消せぬ、戸惑い。
蒐にある最後の記憶は、糺国で椎国の敵に囲まれた状況の中に渫がかけつけて、彼が姉を助けて敵に追い込まれたところであった。
疲労し負傷した蒐は、敵にどんどん追い詰められた。
いつもの彼なら、1対1の戦いなど苦もせずこなすが、この夜の彼は連続の戦闘ですでに限界だった。
けれど、蒐はずっと戦いながら不思議だった。
すでにぼろぼろの蒐は、敵から最後の一撃をくらえば、その場に崩れ倒れそうなほどだった。
なのに、椎国のスパイたちはまるで焦らすようにじりじりと蒐と籥を追い詰めるだけで、殺そうとはしなかった。
足場の悪い崖から突き落とせば、あっという間に蒐も籥もその命を手放さなければならない。
なのに、敵はそうしなかった。
蒐が崖から落ちたのは偶然だった。
敵の「撤退」の号令に蒐は気を抜き、蒐と戦っていた相手は覇気を逸らされた。
そして、油断した蒐はバランスを崩し、崖へと転落したのだった。
河川へ落下しながら、蒐は死を覚悟した。
朦朧とした頭の中で、たった1つの約束すら守れない渫に謝りながら・・・・・・。
ところが。
目覚めた蒐がいるこの場所が、敵国椎国であるというのだ。
しかも、椎国の城の中。
もはやあまりの展開に、蒐はパニック状態だった。
頭が真っ白で何も考えられない。
敵国の城の中など、自分の正体がばれてしまえば、即刻殺されてしまう。
一刻も早く糺国に帰らなければ。
でも、どうやって。
あの河は糺国から椎国へとつながっていたようだが、あの河がこの城から遠いのか近いのかもわからない。
ただただ蒐は訳もなく焦っていた。
あちこち動かすだけで悲鳴をあげそうなほど痛む身体を無理やり起こし、とりあえず蒐はここから立ち去ろうとした。
あの「麗」と名乗った少女と別れてからどれほどの時間が経ったのかわからない。しかし、早く行動しなければ、正体がばれてしまう。
鈍い動きでなんとか上体を起こし、立ち上がろうと痛みを堪えているところで、扉が開いた。
「具合はどう・・・・・・って、なにをしているの?!」
麗が血相を変えて、蒐の身体を押さえつける。今回は麗だけで剋という男は連れていない。
「どうしたの?!なにがしたいの?!」
麗はおろおろと蒐を押さえつけているだけだ。このまま抵抗し続ければ、誰かを呼びに行くかもしれない。その方がやっかいだ。
「・・・・・・いえ、なんでもないです」
「驚かさないで。まだ動いたりできるような傷ではないのだから」
おとなしくなった蒐にほっと安堵した様子で、麗は彼をしかりつけた。
「あなたはどこから来たの?過って河に落ちたのでしょうけれど、ご家族にお知らせしないと」
「えっと・・・・・・」
どこから来たか。
まさか言えるはずがない。糺国から流されてきたなど。
答えず黙り込んだままの蒐を、麗は心配そうに見つめる。
「もしかして、覚えていないの?どこから流されてきたのか・・・・・・」
真剣に心配そうに蒐に問いかける麗を見詰め返し、彼は彼女に対し罪悪感を覚えながらも、麗の『提案』に便乗することにした。
「・・・・・・はい。どこから来たのか、まるで覚えていないのです・・・」
不安そうに悲しそうに。
蒐は必死に演技する。
素直な性格なのか、麗はすぐにそれを信じ込んだ。
「まぁ、かわいそうに・・・!!自分の名前は覚えているかしら?家族のことは?!」
・・・・・・名前。
これも本当の名を告げれば、いつかは糺国の『守人』だとばれてしまうだろうか。
考え込んで口をつぐむ蒐のその「間」が、さらに麗に信憑性を与えるらしく、彼女が泣き出しそうになっている。
そんな素直で心優しい少女を見ながら、蒐は目まぐるしく頭を働かせ、自分自身の「設定」を確定させた。
「・・・・・・いいえ、何も覚えていないのです。名前も、家族も・・・・・・」
「なんてこと・・・!!河に流されたショックで忘れてしまったのね?!」
「ですが、1つだけ覚えていることがあります」
「まぁ、なぁに?」
たった1つの希望にすがりつくかのように目を輝かせた麗の前に手のひらをかざし、蒐はそれをくるりと回して再び彼女の前に手を差し出した。
そこには、一輪の小さな花。
学舎でやっていた、ごく初歩的な奇術。
「すごいわ!!どうやったの?!」
「わたしは奇術師だったのです。それだけは覚えているのです」
名も故郷も忘れた、孤独な奇術師。
それが蒐の考えた「設定」だった。
早く麗から椎国の脱出方法を聞かないといけない。
「それで、お願いがあるのですが・・・・・・」
「えぇ、わかっているわ」
ここから国境までの道のりを尋ねようとした蒐の言葉を遮り、麗はきっぱりと言い切った。
「お宿の心配でしょう?大丈夫よ、あなたの傷が癒えて記憶が戻るまで、好きなだけここにいて構わないわ」
「へ?!いや、ですが・・・・・・」
「あぁ、宿代の心配なんてご無用よ?部屋という部屋はがら空きだから使ってくれる人がいたほうがいいもの」
「いえ、そうではなく・・・・・・」
「でもそうよね、いくらそうでも記憶もないままですもの、不安だらけよね。無条件に部屋を貸し出すなど、信用できないかもしれないわね。いいわ、それだったら、時々あなたの奇術を見せてもらえないかしら?その報酬としてこの部屋を貸し出すわ」
うれしそうに一方的に物事を決めていく麗の姿に、蒐は口をはさむ余地すら与えられない。やっと彼女に問いかけることができた疑問は、当初とは違うものだった。
「でも、ここは椎国城なのでしょう?国王の許可なしに、勝手にわたしのような怪しい者を置いてもいいのですか?」
すると、麗は憐れむような視線を彼に送ってきた。
「本当になにもかも忘れてしまったのね。椎国の麗。そう言えば、誰でもわたくしのことはわかるのに」
「えっと・・・・・・」
「いいえ、いいの。あなたを責めるつもりはないわ。仕方のないことだもの」
「あの・・・?」
「改めて自己紹介するわ。わたくしの名は、麗。椎国の女王として最近即位したばかりなの。だから、この城はわたくしの城。わたくしが自由に決めて大丈夫だから、あなたが気にする必要はないわ」
「え・・・・・・?は・・・・・・?」
蒐の思考が止まる。今また、すごいことを聞いた気がする。
「椎国の・・・・・・女王・・・?」
この少女が?!
「でもまだ、わたくしも周りも馴染めなくて、みな、わたくしのことを『麗姫』と呼ぶけれども」
そのほうがわたくしも好きよ、とくすりと笑って告げた麗の言葉は蒐の耳に届いていない。
ここは椎国。
敵国の城の中。
そして、彼を助けたのは、敵国を統べる女王だったのだ――――――――――・・・・・・。