叶わぬ、不意。
「果酒でもいかがですか、お嬢さん」
渫と蒐がふたりで軽く食事をしていると、どこからか紳士な男が渫に近づき、一杯の酒を勧める。
蒐はそれを横で見て、その男をざっと観察していた。
どこという代わり映えのない、他の貴族たちとも同じ服装だが、目立つのは耳に光る青い石だけだろうか。それも濃紺の衣装のために用意された飾りだと思えば、それも不釣合いなわけではないのだが・・・・・・。
「姉は酒を好みませんので、わたしがいただきましょう」
すっと蒐はその杯を渫から奪い、一気に飲み干す。
一瞬、目の前の紳士がぎょっとした表情を浮かべたのを、蒐は見逃さなかった。
「・・・そうですか、それは失礼いたしました」
それでは、と言って紳士は立ち去る。
さっと蒐は会場内にいる籥を探し、籥は籥で蒐と目が合うと、小さくうなずいた。
「・・・・・・あたし、お酒飲めるけど。なんなの、今の」
「姉さんに寄る悪い虫を退治しただけだよ」
不信がる渫に、にこっと蒐は笑う。ただの弟の独占欲だと思った渫は、苦笑をもらす。
「なに言ってるんだか」
「姉さん、俺少し見回ってくるね。ここにいてね」
「・・・・・・蒐?」
「大丈夫、すぐに戻ってくるから」
ここにいるんだよ、ともう一度念を押して、彼は広間から静かに出て行った。
蒐は広間を出て、中庭に出る。目的地があるわけではない。
さらに先を歩く人物を追っているだけだ。無論、気配を消して。
「・・・蒐」
「籥。・・・やっぱり、気付いた?」
「というか、オレらも気付かれてるな。オレ、さっき毒入りの酒をすすめられたぜ?」
「姉さんも勧められてた。俺が奪って飲んじゃったけどね」
「飲んだ?!大丈夫なのか?!」
「平気平気。あれくらいの毒、なんてことないよ」
そういえば、と籥は思い出す。
蒐と一緒に任務をしていても、彼にはしびれ薬の類は一切効力を示さなかった。
彼は、なにか特異体質なのだろうか。
だが、今はそれを考えている場合ではない。
「あの紳士。何者だろうね」
「まぁ、間違えなく、普通の貴族じゃなさそうだな」
ひそひそと声を落とし、気配を消して、ふたりはひとりの男を追う。
それは、先ほど渫に果酒をすすめた、紳士だった。その果酒には、毒があった。
蒐も籥も、嫌というほど見慣れていることもあり、それはすぐに気付いた。
渫ももっと近づけば気付いたかもしれなかったが、それより先に気付いた蒐が奪って飲んでしまったので、おそらく気付いていないだろう。
蒐は毒を飲むことなど他愛もなかった。
こんな毒は、毎食飲んでいる毒に比べればかわいいものだ。
漆黒の闇の中を、ひとりの紳士と、ふたりの守人が追いかける。
城の敷地を出たあとは、風のようにその紳士は動きを早めた。無論、それに追いつけないふたりではない。
しかし、慣れない礼服が動きを縛るのは否めない。
「あ~脱ぎてぇ・・・・・・」
この緊迫した状況の中で、そんなことをつぶやく籥に、思わず蒐も笑ってしまう。
「こんな暗闇でそんなこと言わないでよ、籥」
「ん?誘ってるみたい?」
「そうそう」
くすくすと笑いながら走るその状況は、決してそんな和やかなものではないはずなのに。
しかし、そのふたりの雰囲気は瞬時に変わる。前を追う怪しい紳士が、くるりと彼らを振り返ったのだ。
男の走るスピードが緩む。それに連れて、追いかける蒐たちの足も緩んだ。
両者の距離は、保ったまま。
「・・・どうする」
すっかり『守人』の気配になった籥が、同じ状態になった蒐に問いかける。
鋭利なまでに冷たい気配を纏った蒐が、いつもとは違う笑みを浮かべる。冷たい、月の光のような笑み。
「追い詰めて、吐かせるか」
なんてことないその言葉すら、そばにいる籥をぞっとさせる。
籥も蒐も隠し持っていた武器を取り出し、その男に近づく。
気付けば、彼らは国境付近まで来ていた。
糺国と椎国を隔てる山々。
その山に入る前の森の中に、今、彼らはいた。
もともと糺国城が国境付近にあるので、それも仕方のないこととはいえ、なぜ『朱石』を保管する国城が国境付近にあるのか甚だ不思議である。
「わざわざ椎国の方が我が国においでとは、ご苦労なことですね」
凛と通る声で、蒐が相手にそう言った。口調もいつもの彼とは違う、静かで冷たい。
「『朱石』をご覧になりたかったのでしょう?残念でしたね」
自らも見ることができなかった悔しさを決して出さずに、蒐は嘲るように笑う。
籥はそんなやりとりを聞きながら、気配を探る。
今のところ、目の前の男以外に気配はない・・・・・・気はするのだが、断定ができない。森の中にいる獣のせいか、気配がまったくないとは言い切れない。
蒐も同じことを考えているのか、目の前の男と話していても気配は探るようにあたりをさまよう。
「・・・・・・あなたがた『守人』も難儀なことですね」
くすり、と目の前の男が笑った。ふわり、と不思議なほど殺気が自然にそこから溢れてくる。その不自然な気配に、思わず蒐も籥も警戒する。
「あの会場内に『守人』は何人いました?あの少人数で『朱石』を守ろうというのですか?我々も見下げられたものですね」
たしかに、『宝』である『朱石』を護衛するための任務だというのに、今夜あの会場にいた『守人』は10人足らず。
だが、それでも『守人』の総数から言えば、それなりの警備なのだが、そう指摘されても仕方のないことだった。
繰り返される任務で、仲間は刻々と減っている。
だが、不思議なことに、『守人』は『殺された』ことはない。『守人』として任務につけなくなるような怪我をして、再起不能となる者が多いだけで、死んだ者はいなかったりする。
それは、『守人』が訓練され超越した存在だからだ、と思っていた。
けれど、目の前の人物の気配を感じて、それは違ったのだと蒐は認識を改めた。
目の前の男も、自分たちと同じだけの技量を持っている。
殺らなければ、殺られる。
籥と蒐が、同時に暗器を取り出し瞬時に目の前の男に向かう。
男もすぐに反応し、どこに隠し持っていたか、剣でそれに応じる。蒐と籥、『守人』としても能力の高いふたりが、男を追い詰めていく。
「さて、お話をうかがえそうですね」
舌なめずりをしながら、蒐が最後の一撃を男に与えようとしたその瞬間、蒐も籥もすぐに男から離れた。
「なんとも、ご優秀な『守人』だ」
目の前の男ではない声。森に木霊して、どこからか特定できない。
それどころではない。
薄く笑う目の前の男を中心にして、無数の気配を感じる。先ほどまでは感じなかったのに。
「我々も一応は隠密行動に秀でているつもりなんですよ」
籥と蒐のふたりの攻撃ではさすがに避け切れなかったか、わずかな傷を負いながらも、男は余裕の笑みを浮かべる。
男の言葉と同時に、その気配の正体が姿を現す。
「・・・やられたな、不意をつかれたのはオレたちか」
「こりゃまいったね」
苦笑をもらす蒐と籥が見たものは、到底ふたりでは敵うはずがない数の、椎国のスパイたちだった。