第97話
大きく息を吸って、吐き出す。
鼓動の動きは確かに緩やかさを帯びてくるが、それでも鮮明な視界の向こうで、立体魔法陣が引き裂かれて破壊される。
爆発は一瞬の凪いだ静寂を連れ、空に穴を開けるほどの威力で悪意を吹き飛ばした。
セオドアに支えられたエルシィは、再度深呼吸した後、慌ててトゥルバ達に振り返る。
「みんな!!」
地面に片手をつき、力の入りにくい体に鞭打って駆け寄った。
体躯をずらして道を作ったルーシェの向こう、顔面蒼白のトゥルバと、彼に抱えられた意識のないチェンノッタを抱きしめ、涙を滲ませながら頬を寄せる。
「気がつくのが遅くなって、ごめんなさい、大丈夫よ、もう大丈夫」
何度も背中を撫でて労われば、トゥルバがひくりと喉を鳴らして、エルシィの衣服の裾を弱く掴んだ。
短く早い呼吸音が口から漏れて、今にも泣き出しそうな己を律し、彼は左右に首を振ってエルシィにチェンノッタを差し出す。
呻いた少年は緩やかに目蓋を開け、エルシィの顔を見つめると、大きく目を見開いた。
「ママ……!」
悲鳴に似た声で抱きつくチェンノッタに、エルシィを抱きしめ返して安堵の息を吐き出す。
ハープシコードの古城で彼らを待っていたエルシィたちは、飛び地の方角で空が変わる様子を目の当たりにしたのだ。
しかしイザベルの力のせいか、転移魔法が上手く機能せず、加勢に入るのが遅れてしまったのである。
「っお袋殿、大丈夫なのか、この状況は……!?」
涙が滲んだ目蓋を無造作に腕でふき、我に返ったトゥルバが周囲を見渡した。
セオドアの隣に並んだルヴィナとメイイェンや、トゥルバ達に回復魔法を施すヨヒラ達も含めて護るように、ロータスは大輪の花を開花させたままだ。
心配するトゥルバに、エルシィはなるべく穏やかに笑った。
「大丈夫。受け入れることを決めたから」
トゥルバ達が戦闘状態になる前。
古城に戻ったエルシィはセオドアに、ルーシェから言われた事を話していた。
母体樹という存在の自分に、宿る神を産み落とし、新しい終焉の時を迎えて欲しいのだと言うことを。
「……俺が行く前より先に、大事な事を奥さまに伝えておく手段は、なかなか姑息だな」
「そんなことを言わないで、旦那さま」
険しい表情のまま苛立たしげに悪態をつく彼に、エルシィは眉を下げて胸の前で指を組んだ。
ルーシェが先にエルシィへ重大な話をしたのは、セオドアが一緒では切り捨てられると思ったからだろう。そして恐らくその判断は正しく、エルシィの心はセオドアの意向に反する形で、決まりかけていた。
彼は長い前髪を掻き乱し、暫し返答に迷ってから、エルシィの腕を引く。
背中に回して抱き合うと、衣服越しに聞こえる心音が混ざり合うような錯覚がした。
「……君の決定が俺の自由意志だ。君は、……そうしたいんだろ?」
「…………ええ」
自分の体がどうなっているのか、よく分からない部分もある。
けれど、イザベルが創造し続ける世界が正しい選択だとは、到底思えない。
ここはエルシィがセオドアを諦めるように、多くの幸福が用意された、エルシィにとって都合の良い世界だ。
マシュー第一王子とカロライナの三人で、久しぶりに顔を合わせて笑い合ったが、それすらも本当の出来事ではないのかもしれない。
五人の聖女がエルシィを慕い、穏やかな笑顔を見せてくれることすら、本当は間違いであるのかもしれない。
そう思ってしまう事が、いやなのだ。
彼らの親愛を、ずっと信じていたいのに、世界の全てが邪魔をする。
エルシィが向ける愛情も、向けられる親愛も、他人によって創造された物でないことの証明が、何一つ、エルシィには出来ないから。
堪えきれず涙が溢れて、セオドアの胸を濡らす。
