第98話
害されず扱えるようになったとて、自発的に立体魔法陣は展開できない。
セオドアの協力は不可欠だが、それでもエルシィにとっては十分な進歩だった。
呆然と立ち尽くすイザベルを見つめ、セオドアと聖女の隣に並び立つ。
凛然と構えるエルシィに対し、イザベルは両手で己の口を覆うと、突如としてはらはら泣き始めた。
それは純粋に悲しんでいるように見え、思わず狼狽えてセオドアと顔を見合わせる。
「ああ、……ああ、どうしてなの、エルシィ。あまりに痛ましいわ」
「痛ましいって……」
「わたくしは、あなたが可哀想でならないのです。死を受け入れたという事でしょう? 生への望みを捨てたという事でしょう? あまりに可哀想だわ」
「っわたしの存在を消えろと願うあなたに、何も言われたくないわ!!」
あまりにも傲慢な物言いに、エルシィは声を張り上げる。
しかしイザベルは涙に濡れた双眸で、流れる雫を拭いながら、視線を下向かせた。
「違うのです、エルシィ。あなたがセオドアの前から消えてくだされば、わたくしは望まないのです」
「それは無理だわ。言ったでしょう? あなたにセオドアさまは渡さない。……この人は、これまでもこの先も、わたしの旦那さまよ」
隣り合う指先が絡んで、強く握りしめる。皮膚を通して鼓動が混ざるように、呼吸を合わせて心音を伝える。
聖女二人の足元に魔法陣が描き、背後でシテラとフェイが本性を現し威嚇した。
メイイェンが険しい表情のまま、一歩片足を踏み出したところで、イザベルが薄ら笑いを浮かべてエルシィを見つめ返す。
「……あなたの選択はいつだって、セオドアを殺してしまうのに? それは利己的で傲慢な、あまりにセオドアが可哀想で、憐れだわ」
言葉は血流を犯して、心臓の動きを止めてしまう力があるのだと、そう思った。
一瞬の判断の遅れが仇となり、イザベルは自らの周囲に立体魔法陣を展開する。唸り声で空気を震わせたシテラの鋭い槍が、空間を歪ませる勢いで地面に突き刺さるが、そこにはもう女の姿はなかった。
メイイェンを背後から抱き上げたフェイも、イザベルが居た場所に移動し周囲を見渡すが、それまで倒れていた軍勢すら丸ごと消えてしまっている。
恐らくイザベルが立体魔法陣を使って、転移したのだろう。
彼女がホールボームの軍勢を連れて行ったとなれば、氷の帝国に移動している可能性が高かった。
エルシィは真っ青な顔で唇を戦慄かせ、両手の平に爪を食い込ませる。
「……エルシィ」
激しい憤りで満足に言葉も出ないエルシィに、セオドアが声をかけた。
己の緩慢な動作にすら苛立ち顎を上げると、唇に柔らかで少し乾燥した感触が伝わり目を瞬かせる。
「大丈夫だぜ、奥さま。言わせておけばいい」
「……ごめんなさい」
「君が居ない世界なんざ、俺は生きてる価値を見出せない。君に殺される? 結構結構。俺だって同じ立場なら君を殺す」
軽口めいた物騒な言い方だが、見つめる双眸はあまりに真剣だ。
「俺が居ない世界で、誰かが君に触れるって考えるだけで、気が狂いそうだ」
抱きしめられた耳元で囁かれる声に、きっと嘘はないのだろう。
死すら二人を分つことを、赦せないほど。
エルシィはセオドアを強く抱きしめ返してから、数秒ほど視線を交えた後、腕を離してトゥルバとチェンノッタに近寄った。
ヨヒラの魔法で回復したが、一旦、状況を確認するのに戻った古城へ戻った方が良いだろう。
オウム状態に縮んだウィズィと、いつもより一回りほど小さいサボテン状態のルーシェが、控えめに聖女から離れて様子を伺っていた。
「二人とも、トゥルバくんとノッタくんを、守ってくれていたんでしょう? ありがとう、怪我はない?」
「当然当然!」
「はい、大丈夫です」
受け答えは普段通りに聞こえるが、どことなく覇気がない。特にルーシェは体力を消耗しているのか、微かに気道を抜けるような呼吸音が混ざっていた。
エルシィがトゥルバへ顔を向ければ、彼は眉間の皺を深めたまま、ルーシェを見つめる。地面に座り込むチェンノッタは、セオドアに抱き上げられると、ハッとして彼の顔を見た。
「っウィズィのこと、診て、セオドア! 全然平気じゃない、だってあの女の立体魔法陣に直で触れ続けてたんだよ!?」
「イザベルの?」
顔色を変えたセオドアがチェンノッタをエルシィに預け、ルーシェの上に留まるオウムの前に来ると、ウィズィはやや視線を泳がせる。
「おうおうおう御尊父ヨォ! 俺様はこの通りピンシャカしてっから他の痛ぇええ!!」
「何がピンシャカだアホ、さっさと元の姿に戻れ」
ウィズィの胸部に触れた親指が、普通ではありえない位置まで食い込み、エルシィは言葉を失った。
流石に悲鳴をあげて翼をばたつかせた側から、尋常でない羽根が抜け落ちていく。
ルーシェと同様、呼吸音に歪な音が混ざり始め、チェンノッタがエルシィの腕から飛び降りて走り寄った。
「ウィズィ!!」
「う、うぐ、イッテェけど、だいじょ、ぶだって」
「いいから早く元に戻れよ! 全然大丈夫じゃない!!」
涙ながらに訴えるチェンノッタに、オウムは言葉を詰まらせ、緩やかに形を変える。
ヒルギ科植物は、ルーシェを護ように根で包み込んで、その巨体をセオドアの前に晒した。
絶句するセオドアの隣にきたエルシィは、ウィズィを見上げて両手で口を覆う。
異常なほど幹から突き出した枝が入り組み、木のうろを塞いでいた。脳を模した頭頂部はデコボコと大きく膨れ、普段は体表を潤している青い体液は蒸発し、ところどころ干からびている。
それなのに一部は腐敗し、ぼとりと地面に木の根が崩れ落ちた。
シテラが一度受けた傷の比ではない。エルシィの感覚からすれば、いま動いているのも不思議なほど酷い状況だったのだ。
すぐに処置を、と腰のホルダーから万年筆を取ったセオドアに、チェンノッタが追い縋る。
「僕もやる」
「チェンノッタ」
「ウィズィは僕の家族だよ。僕もやる。何をしたらいいの」
涙を拭いて足元に魔法陣を展開するチェンノッタは、己の幻想生物を見上げて唇を噛み締める。
「…………僕だって、できるよ」
少年を見おろしたウィズィは、細い木の枝を蔓のように伸ばし、小さな片手を繋いで握りしめた。




