俺の目の前で妻が浮気している……
俺は、部屋の隅にいる。
なぜか今日になってから、俺の体を誰かがしきりに引っ張っているような感じがするのだが、今はそんなことはどうでもいい。
問題は、俺の目の前で起きていることだ。
こともあろうに俺の妻が、ほかの男とイチャついているのだ。
この男には見覚えがある。
このアパートの1階に住んでいる、一見ホスト風の軽そうな男だ。
俺は、やめろ! と怒鳴ったが二人とも夢中で聞こえないらしい。
頭にきて、こいつらを殴ってやろうと思ったが、どういうわけか体が言うことをきかない。
その時、上気した顔で妻が俺をチラッと見た。
明らかに、俺の目を気にしている。
当たり前だ。
夫である俺の目の前で堂々と浮気をしているのだから、気にしないやつがどこの世界にいる?
妻は、こんな女だったか?
いや違う。
おとなしく従順で、俺の前でこんな痴態を晒す女ではなかったはずだ。
夫婦生活は、確かにうまくいっていたとは言えない。
かといって、まったく没交渉だったわけでもない。
普通、結婚してそれなりの年月が経てば、どこの夫婦だってある程度は冷めた関係に変化していくものだ。
俺と妻も例外ではない。
結婚当初の熱狂的な愛情は次第に冷めて、いつの間にかお互いが空気や水のような、居て当たり前の存在となっていく。
だが妻は、まだ30過ぎの肉体に抵抗できなかったのかもしれない。時々一人で処理していたことを俺は薄々知っていた。
妻は肉欲の沈静化を俺にではなく他の男に求めた。
それが1階のホスト風の男だったというわけだ。
だがそれにしたって、俺の目の前で堂々とイチャついているとは、こいつらどういう神経をしているのだ?
俺に見せつけているのか? そう思っていると、
「ダメよ。ここじゃ。夫が見ているもの……」
妻が言った。
多少なりとも妻は罪悪感を感じているようだ。
男も俺の方をチラッと見る。
「大丈夫だよ。気にすることはない」
と、平然と言い返した。
俺は、唖然とした。
気にすることはない、とはどういうことだ?
二人とも、その行為を誰かに覗れることに、喜びを感じる性癖でもあるのか?
妻の柔らかい抵抗を感じ取ったのか、男が言った。
「わかった。じゃあ、こっちにおいで」
男は妻の手を引っ張って、隣の部屋に移動した。
「ここなら、いいだろう?」
「ええ。でも……」
妻は、再び俺の方をチラッとみる。
男はその様子に舌打ちしながら、俺がいる部屋との間にある障子をピシャっと音をたてて閉めた。
隣の部屋から衣服が擦れる音が聞こえてくる。
その時、玄関のチャイムが唐突に鳴った。
「でなくちゃ」
妻が男に言う。
「いいよ。そんなもの放っておけば」
男が言ったが、妻がそれを振り切って玄関に行く足音がした。
残された男の舌打ちが聞こえた。
玄関の方から、途切れ途切れの声が聞こえてくる。
「警察の者ですが……下の階の……がここに居ますよね? 隠しても無駄です。張り込みをしていましたから……車による計画的轢き逃げ……殺人容疑の逮捕状はこれです……奥さんにも共犯の疑いが……同行願います……」
男は、びっくりした様子で窓から逃げようとしたが、私服の警察官が素早く部屋に入ってきて、男の身柄を確保する。
妻は、警察官の隣でおとなしくしているようだった。
俺は、事態がよく呑み込めなかった。
轢き逃げして殺したって? 誰を?
その時、俺は思い出した……
一月半以上前の夜に、帰宅途中で狭い道路を歩いていた時、すごい勢いで突進してきた車に俺は……
妻が警察官に何か言ってから、俺の方に歩いてきた。
ひざまずいて手を合わせ、小声で言った。
「あなたが憎かったわけではないの。ちょっとしたことから私、あの人と関係を持ってしまって……気づいたらあの人の体から離れられなくなっていた……仕舞には脅されて……ごめんなさい……今日は四十九日なのに何もしてあげられなくて……どうか成仏してくださいね」
そう言って線香を消してから、妻は警察官のところへ戻り、二人は連行された。
アパートの玄関のドアがバタンと閉められた後、急に静かになった。
……そうか、俺は死んじまったのか……
再び、誰かが俺を引っ張り、どこかに連れて行こうとする。
俺にはもう抵抗する力が無かった。
だんだんと意識がもうろうとしていく中で、うすぼんやりと思った。
……四十九日って、まだこの世に留まっている死んだ者の魂が、あの世に迎えられる日だったな……