消せぬ、疑惑。
麗が蒐に、『朧』という名を与えてから、彼女は度々蒐の部屋を訪れた。
しかし、椎国の女王でもある彼女が、そうそう長居するわけにもいかない。そのため、やはりいつも蒐のそばにいるのは、麗の護衛だという剋だった。
「お、もう起き上がれるのか?」
目が覚めてから数日後。傷も癒えてきた蒐は、起き上がって用意されていた服に着替えていると、剋に話しかけられた。
「おかげさまで。もう剋さんのお手を煩わせることもなさそうですよ」
人懐っこく笑いながら、蒐は告げる。剋はそれに一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに喉で笑い声をあげて目を眇めた。
「朧、だなんて麗姫もいいセンスしているよな。素性のわからない、朧げな存在・・・ってな」
剋の鋭い物言いに、蒐は一瞬警戒の色を強める。しかし、すぐにそれを消して、にっこりと剋に笑いかけた。
「麗姫さまに危害を与えるようなことはしないとお約束いたしますよ。自分のことを思い出した暁には、即刻お城を退出いたします」
「え?あぁ、別にあんたを責めているわけじゃないんだけどさ」
剋はふっと笑うと、急に真面目な顔をして蒐に言った。
「記憶がないっつっても、椎国と糺国が長い間戦争としているのは知っているよな?」
「え、えぇ・・・」
「その原因は知っているか?」
「・・・・・・『宝』・・・ですか?」
学舎にいた頃の学友たちの知識や噂話はそれくらい。
両国は『宝』のために戦を続けている。それが『朱石』と『蒼石』と呼ばれていることを知るのは、ごく一部の者たちだけ。
「そう、『宝』のせいだ。最近、麗姫の周りがその『宝』を狙う者たちで溢れていて危険なんだ。・・・まぁ、もっとも、麗姫がやろうとしていることに反対する重臣たちの差し金もあるだろうけどな」
「麗姫さまは、お命を狙われているのですか?!」
「『宝』を守る王族は、いつだって狙われているさ。だから、オレは麗姫が生まれたときから彼女の護衛をしているんだ」
剋と麗姫が打ち解けているのはそのせいか。蒐は妙なところで納得してしまう。
椎国の『宝』である『蒼石』を狙って、王族の命を奪おうとするのなら、それは糺国の者たちだろう。つまり、蒐たち『守人』である。
しかしこの数年、椎国のスパイたちに糺国への侵入が許されても、糺国の「守人」が椎国への侵入に成功した例は非常に少ない。
糺国では、王が病に倒れてしまって、趨太子が代わりに実権をとるようになってからは国境の守りが緩くなり、椎国のスパイの侵入が増えてしまった。
一方で、「守人」が椎国へ侵入しようとしても、なかなか突破できる者が多くなく、仮に潜り込めたとしてもその連絡は非常に少なかった。
―――――――――…あの日。
蒐や籥が椎国のスパイに取り囲まれたあの日。
糺国城内にいた椎国のスパイの数も去ることながら、蒐や籥を囲んだスパイたちの数も尋常じゃなく多かった。
まるで、会場で蒐たちがスパイのひとりを追いかけるのを仕向けたみたいに。
・・・やはり、内通者がいると考えていいだろうな。
蒐は小さくため息をつく。
あの日、あの会場にいるのは糺国の貴族だけという名目だった。「守人」がいることを知るのは、同じ「守人」と王族だけ。
臣下たちすら「守人」がいることは知らされていなかった。
仮に、『朱石』の守護者である「守人」があの場にいると想定できたのだとしても、蒐たちの無謀な性格まで知ることはないだろう。
そう思うと、糺国に残してきた渫や籥の身の安全が心配になる。
蒐は今こうして安全な場所でゆっくりと傷を癒しているというのに、渫や籥はあの戦闘の場からちゃんとうまく逃げ切れたのかもわからない。
「朧?どうした?」
いつのまにか拳を強く握り締めていた蒐は、剋に呼びかけられてはっとしてすぐに笑顔をつくった。
「いえ、なんでもありません」
「まぁ、無理に思いだそうと焦るな。自分を追いつめても辛くなるだけだ」
「・・・はい」
蒐は無理やり笑顔をつくって答えるが、やはり不安は拭えない。
糺国に、仲間の中に内通者がいる。裏切り者が。
「朧も起き上がれるようになったのなら、麗姫たちと一緒に食事をするといい。あの方は変わっていて、侍女たちやオレたちと一緒に食事をとるんだ」
「王族なのに、ですか?!」
「まったく、変わった姫様だよ」
苦笑する剋のその言葉には、間違えなく温かな愛情があった。その温かな輪の中に、『素性の知れない朧』を入れようというのか。
「よろしい・・・のでしょうか。わたしが一緒でも・・・」
心の底から信じられない思いで蒐が尋ねれば、剋はまたにっと笑う。
「麗姫も喜ぶだろうしな。それに、さっき朧が自分で言ったんだ」
蒐を指差して、剋は笑う。
「麗姫に害を与えるようなことはしないって。だから、オレはおまえを信じる」
・・・信じる。
蒐を、糺国の守人である自分を信じるというのか。
蒐は無意識に嘲笑してしまいそうになるのを抑えた。
なんて愚かな者たちなんだ。こんな得たいの知れない存在を信じるなんて。
間違えなく、『朧』は裏切り者なのに。
疑いを持つべき存在なのに。
・・・なのに・・・・・・。
剋の「信じる」という言葉が、なぜか猜疑に固まった蒐の心をほぐしてしまって。
胸の中にぼんやりと温かな何かが芽生えるのを、蒐はたしかに感じていた。