隠せぬ、侵入。
あの夜のことを後悔しない日はなかった。
自分さえあの場に行かなければ、あんなことにはならなかったのに。
落ちていく体を助けることもできなかった。
その場を動けずに放心していた渫を叱咤して共に逃げたのは、籥だった。
しかし、渫はずっと蒐と別れたあの夜を後悔しつづけた。
「・・・そろそろ、だろうな」
目の前からそんな声が聞こえ、はっと渫は顔を上げた。
渫の目の前に座る男は、視線を窓の外に向けたままだ。
「なにが、そろそろ、なのですか?」
「・・・終幕が」
ゆっくりと男の視線が渫に向けられる。ふざけたように笑うなかで、その瞳だけが真剣な炎を宿している。
「心の準備をしておくといいぞ、渫」
「さっぱり意味がわかりませんが、趨太子?」
趨の発言が意味不明なのはいつものことだ。渫もいい加減、慣れた。
蒐が椎国のスパイと戦うなか、崖から落ちて行方がわからなくなってから、趨は『守人』を糺国城に置いておくようになった。
それは別に不思議でもなんでもない。
『朱石』を守るため、病で伏せっている糺国王を守るために『守人』を配置するのは、当然の処置だ。
ただ、渫がわからないのは、趨が自分の護衛に渫と、そして籥を指名してきたことだった。
椎国のスパイの動向を的確にとらえたから、というのが趨の主張だが、それなら籥だけの話だ。
なぜ渫まで趨の護衛に任命されたのかさっぱりわからなかった。
わかっているのは、『守人』の中に裏切り者がいるかもしれないということ。
あの夜の警備の配置や『守人』である蒐や籥の性格が椎国に筒抜けのような気がした。
なにもかもが後手にまわり、だからこそ蒐たちは不利な立場にたたされた。
・・・蒐。
次の朝には彼を探しにあの場に戻ったが、彼の姿を確認することはできなかった。
だからこそ、渫は蒐がまだ生きていると信じていた。籥もまた。
「今夜はよくよく厳重な警備をしておくといい。・・・そろそろ来るかもしれないしな」
「・・・なにが、ですか?」
「秘密」
にやり、と趨がまた笑う。こうしてからかわれることも慣れてきた。
この彼が次期王だというのだから、頭が痛い。
「なぁ、渫。平和な未来が、来ると思うか?」
ため息を吐いた渫の背中に、趨が問い掛けた。その表情はまだにやにやとふざけている。
「『蒼石』を手に入れて、平和な世界を手にしたいですね」
「俺は『朱石』や『蒼石』なんていう過去の化石のようなもんに興味ないな」
「趨太子?!」
「あれに拘っているのは寝たきりの父上だけだ。俺は興味ないな」
「興味ないって・・・それじゃぁあたしたちは何のために・・・」
「『自分のため』に決まっているだろ?」
突然趨の声色も表情も真剣なそれになり、渫は一瞬言葉を失う。
だが、すぐにまた彼は意地悪な瞳を彼女に向けた。
「そんなこともわからないなんて、腕はたってもまだまだだな、渫。籥を呼んでこい。話がある」
「・・・かしこまりました」
趨のころころ変わる気配に圧倒されて、渫は小さく返事をして部屋を出た。
趨とのやりとりも、慣れてきたはずだった。しかしまだ、彼のことがつかめない。
まるで雲のようにつかみどころがない。
なにを考えているのかも。
「渫?」
聞き慣れた声が頭上から降ってきて、渫は思考を停止して顔を上げた。目の前には、心配そうに渫を見る籥がいた。
「どうした、疲れたか?最近椎国の連中もよく来るから、連戦だしな」
「それを言うなら、籥のほうが疲れているでしょ?・・・あたしは結局、たいして戦えないもの」
蒐を失って、椎国を憎む気持ちがあってもまだ、渫は殺すことができなかった。
まだ、恐かった。
籥はもちろん、趨もなぜか渫が敵を殺せないでいることを責めたりはしなかった。
「いいんだよ、渫。おまえはおまえの道を行けば」
籥はずっと、そう言ってくれる。気遣うような優しい、からっとした笑顔で。
「・・・そういえば、趨太子が呼んでいたわよ?」
「オレを?」
きょとん、としながら籥は渫に確認したあと、肩をすくめて趨の部屋に向かっていった。
その背中を視線で追いながら、先程の趨の言葉を思い出す。
『朱石』にも『蒼石』にも興味がないと言い切った趨。
そのふたつの『宝石』のために争い続ける両国を、嘲笑うかのような発言。
そして、それを守るために存在している『守人』である渫が、なんのために自分たちがいるのか、今まで戦ってきたのか、と責め立てるよりも前に、趨は言った。
『自分のため』だろう、と。
渫には趨の言っている意味がわからなかった。
趨には見えているであろう世界が、彼女には見えなかった。
ただわかるのは、次期王である趨と『朱石』を何に代えても守らなければならない、ということだった。
静寂が支配する深夜。
いくつかの気配を、渫は感じ取っていた。
「どうした、侵入者か?」
「・・・そうですね」
病で臥せっている王の代理として政務に励む趨の傍らで、渫は警戒を強めた。
それを、不思議なことに趨はおもしろそうに眺めている。
「・・・なぜ、そんなに楽しそうなのですが、趨太子?」
「人生楽しまないと損するぞ?」
「・・・・・・いいです、聞いたあたしが愚かでした」
