第96話
彼女の前ではすべからく、全ての人間が膝をつく。
銃口を構えていた軍勢も、立体魔法陣の中でもがき苦しんでいた少年も、彼女に抱きしめられた青年でさえも。
その中で春の花を芽吹かせる立体魔法陣だけが、怒り狂って膨張し、ウィズィの巨体を押し返した。
「……太古の昔、もう廃れた風習です。魔術師の魔術インクやペンのように、魔法使いには魔法具がありました」
伸びやかで落ち着いた、艶のあり少女のような、女の声が脳内にこだまする。
恐怖心を植え付ける美しい顔は、笑っているようにも無表情にも見えた。けれどもその声音は優しくトゥルバを導き、彼女の手が利き手と重なる。
「我が幸福なる子。聖女トゥルバ、貴方に授けます」
見上げた先で唇が動く。それに合わせて呼吸音が耳朶を打つ。
「貴方と、貴方の義家族を、護り抜きましょう」
その刹那、雷鳴が聞こえた。
空間が歪んで音だけがたわみ、呆然とするチェンノッタや軍勢の目の前で、一人の女が天から落ちる。
深い海を思わせる長髪と、憎悪と恐怖に歪んで泣き腫らすオッドアイが、トゥルバの背後に浮かぶ彼女を睨み据えた。
そのつま先が地面につくやいなや、大きく片手を振りかぶって、トゥルバが展開していた魔法陣を薙ぎ払う。
立体魔法陣はトゥルバへ届く前に霧散するが、衝撃は殺せず両手で顔面を守り眉を寄せた。背後の彼女がトゥルバの手を繋ぎ、同じく眉間の皺を深める。
それすらも秀麗な眼差しに、イザベルが真っ青な顔で泣き叫んだ。
「ああ、ああどうしてなの、なぜ受け入れたの、消えて、消えて消えて、消えて消えて消えて、っ消えてエルシィ、お願いよ、わたくしにセオドアを返して、あの方はわたくしを愛してくださったのよ」
半狂乱になっているイザベルが、指先を上向かせると、後ろで身動きが取れなくなっていた軍勢が動き出した。
しかし彼らも驚いた様子で、勝手に動いて銃口を構える自分たちに悲鳴を上げる。
彼女が、トゥルバを促して距離をとった。
ハッとして我に返ったウィズィも、いつの間にか拘束が解かれていたチェンノッタを抱えて、イザベルから離れていく。
全く周囲が見えていないイザベルは、もうこの世にはいない何かに恐怖し、慟哭するまま手を振り払う。
痛ましげにイザベルを見た彼女が、小さく呟いた。
「…………ワタシもシアドも、……もういないのですよ、エリザヴェータ」
淑やかな身体が、音を立てて組み変わっていく。
トゥルバの肩から片腕を覆うそれは、指先に引き金の感触を伝えて、彼は片膝をついた。
「…………“北斗七星夜明けに集え。昼夜の夢に、奮う命の灯火なりと”」
重厚な鎧に似た、けれども羽のように軽やかに馴染む銃火器に片手を添えれば、眼前にスコープが出現する。
「“東雲時して謳えや祈れ。白夜の如く、目覚めを知りて恐るなかれ”」
涼やかな声音で紡がれる呪文が、同時に脳へ反響した。
銃口の前、空中にトゥルバが使用する魔法陣が展開し、一分の隙もない二重丸が連なっていく。
肩から後方にはパイプ状の管が現れ、一対の翼に似た形状になり砂を巻き上げた。
トゥルバは呼吸を整え、スコープ越しにイザベルを見つめる。
呪文を繋ぐ最中、敵勢の挙動は随分と遅く、まるで時の流れが違うかのような感覚がした。
「“アサルジンシャリエ、我が眷属よ” “怒れや唸れと忘れるな”!」
硬いセーフティーが外れ、自動的にシリンダーが動き、この胸に込められた銃弾に思いを馳せ、トゥルバは引き金を引く。
「──っ“穿て、バジアステイロ”!!」
眩い輝きを放つ閃光が、銃口を出た瞬間に分裂して軌道を変える。
それは数百は下らない瞬きとなって、イザベルを含めた軍勢に襲いかかった。
ルーシェと同様、針に糸を通す正確さで、構えられた銃口に正面から入り込み、中で燻っていた火薬を押し返して爆破させる。
