隠せぬ、後悔。
いつも通りの夜のはずだった。
糺国に侵入するにあたっては、剋と使っていた経路はすでに使うことができず、入国に多少苦戦した以外は、いつもの任務の夜と変わらないはずだった。
しかし、いざ糺国城に近づくと、その物々しいまでの警備に、剋も蒐も息を潜めて顔を見合わせた。
「わたしたちが今夜ここに来ることを知られているようですね」
「まぁ・・・知られていても不思議はないが・・・」
「え?」
剋のつぶやきに蒐は問い返す。
「わたしたちの動きが糺国側に伝わっているんですか?!」
「蒐、おまえにもこれを預けておくよ」
蒐の問い掛けには答えずに、剋はなにかを蒐に放った。咄嗟に受け取り、蒐は驚愕の声を上げた。
「剋さん、これは・・・!!」
剋が彼に渡したのは、一度だけちらと見たことがある、剋の『任務』だった。
剋の任務は、巻き物のようなそれを糺国城のある者へ届けること。
そう聞いた。
その巻き物を蒐に放ったのだ。
「オレはまた違うものを持っているんだ。今回は荷物が多いから、おまえにも預けておく」
「これをどうすれば・・・」
「糺国城の最上階の最奥部にある部屋に、それを届ければいい」
「剋さんは?!」
「別件で寄り道してから行く。先に向かってくれ」
言うと同時に、剋は姿を消した。
城のまわりを囲うようにして警備している『守人』から逃れるように、剋の気配が遠くなっていく。
蒐は、剋に手渡された巻き物を懐にしまい込んだ。
思えば、これが蒐に任された初めての任務。
いつも共に糺国まで来ても、蒐は糺国城に入ることをためらい、最後まで任務を果たしたことがなかった。
剋の途中警護と、麗姫の椎国内の警護。
それが、蒐を糺国に連れていくための剋が出した条件。
直接剋の関わる任務に携わるようなことを強いられることはなかった。
けれど今は違う。
懐にあるそれをそっと撫でながら、蒐は気配を整える。
複雑な心境だった。
剋に信じてもらってうれしい気持ち。
しかし、一歩一歩確実に『守人』を裏切っていく罪悪感。
彼は、それを振り払うかのように勢い良く飛び出した。
城を守っていた『守人』たちを振り切って、蒐は剋に言われた通り、糺国城の最上階の最奥部にある部屋に向かっていた。
驚くほど、人がいない。
まるで、蒐をそこに招いているかのように。
それでも警戒は怠らず、彼は気配を殺して目的の場所に足を運ぶ。
そこまで行ってどうすればいいのかは、わからない。
誰かこれを受け取ってくれる人物がいるかもわからない。
ためらいながらも部屋が近づくにつれ、蒐は息を潜めていた。
すると、常人より優れた蒐の耳に、一度だけ聞いたことのある声が聞こえてきた。
「もしも、平和な世界がほしいなら、平和な世界が来るまで、俺を守れ。俺が死んだら、平和な世界が訪れる機会は失われる」
それは、糺国王の後継者、趨太子の声。
『朱石』を見ることができるかと思われたあの夜、人を食うような笑みを浮かべて聞いた声と同じ。
不思議なことに、彼の気配が蒐の向かっている最奥部にある部屋から感じる。
あともうひとりの気配も。
趨太子に敵国である椎国の巻き物を渡すはずがない。
ということは、このもうひとりの気配に渡すということか。
目的の部屋も近くなり、どうやって渡そうかと思案する蒐は、さらに自らの耳を疑う会話を聞いた。
「渫、おまえも弟を探したいだろう?籥と一緒に、平和な毎日を送りたいだろう?なら、俺を守れ。あと少しの間だけでも」
…渫?!
今、趨太子は『渫』と言ったか?!
趨はずいぶんと慢った物言いだったが、そんなことよりも蒐は趨の呼び掛けた名前が気になった。
感じるもうひとつの気配。
これは、探し続けた渫の気配か。
けれど、今更彼女にどんな顔で会えるというのだ。
『守人』を裏切り、こうして椎国の『任務』さえ手を貸している自分が。
普段の蒐ならありえないことだが、そのときの彼は様々な思いに心を乱され、消していた気配が一瞬乱れた。
「・・・どうした?!」
「・・・知っている気配が」
趨の質問に答える声は、たしかに渫だ。
蒐は、うれしさや懐かしさよりも、悲しみや苦しみが込み上げてきて、逃げるようにしてその場を後にする。
しかし、いつものような冷静な判断をくだせないでいた蒐は乱れたまま城内をかけだすことにより、渫に追い付かれる羽目になった。
覚悟を決めた彼は、誰もいない広々とした部屋に飛び込んだ。
すぐに、渫の気配が追い掛けてくる。
窓際に立ち、いつでも逃げ出せるようにして、ふたりは対峙する。
蒐を加護するように頭上に控えた月が、目の前に立つ人物の顔を照らした。
…あぁ、姉さんだ…。
安堵よりも、込み上げてくるは、罪悪感。
渫と籥を裏切り、椎国にいる自分。
麗と剋の優しさに甘えて、椎国城に居座り続けている自分。
けれど、蒐は『守人』。
この糺国内で数えきれないほど、椎国の使者を殺してきた。
赤く深く罪に濡れた両手をなかったことにはできない。
そして、麗の両親を殺したのも『守人』。
なのに、蒐はそれを贖罪とするかのように麗のために、椎国の使者として、ここにいる。
なによりも大切な、渫の前に。
たったひとりの家族を敵にして。
「殺して・・・ください」
彼の心は乱れたまま。気付けば渫にそう訴えていた。
自分は今、どんな顔をしている?
笑えているだろうか。
渫が、好きだといってくれた笑顔を向けていられているだろうか。
たくさんの負の感情が蒐の中で交錯し、彼の心を壊していくようだった。
解放、されたかった。
なにもかもから。
それを、渫の手で解放してほしかった。
だから、願った。
「あなたは、わたしを殺すためにここに来たのでしょう?」
向けられている銃口。
それが震えている。
きっと彼女はまだ、誰も殺してなどいない。
幼いころの決意のまま、「渫らしく」『守人』をしているのだ。
『守人』に愛する人たちを殺されながらも、復讐の波に流されることなく、平和な世界を導こうとする、あの高貴な彼女と、重なる。
蒐にとって、どちらの『彼女』が大事なのだろうか。
「・・・なんで、あたしとあなたでこんなこと・・・!!」
渫は泣きながら言う。
あぁ、この泣き顔を、見たことがある。
緑を殺そうとしたあの日。
渫は同じ顔で泣いていた。
そんな渫に、蒐を殺せとせがむのは残酷だろうか。
だけど、蒐は殺されるなら、渫がいい。
他の誰でもない、渫の手で、蒐を解放してほしい。
感情が、渦巻く。
焦りが、苦しみが、蒐を襲う。
もう、蒐にはどこにも居場所はないから。
『守人』を裏切った蒐には、糺国にも。
『守人』を捨てきれない蒐には、椎国にも。
だから、もう、いい。
泣いて、泣いて、いやだと強張る渫。
でも、それよりも先に、蒐の限界が、迎えた。
「―――――――・・・・・・早く、俺を、殺せ!!!」
そうして、蒐が今抱いているその感情が、「後悔」というものだというのを、銃声の音を聞きながら、自覚した。