趨と、彼に呼び出された籥は、何を相談してそんな結果になったのか、今夜の趨の護衛を渫ひとりに任せることにした。
籥は、というと城の外で中心となって見張りをしている。
どうやら、それを振り切って城内に忍び込んできた影があるようだ。
「・・・なぁ、渫」
「なんでしょう?」
「平和な世界ってどんな世界だと思う?」
「・・・え?」
気配の行方を追うためにたいして真剣に趨の言葉に耳を貸していなかった渫は、彼の真剣な問いかけに思わず全ての神経を彼に戻してしまった。
「どんなって・・・・・・」
「昼間、渫は言っていただろう?『蒼石』を手に入れて平和な世界を手にしたいって。それってどんな世界だ?」
「それは・・・」
今、この緊迫した状況で考えることでもないのに、趨の視線がそれを許さない。
彼女は真剣に、けれど焦りながら考えた。
「誰とも争うことなく、殺しあうことのない、世界・・・ですかね」
「・・・なるほど。ま、こんな毎晩死闘が繰り広げられる世界は平和じゃないな」
再び机の紙面に視線を落とし、趨はつぶやく。何を熱心に書いているのか、眉間に皺を寄せながらさらさらと筆を進ませていく。
「・・・もしも、平和な世界がほしいなら」
再び、趨が口を開く。けれど、彼の視線は依然紙面に向かったままだ。
「平和な世界が来るまで、俺を守れ。俺が死んだら、平和な世界が訪れる機会は失われる」
横柄な、けれどなぜか不思議と絶対的な確信を持った物言いに、渫は一瞬言葉を失った。
いつまでも答えないでいる彼女に業を煮やしたのか、趨が顔を上げて渫と視線を合わせた。
「渫、おまえも弟を探したいだろう?籥と一緒に、平和な毎日を送りたいだろう?」
「・・・・・・はい」
「なら、俺を守れ。あと少しの間だけでも」
「もちろんです。趨太子は糺国の次期王。何に代えてもお守りいたします」
「・・・そりゃ殊勝なことだな」
渫は真剣に答えたというのに、なぜか趨はそれを嘲笑した。
彼の真意がわからずさらに問いかけようとしたところで、渫は信じられない気配を感じた。
「・・・え?」
それは、冷たい月の気配。
残酷な暗殺者のみが持つ、冷涼な気配。
その中に混じる、わずかな太陽の光。
そんな複雑な気配を、渫はひとりだけ、知っている。
「まさか・・・・・・」
「どうした?」
急に顔色を変えた渫に、趨が不思議そうに問いかけてきた。彼女は、趨にすがるように、求めるように、声が震えるのも厭わずに言った。
「知っている・・・気配が、今、この部屋を通り過ぎました・・・」
一瞬だけ向けられた殺気。
それがもしも、渫の知る『彼』のものと一致するなら。
「・・・ならば、追え、渫」
「ですが、あたしは趨太子の護衛で・・・」
「しばらくの間なら、自分の身くらい自分で守れる」
そういている間にも、『彼』の気配がここから遠ざかっていく。
これ以上離れてしまえば、きっと自分には追えなくなってしまう。
「・・・すぐに戻ります」
ためらうことなく、渫は部屋を飛び出した。
追いかける、たったひとつの気配を。
・・・そして。
「・・・今夜はずいぶんと熱心な護衛をされているのですね、『守人』のみなさんは」
誰もいない部屋にたどり着くと、氷のような冷たい声で渫は『彼』にそう言われた。
その知った声に、渫は言葉を返すことができない。
「おかげで、こちらはずいぶんと不意をつかれました。どうやら今夜は任務を遂行することも難しそうですね」
相手はくすりと笑いながらそんなことを言い続けている。
そして、静かなその部屋に、『彼』のため息だけがひとつ、こぼれた。
「わたしの負けですよ。どうぞ、殺してください」
渫の手には、銃がある。それは長年の習性で、向けられた殺気には意志とは関係のないところで、それは構えられてしまう。
『守人』にだけ所有を許された、その武器を。
それを受け入れるかのように、相手は両手を広げた。
「殺してください、姉さん」
・・・蒐だ。
本当に、蒐だった・・・・・・。
だけどなぜ、彼はこうして今、渫の前で殺気を放っている・・・?
「どうして・・・・・・」
「わたしには、これしか方法が見つけられなかったのですよ」
まるで自暴自棄になるかのように、早く殺せと蒐は言う。
さもなくば、趨を殺すとまで脅して。
なぜ。
せっかく、再会できたのに。
籥と渫と蒐、やっと3人がそろったのに。
「わたしは『裏切り者』。だからどうか、わたしを早く、殺してください」
なぜか喋ることも辛そうに、蒐はひとことひとことを絞り出すように言う。
彼の表情は、月明かりの逆光で見えない。
ただただ、渫は涙が止まらない。
うれしいのか、悲しいのか、それもわからない。
蒐を攻撃したいわけじゃないのに、戦いたいわけじゃないのに、『守人』としての習性が、銃口を彼から反らさせない。
彼の名を、呼ぼうとした。
呼んで、そして、戻ってきてもらおうと思った。
けれど、渫が口を開くより早く、蒐が叫んだ。
「早く、俺を殺せ!!!!」
それは、蒐の血を吐くような懺悔のような気がして。
救いのないこの世界を、足掻き悲しむような慟哭で。
蒐のその叫びにひきずられるようにして、渫は銃の引き金を引いていた。