望めぬ、克服。
誰にでも、苦手なものはある。
緑は、羽の生えた虫が苦手だった。
台所にそういう類のものが出没すると、声にならない悲鳴をあげて、しばしば蒐に助けを求めた。
「だって、どこに飛んでくるかわからないじゃない!!」
なんでそんなに嫌いなの、とたずねた蒐に、訴えるように緑は言った。その目には涙すら浮いている。
「でもさ~別に害はないんじゃない?飛んでくるだけでしょ?」
「気持ち悪いじゃない~」
緑のこの感覚は、森で育った渫と蒐には理解しがたい。
虫は特に害はない。たしかに時々毒をもつ虫はいるが、この町にいる虫は害のないものばかりだ。
それに、そんな呑気なことを言っていられるのも、戦場ではないこの町ならでは、といったところだろうか。
戦場と化した貧困した町と、王の庇護を受ける栄えた町。
その格差は年々広がる一方だ。
「・・・で?今日はどこにその虫が出たの?」
「・・・・・・・・・あっち・・・」
涙目の緑に苦笑しながら、蒐は彼女の指差す方向へ向かった。どこに飛ぶかわからない、害のない彷徨った虫を外へ逃がすために。
「そういえば、籥の苦手なものも飛ぶものだったね」
食後にゆったりと3人でお茶を飲んでいたとき、ふと、蒐が思い出し笑いを浮かべながらそう言った。
今日の『薬』は難なく彼の身体に抗体をつけさせたようで、何の変化もない。
渫はそれを確認し、ほっとしながらも、うなずいた。
「そうね、籥もだめだったわね」
「籥って人は渫と蒐のお友達?」
ふたりの会話を聞いて、緑がたずねてくる。蒐は『友達』というものを頭で描いてから、軽く首を振り、笑顔でうなずいた。
「うん。大事な仲間だよ」
「そう、仲間・・・・・・。・・・それで、その人も飛ぶものがだめなのね。やっぱり虫は誰でも苦手なものよ」
「違う違う」
渫と蒐がくすくすとおかしそうに笑うのを、緑は不思議そうに見るしかできない。
「籥はね、鳥が苦手だったんだ」
「鳥?鳥って・・・・・・あの、羽のある、鳥?」
緑も自分で言いながらまぬけだとは思いつつも、思わず確認してしまう。
鳥が苦手、という人物もあまり聞いたことはない。
「そうなんだよ~。鳥を見るのもだめで、料理なんて絶対口にしないし」
蒐はそう言いながら、籥との森での生活を思い出していた。
「絶対にオレは『あれ』には関わらない!!」
森での修行中。
蒐は、気まぐれで森の中にいる鳥類を狩っていたのだが、それに籥を誘うと意外にも籥からは必死なお断りの言葉が返ってきた。
いつも巨大な獣を追い掛け回す狩りなど、喜んで参戦してくるというのに、珍しい反応だ。
「関わらないって・・・・・・鳥に?でも、鳥は狩っていけば長も喜ぶよ~食えるし」
にこにこと、先ほど小刀で捕らえた鳥を持ち上げながら蒐は言うが、籥は後ずさりしながら首を横に振った。
「オ、オレはそんな料理、食わないからな!!」
「・・・・・・籥って、鳥料理嫌いなの?」
「というか、あたしには鳥そのものが苦手みたいに見えるけど?」
木の上で言い合っていた籥と蒐の下で、彼らを見上げるようにして渫がそう言った。その顔は意地悪そうに微笑んでいる。
「なっ・・・!!渫!!」
「へ~その顔は図星ってこと?」
焦る籥に、渫は追い討ちをかけるようにくすくすと笑う。蒐ももちろん、目を輝かせて籥に飛びつく。
「ほんとに?!籥ってば鳥が苦手なの?!」
「わ~!!そんなもんオレの傍に持ってくるな!!」
狩った鳥を片手に籥に近寄った蒐に、彼は大騒ぎして離れた木の枝に飛び移る。
「でもさ~俺、よく奇術で鳥を出したりもしてるけど・・・・・・」
あ、でもそういえば、と蒐は思う。
奇術で鳥を出すときは、なぜかいつも籥はそばにいない。
