望めぬ、温もり。
「・・・・・・だから、言ったのに」
「・・・うるさい」
「姉さんと俺じゃぁ、体力が違うんだって」
「うるさいうるさいうるさーい!!」
「はいはい、渫も蒐もそこまで」
緑が苦笑しながら、渫の部屋に入ってくる。蒐は、緑に止められて憮然とした態度で押し黙った。
「とにかく。姉さんはそれ以上無理しないでゆっくり休んでね。『薬』は作り置きを飲むから、心配しなくていいし」
蒐はそれだけ言うと、さっさと渫の部屋を出て行ってしまった。
「あらあら。渫が寝込んで、蒐もさみしいのかしら」
緑がおもしろそうにくすくす笑っているのを、渫は床に入りながら困ったように見上げた。
「・・・迷惑かけちゃってすいません、緑さん」
「あら、せっかくなんだから甘えて頂戴」
にっこりと、緑は笑って冷えた手拭を渫の額に乗せた。
渫が、風邪を引いた。
とはいえ、そこまでひどいものでもないのだが、念のため、1日床につくことになった。
最近の学舎の勉強は、以前よりもハードルが高くなってきている。2年で学位をとろうとしているのだから、当然といえば当然。
そのため、時間を惜しんで勉強することが多くなった。おのずと、減るのは睡眠時間。
隣の部屋にいる蒐も、夜遅くまで机に向かっているのが気配でわかる。
蒐もできるのだから、自分にだって睡眠時間を削るくらいできる、と渫は過信して蒐と同じ時間だけ勉強し、眠る日々を送った。
結果が、これである。
蒐は渫が日々睡眠不足でふらふらしているのに無論気付いており、何度となく注意を促したのだが、「蒐だって同じことしてるじゃない!」という一喝のもと、切り捨てられた。
「姉さんと俺とじゃ体力が違うんだから」
先ほどの蒐の言葉が、渫の耳に残る。
そう、ここ最近の蒐は、男らしくなった。
体つきも以前よりもたくましくなっているように思えるし、いつのまにか背の高さも渫を追い抜いている。
身体能力が高いのは昔からだから気にしていなかったが、体力も蒐の言うとおり差が出てきているようだった。
実際渫が蒐と同じ生活をしてみて、蒐の底抜けの体力を思い知らされている。
あれだけの少ない睡眠で、なんでああも毎日にこにこと元気に過ごしていられるのか。
精神力の強さもあるのだろうが、正直言えばうらやましいし、ねたましい。
「渫?」
ふてくされたように布団をかぶる渫を心配して、緑が声をかける。
「渫?平気?具合悪いの?」
心配そうに、緑が渫の顔を覗き込み、冷たい彼女の手を渫の額に乗せる。
ひんやりとした感覚が、熱を持った額に気持ちよかった。
それ以上に。
そんな人のぬくもりや、優しさが渫にはなによりもうれしかった。
「大丈夫」
「無理はしないのよ、渫。いくら学位のためとはいえ、身体を壊したら意味がないんだからね」
「うん」
素直にうなずく渫に、緑は笑みを落とす。
「本当に、渫も蒐もがんばり屋さんね。学位をとって村に帰ったら、ご両親はお喜びになるわね」
緑の何気ない言葉に、渫は息を呑む。
両親。
それは、渫も蒐も、とうになくしたものだった。
渫や蒐にとっては、長がすべての絶対の存在。
ふたりにとって、籥だけが兄のような家族の存在。
緑が描いているような、学位をとってそれを褒めてくれるような両親は、いない。
母の愛情というものを、渫は知らない。
だが、緑とずっと暮らしてきて、その無償の優しさを受けて、これがそうなのかもしれないと思うようになってきた。
けれど、学位をとったら緑とは離れないといけない。
このままがんばれば、おそらく学位は予定通り2年でとれる。残った時間はあと少し。
そうしたら、緑とは別れる。
「・・・・・・さみしいな」
「ん?」
ぽつん、とつぶやいた渫の言葉に、緑が聞き返す。
「あたし、緑さんと離れるの、さみしいな」
「ま、うれしいことを言ってくれるのね。私だって渫といつかはお別れしなくちゃいけないのはさみしいわ。でも永遠の別れじゃないもの、いつでも遊びに来ればいいのよ」
渫を安心させるように微笑み、そっとその手で渫の顔を撫でる。
渫もそれに甘えるように目を閉じて、そのまま眠りについた。
緑が台所に戻れば、蒐が懸命になにやらつくっていた。
「蒐?」
「あ、緑さん~。俺、失敗しちゃったかも」
あわてた様子で蒐は緑に飛びつき、今火にくべているものを指差す。
見た様子だと、お粥をつくろうとしていたようだ。
「大丈夫、おいしそうよ」
そう言ったあと、鍋を覗き込んで軽く味見をして、再び緑は満足そうにうなずいた。
「ほんとに?!」
ぱぁっと明るい笑顔を取り戻して、蒐は緑に確かめる。
「本当よ。今、渫は眠ったから、あとで届けてあげましょうね」
「うん!!」
もうすっかり青年となった蒐だが、それでもこの人懐っこさと明るさは失われない。
蒐は、緑とのこの生活の1日1日を大事にしていた。
いつかはなくなってしまうものだから。
この温もりをくれる彼女と、そしてこの空間はいつかは手放すものだから。
せめて、今はそれを大事に。
渫も蒐も、覚悟はあった。
でも、惜しい気持ちもあった。
そんな気持ちを抱くことすら、禁じられているのだろうけれど。
ふと、学位を得る前の籥のことを思い出す。
そういえば、籥も落ち込んで里に戻ってきては、渫と蒐とたわむれて、町に戻っていった。
籥もさびしかったのだろうか。
それをきっかけに、蒐は籥のことを考えて、懐かしく思う。
緑との明るい穏やかな生活も好きだが、籥との緊張感ある手合わせも好きだった。
今、籥は里でなにをしているのだろうか。
蒐の中で、緑への思いと、籥への懐かしさが交錯する。
それは、彼にとっては贅沢な思いのような気がした。
そんな、幸せな時間を壊す知らせが、間もなくやってくるとは知らずに。