イザベルの守護を貫通した弾丸に、次々と銃火器が破壊され、軍勢は丸腰の状態で後ろにひっくり返った。
あまりの威力に、トゥルバは己の体すら後ろに吹き飛びそうだった。背後では土は抉れて砂が舞い、ともすれば意識すら持っていかれそうになる。
しかし構える巨大な銃が、まるで腕を掴み励ますような錯覚がして、歯を食いしばり衝撃に耐えた。
閃光が緩やかに消え、周囲はゆっくりと視界を取り戻していく。
力を使い過ぎたトゥルバは、点滅する視界を歪ませながら、前のめりによろけた。
すかさず銃器が形を組み換え始め、血管が浮かぶサボテン姿に戻ると、ルーシェが息も絶え絶えに、傾いたトゥルバの身体を受け止める。
「聖女トゥルバ、お疲れ様でした。よく頑張りました」
「…………お前……」
「喋ると体力を消耗します。といっても、ほとんど動けないでしょう。無理は禁物です」
大きな一つ目が網目状の体内で忙しなく転がり、彼女はトゥルバを労って己の体躯に担ぎ上げる。
そしてすっかり戦意喪失した軍勢に視線を戻して、──薄い目蓋を大きく見開いた。
「…………ちがう」
逃げ腰で地面を這う軍勢の前で、ただ一人。擦り傷すらついていないイザベルが、愕然と立ち尽くして呟く。
「…………ちがう、あなたは、エルシィじゃない。こんな、……っこんな弱い力など、エルシィじゃない……!」
ルーシェの上に乗りながら、トゥルバも息を飲んだ。
聖女の体力も気力も、根こそぎ奪い放たれた銃弾である。明らかに通常の魔法より逸脱した威力だったはずだ。
けれども視線の先にいる女は、髪すら乱れず、ゆっくりと片手を突き出す。
「あなたじゃない、っあなたじゃない、あなたじゃない! 彼女の姿でわたくしを偽るなど、あの方への冒涜だわ……!!」
空に、種子が浮かんで、芽吹く。
今まで見てきた物の比ではないほど、緻密で美しく、残酷な恐怖を煽る立体魔法陣が形成されていく。
トゥルバは唖然と見上げて、察するしかなかった。
こんなものを防ぐ方法など、どこを探しても知らないことを。
「…………対抗できるほど、もう、この身に力は、ないのですね」
呟いたルーシェが己を奮い立たせ、トゥルバを地面に下ろすと、体躯を膨らませて背に庇った。
背後から根を動かし寄り添ったウィズィも、ルーシェの体躯へ根を回して覆い被さる。
トゥルバは痛む体に鞭打って、意識がなくなっていたチェンノッタの頭を両腕に抱きしめた。
鼓膜へ忍び込むように、イザベルの狂った笑い声がする。
「大丈夫ですよ、大丈夫。また創造してあげましょう。痛いことも苦しいことも、生まれ直せば世界は全部、まっさらになりますから──」
それは独りよがりでひどく傲慢な、慈悲深い愛。
イザベルが柔らかく片手を払えば、立体魔法陣が傾いて、ルーシェが放つ弾丸のように、しかし似て非なる輝きを持って、トゥルバたちに降り注いだ。
逃げ道はない。迎えうつ力も残っていない。
トゥルバは心の奥底から湧き上がる恐怖に、生まれて初めて小刻みに震えながら、強く目蓋を閉じて奥歯を噛み締めた。
「………………?」
身を固くして衝撃に備えていたが、一向に光の雨は届いてこない。
恐る恐る目を開けば、身を寄せ合って耐え凌ごうとしていた仲間の前に、二つの背中が見えた。
「いいえ、世界は進むわ。あなたには、わたしの全てを渡さない!!」
地面に片膝をついたセオドアに抱きしめられ、同じく膝をついたエルシィの周囲で、静謐で芳しい香りを放つロータスが咲き乱れる。
それらはイザベルが打ち込んだすべての力を、真っ向から打ち滅ぼした。
セオドアがエルシィの耳元に唇を寄せ、彼女は鈍い痛みに表情を歪めながら、悪意の塊を指差す。
ロータスが開花する立体魔法陣は、エルシィを害なすことなく光り輝いた。
まるで愛によって芽吹き、大切に守られる命の、穏やかな胎動のように。