エルシィは唇を噛み締めて目蓋を閉じ、彼に縋って囁いた。
「わたしは進むわ、旦那さま」
「…………」
「進んだ先にある世界で、この想いが嘘でない事を、証明してみせる」
顔を上げれば筋張った指先が輪郭を撫でて、セオドアが眉を下げつつ笑う。
「それでこそ、俺の奥さまだぜ。俺は君の手となり足となる。如何様にもこき使ってくれ。……いつでも、どんな時でも、俺と君は共にあるんだ」
だが、と彼は言葉を切って、不貞腐れ気味に唇を尖らせた。
甘える子供に似た仕草に目を丸くすると、セオドアの片手がエルシィの腹部に優しく添えられる。
「ちょっとムカつく事は、許してくれ」
「え?」
「だってここに、どこぞの馬の骨かも分からねぇ奴の子が、宿ってるって、そういう話だろ?」
「えっセオドアさまの子じゃないの!?」
急に生々しい話題を振られて、エルシィは真っ赤になり、つい口を滑らせた。
ポカンと口を開けるセオドアを目の当たりにし、彼女は自身の失言に気がついて、慌てて両手を左右に振る。
「わっ、わた、違う、違うの、ごめんなさい言葉のあや!!」
「俺はいつの間にか概念童貞を脱したということか……!? 夢の中で君と交信した!?」
「微妙な言い回しをしないでばかっ! そうじゃなくて、そうじゃなくて……っ」
エルシィは必死に弁明の言葉を探し、けれども同じく混乱するセオドアを前に何も浮かばず、観念して肩をすくめた。
「…………ルーシェさんが、言ってたの。……宿った種はこのままいけば、ちゃんと開花するって」
「どうして分かるんだ?」
「………………受け入れたでしょうって」
ルーシェ曰く、母体樹に宿る種は、本人の意志だけではどうにも出来ないという。
彼女がどうして詳細に知っているのかは、ついぞ口を割ってくれなかったが、種の発芽には条件があるのだ。
それはエルシィが受け入れること。
身を委ね、想いを重ね、愛する人を心に受け入れること。
エルシィは初めてイザベルの立体魔法陣を退けた時、確かに受け入れた。
どんなに浅ましくとも、どんなに蔑まれようとも、誰にも暴かれない一番奥へ、届いて欲しいと──受け入れたのだ。
羞恥に居た堪れず俯いていたエルシィは、何も言わないセオドアに流石に不安が込み上げ、恐る恐る顔を上げた。
エルシィ以上に首まで赤くし、いや、全身赤いのではないか思うほど、真っ赤な顔でセオドアが口を開閉させる。
「……それは、…………あ、いや、……そう、か。……茶化して、すまん」
本気で緊張しているのか、動揺しているのか、そろりとエルシィから手を離す彼に。
エルシィは思わず吹き出して、踵を上げてキスをした。
「茶化さないで、ちゃんと言ってセオドアさま。わたし、逃げも隠れもしないから」
セオドアの表情が泣きそうに歪んで、強く抱きしめられて、心臓が鼓動を急がせ熱が上がる。踵が僅かに浮けば唇が重なり、奥底から一つの感情が泉の如く湧いて広がっていく。
しかしエルシィはいつもと違う感覚に、目を瞬かせた。
足元から徐々に大輪を開花させるロータス。しかし意識は奪われる事なく、湯に浸かったように体の芯を温める。
それは死に向かう恐怖ではなく、共に生きようとする誰かの体温に似ていて、彼女は一度、セオドアから身を離した。
「エルシィ、君……」
普段と違う様子にセオドアも、驚愕にそれ以上の言葉を失う。
エルシィが自ら意志を持ってロータスに触れると、うっすらと光っては弱まる光の点灯を繰り返し、立体魔法陣は手の平に吸い込まれて消えていった。
痛みもなく、寒気もない身体を見下ろし、エルシィは己の手を見下ろす。
そしてようやく理解が追いつくと、一筋の光を得たと確信して、エルシィはオッドアイを輝かせた。