「ふ~ん、鳥が苦手なんだ~」
にやにやと渫も笑う。蒐もにこにこと笑いながら首をかしげる。
「なんでなんで~?鳥はかわいいし、うまいじゃん!!」
「空を飛ぶなんて奇怪な行動をとる生物に、オレは興味なんかねぇぇぇぇ!!!」
それだけ叫ぶようにして言い残すと、籥はさっさとふたりのもとを逃げるようにして離れていった。
「鳥の習性を、奇怪な行動と言ってのけちゃうあたりからして、籥は相当鳥が嫌なのね」
「今度、籥の食事に鶏肉の欠片でも入れておこうか」
いたずらっ子の笑みを浮かべる蒐を、あえて渫も止めたりはしなかった。
そんな蒐にも苦手なものがある。
姉の渫の困った顔や泣き顔、というのもあるが、それとは別にもうひとつある。
それは、辛いもの、だった。
舌を少しでも刺激するような辛い食べ物は蒐は苦手だった。緑の料理はおいしいので、蒐はいつもおかわりをするくらいよく食べるが、緑がある日辛口の夕飯を出したときは、蒐は一口食べただけでそれ以上は食べれなかった。
逆に、渫は辛いものが好物なようで、蒐が大騒ぎして口にできないでいるのが理解できない。
「まったく、蒐はお子様ね~。この味付けが刺激的でおいしいんじゃない」
「こんな辛いの食べたら、舌がおかしくなっちゃうよ!!」
「そんなに辛かった?加減したつもりだったんだけど・・・・・・」
「いいのよ、緑さん、気にしないで。蒐のわがままだもの」
困ったように蒐を気遣う緑に、渫は手でそれを制した。そして、弟にはじろりと無言の威圧をかける。
「うぅ・・・・・・ごめんなさい・・・」
しゅん、とうなだれて緑に謝るものの、結局蒐は、その夕飯を食べることはできなかった。
ではそれほどまでに辛い食べ物だったのか、といえばそんなことはない。
小さな子供だって「ちょっと辛いかも?」と思いながらも食べれるようなものだ。
あらゆる感覚が研ぎ澄まされている蒐ならではの特異体質のせいか、日々飲み続ける毒のせいか、蒐はとにかく辛い食べ物だけは受け付けなかった。
その反動か、見ている側も胃もたれしそうなほど、甘いものは好きなようだったが。
では、渫の苦手なものは。
「・・・・・・これ、姉さんがつくった?」
ある日の夕飯、蒐はある一品を指差して顔をひきつらせた。緑が苦笑しながらうなずく。
「そうなの。途中までは一緒につくっていたから、普通の味だったと思うんだけど・・・」
「・・・姉さん、また余計な味付けしたの?」
「よ、余計なんて失礼な!!・・・ちょっと失敗しただけよ」
渫は、料理がとことん苦手だった。
特に味付け。
あれだけ複雑な毒薬やら、しびれ薬やら、様々な調合ができるというのに、それと料理は別物らしい。
緑と一緒に料理をすれば、その手順はすぐに覚え、模倣することもできるのだが、どうも研究肌の彼女にはそこでとどまることができないらしく、オリジナルの味付けを求めて味を変えてしまう。
そして、そのオリジナルの味付けは、今まで一度も成功したことがない。
それを、一応本人も自覚していたりする。
「俺、姉さんとふたりで暮らすようになったら料理は俺がやるからね」
「なんで?!あたしの料理に文句あるの?!」
「そりゃぁ・・・・・・ねぇ・・・・・・」
なにをどう調理したのか、見るも無残な料理の一品に、蒐は視線を落としてため息をつく。
「こ、これはたまたま失敗しただけよ!!」
「・・・俺、姉さんのことは信じてるけど、姉さんの料理の腕だけは信じられないな~」
蒐のぽつりとこぼした一言に、思わず緑も小さくうなずいてしまうのだった。
誰にでも、苦手なものはある。
だが、とりあえずこの4人はそれを克服することはできなさそうだった。