を叶えてあげたいって」
「・・・そう」
蒐が『朧』ではないと、『守人』であると知ってもなお、麗は柔らかな笑みを蒐に向ける。
こちらが眩しくなるほどに。
まるで女神のような、温かな微笑みで。
「本当のことを言えずに、苦しかったわよね、蒐。もう大丈夫よ。あなたも、そしてあなたのお姉さまたちも一緒に暮らせる、平和な世界を築きましょう」
平和な世界。
麗の口から何度も聞いた言葉。
どこかで他人事のようだったその言葉が、初めて蒐の中で、自分の立場と繋がる。
「今はゆっくりと休みなさい。本当のことを話してくれて、ありがとう」
どこまでも優しく深い麗のその心に、蒐はこみあげるものをこらえることができなかった。
どんなときだって泣くことのなかった蒐の頬に一筋だけ滴が流れた。