叶わぬ、祈り。
毎晩、祈る。
今日も、彼らが無事に帰ってくるように。
また一緒に笑えるように。
いつか、本当の「平和」がくるように。
その日は、豪雨だった。
渫は胸騒ぎが止まず、落ち着かずに彼らの帰りを待っていた。それはこんな悪天候のせいかもしれなかったし、そうではなかったのかもしれなかった。
だから、彼らが帰ってきたのが気配で感じられたとき、渫はいつも以上に大急ぎで迎えに行った。
「蒐、籥、おかえ・・・・・・蒐!!!」
籥に抱えられるようにして、蒐が帰ってきたのだ。ふたりの身体から滴るのは雨だけでなく、紅いものも混じっている。
今まで見たことないほど傷ついて帰ってきた蒐に、渫は動揺を隠せない。
「籥、いったいどうしたの?!」
蒐を抱える籥を見れば、籥もあちこちが傷ついていて、立っているのがやっとといった様子だった。
「蒐のやつ・・・・・・オレを庇ってこんな怪我を負って・・・・・・」
苦しそうに籥はそう言って、祠に入る。
と、ようやく仲間のいるところにたどり着いたことが安心したのか、籥の身体からどっと力が抜ける。同時に、彼がぎりぎり支えていた蒐がその場に崩れ落ちる。
「蒐!!」
あわてて蒐のもとに駆けつければ、真っ青な顔で弟は浅い息を繰り返していた。蒐を抱きとめた渫の手が、べっとりとしたなにかを触った。
見てみれば、渫の手は真っ赤に染まっていた。
血だ。
「蒐、どこに怪我を?!」
「・・・足と腹部だ。特に、腹部がひどい」
壁にもたれるように座る籥が、苦しそうにそう告げた。そう言っている籥も、右肩に真っ赤な染みをつくっている。見ればもっと傷はあるに違いない。
「う・・・・・・姉さん・・・?」
うっすらと目を開けて、脂汗を浮かべながらも蒐は渫を呼ぶ。
「蒐?!しっかりして」
「・・・大丈夫、まだまだ平気」
今にも消えそうな弱々しい声で、それでも渫に心配かけまいと、蒐はにっと笑う。それが渫の心をきつく締め上げる。
「全然大丈夫そうには見えないわ。・・・・・・待ってて、他にも呼んでくるから」
渫ひとりでは、こんなひどい怪我を負った蒐と籥を同時には診れない。
彼女は仲間と共にふたりを運び入れ、すぐに手当てを施した。
普段から薬物に対するあらゆる抗体を身につけていた蒐は、麻酔作用のある香を焚いても傷の苦痛が和らぐことはなかった。
籥はすばやい処置の成果と、睡眠・麻酔作用のある香の効果で、今は静かに眠っている。
だが、その隣で同じ香をかいでいるはずの蒐は、苦しそうに小さく呻いている。それも、決して誰にも見られまいとするかのように、小さく身体を縮めて、聞こえるか聞こえないかの声で苦しみの声をあげる。
けれど、渫にはしっかりと聞こえている。
こうなることが、一番怖かった。
籥も蒐も、戦闘員として毎晩任務にでかけてしまって、こうなってしまうのが一番怖かった。
もっともっとひどいことになってしまうのは、考えるのも恐ろしかった。
どんな深夜に帰ってくることになっても、必ず起きてふたりを出迎える渫に、籥は苦笑しながら「遅いときは先に寝てればいいのに」と言ったこともあったが、眠れるはずなどなかった。
ただひたすらに、祈る。
無事に、ふたりが帰ってくるように。
月だけが彼らを見守ってくれるのなら、渫は月に、必死に祈る。
「珍しいの、籥と蒐がそんな怪我を負ってくるなど」
籥と蒐が眠る部屋に入ってきたのは、彼らの頂点であり司令塔でもある、長。その表情はいつになく、険しい。
「具合は?」
「籥の怪我は、数日寝ていれば、動けるようになると思います。蒐はもう少し時間がかかるかと・・・・・・」
「ふむ・・・」
渫の冷静な報告に、長はむすっと黙り込む。任務の配分を考えているのか、それとももっと重要ななにかを考えているのだろうか。
「・・・・・・長・・・」
渫と長の耳に、蒐の弱々しい声が届く。なにか苦しいのかと思い、渫はすぐに蒐のもとにかけつけたが、渫の姿を確認するや否や、蒐は首を小さく横に振った。
「姉さんじゃない、長に話があるんだ」
小さく、けれどはっきりと蒐はそう言った。まだ口を開いて話すだけでも傷に響くはずなのに、その苦痛を顔に出すことなく、蒐は長に視線をよこす。
長も蒐のその必死な視線に気付き、彼のもとに歩み寄る。
「どうした?」
「・・・・・・情報が、漏れている気がします」
「なんじゃと?」
「・・・昨日の俺と籥の作戦、配置、知っていたのは誰ですか?・・・まるでこちらの動きがすべて筒抜けであるかのように、先回りされていた・・・・・・」
そこまで言って、うっと蒐は苦痛に顔を歪める。
「それだけじゃない。あちらの数は、報告にあった以上の数だった。・・・・・・まったく、生きて帰れたのが奇跡だと思ってくださいね、長」
ため息とともに、いつの間に起きたのか、籥がそう言った。恨みがましい視線を長に送っている。
「して、その敵は何人逃した?」
「まさか。ちゃんと全滅させてきましたよ」
栄誉の傷ですから、とくすりと籥は笑う。予想外の出来事、人数、ハプニングが続いても、籥と蒐のコンビなら「守人」の任務は違うことなく遂行される。
長もまた、ふたりのその性格をよく理解していた。
「・・・だが、そこまで情報に漏れがあるのは問題があるの。・・・・・・少し妾はでかける。渫、ふたりをよく診ておくように」
「はい」
厳しい顔をした長は、そのまま蒐と籥に労わりの言葉を軽くかけて、その場を後にした。
情報が漏れている。
それは想像以上に、厳しい状況だと渫も思った。
いつだって命と隣り合わせの任務だ。命を賭けた任務が敵に知れているのなら、それだけでこちらは不利になる。
なにより、彼らの任務は、『朱石』の守護。それを守ることができず、敵国にわたるようなことがあれば、王は守人を許しはしないだろう。
それだけ、情報が漏れれば危険だというのに、蒐と籥を苦しめるほどそれは正確に伝えられていた。
内通者がいる。
それはもう、避けられない事実のようだった。
共に過ごしてきた仲間に内通者が?
仲間たちだって命の危険に晒されているというのに?
渫はとっさに疑わしい人物を頭に思い描く。
「・・・だめだ、姉さん」
その思考を止めたのは、蒐の小さな声だった。
「姉さんは、そのまま研究だけ、してて・・・・・・。内通者は、俺が必ず、見つけるから・・・」
「・・・蒐・・・」
蒐は傷だらけの腕を伸ばし、渫の手を握る。彼女は、泣きそうになりながら、蒐に祈るように言った。
「お願い、蒐。あたしのお願いを、ひとつだけでいい、聞いて欲しい」
「・・・・・・なに?」
「約束を、してほしいの」
「約束?」
「・・・必ず、どんなに怪我をしても、傷ついても、必ず、あたしのもとに、帰ってきて」
あの笑顔で、あたしを安心させて。
渫の必死な願いに、蒐はやわらかく微笑む。
蒐には、帰る場所は最初からそこにしか、ないのに。
「・・・うん、わかった」
小さくうなずくと、彼はそのまま沈むようにして、眠りについた。